第六十二話 井の中の蛙
真白な空間。
そこはまるで海のようで、しかしあったかい空気感が身体中を纏う不思議な感覚が続いていた。
ひたすらに脱力した僕の身体を、少しずつ浮かせるようなそんな気分と共に僕の心は揺らいでいた。
感情も。記憶も。
ただ揺らめく、水の中を漂う魚のように。
『行ってはいけないよ。それ以上先に』
静かな、優しい声音が僕の鼓膜を撫でた。
誰だろうか。聞いたことのない、聞き心地の良い声音だった。
『目が覚めたようだね。やぁやぁ、良かった良かった』
薄く瞼を開けた先。
そこにいたのは、嬉しそうに笑う赤い色のイルカだった。
『って、イルカが喋ってるー!?』
『アレ、君の知識ではイルカは話さないものなのかい? 珍しいね』
まるで当たり前みたいに、流暢にそう語ってくるものだから混乱する。
イルカって話す生き物だっけか……?
『話したって特段不思議じゃないさ。ほら、だって哺乳類だしさ。賢いイメージあるでしょ?』
『確かに……僕も直接会ったことないし、イルカは喋る生き物だったのか』
新しい発見である。
思えば海を直接見たことはない。
イメージだけで話していた。
彼の言うところの、賢いイメージで言えば、間違いなくイルカは賢いイメージが強い生き物だ。
なんなら動物で一番賢いんじゃないか、とも思っている。
ならば、話したって不思議じゃないか。
『普通は話さないけどね』
『なんだったんだよ、今の時間!?』
『あははっ! 揶揄い甲斐があるなぁ君は』
悪戯っぽく笑って見せるイルカの姿は、見た目が違うだけで人間のようだった。
人間のように、感情が豊かなイルカだった。
『まぁ、何はともあれだね。君には大事なことを伝えたくて、ここに呼ばせてもらったよ』
イルカは話を変えるように咳払いをして、そう言った。
『ここ、と言うのはこの白い空間のこと?』
『そうさ。ここはボクの故郷を想像した空間だよ。意識内のみの実在はしない心の世界さ』
故郷の想像、と言う点を踏まえてみると先程までの感情とは違った感想が浮かんでくる。
殺風景で、何もないこの世界がイルカにとっての故郷だと言うのか。
それはあまりにも、儚い気がして。
『そんな顔するな。これでもボクは気に入ってる』
僕は気づかないうちに顔に出していたようだった。
『ごめん。そんなつもりじゃ』
『良いさ。まぁ、誰もがそんな反応をするだろうさ。ここは何というか……世界の外側の世界、って感じだからね。人が見ることができない精霊の世界なのさ』
『精霊……? ってことは君も』
僕の言葉に強くイルカは頷いた。
『そうさ! ボクは、イルカ。第二支部に教会が配置された、守護精霊。イルカだよ』
『守護……精霊? ていうか名前もイルカなのか……』
『精霊にとって名前はあまり意味をなさないからね。そも名前という文化は人が作ったものなんだよ?』
言われてみれば確かに。
ぐうの音も出ない正論だった。
イルカは続けた。
『そろそろ本題に入ろう。君をここに呼んだ理由だけど……』
端的に言って、その後に続くイルカの言葉はおよそ受け止め切れるものではなく。
僕が短い時間放心してしまうような、衝撃の懇願だった。
『是非、ボクを──殺して欲しいと思ってね』
—
魔術だけでは足りなかった。
気術は身に付かなかった。
祈祷術では届かなかった。
体術をやって、初めて一人前になった。
それらを極め続けて私は、
一番目となった。
—
(驚いたわぁ。まさかここまでとは……)
薄れゆく意識の中で、一番目は感嘆の声を上げる。
四肢はもがれ、無様な肉だるまの姿で地を転がりつつも、彼女の中に悔しさなど微塵もなかった。
ただあるのは、目的地にどうやって辿り着くか。
(彼女の攻撃も洗練されてきている……私の余力も限界が近い。さすがに……マズイかしらぁ?)
一番目の人生に於いて、最多の死亡回数は二七回である。
とある魔人との戦いで死に死を重ねて勝利を得たが、その時の負傷レベルは想像を絶するものだった。
岩ですり潰され、熱で蒸発し、氷に閉じ込められ、丸呑みにされた。
しかし、丸呑みにした瞬間体内で暴れ回り勝利を得たという、何とも腑に落ちない勝利方法だったが、それでも一番目のプライドは傷付かなかった。
彼女は理解している。
自分自身が強くないことを。
本来、他の子ならば途中で死んでリタイアしてしまうような状況であっても、一番目は再生してやり直しているだけなのだ。
彼女は理解している。
自分自身の強みを。
彼女はほぼ無限と呼べる再生の力こそ、自分を一番目たらしめた要因であり、悪魔達を狩ることが出来た力なのだ。
彼女は理解している。
自分自身が脆いことを。
再生する力が突出しているだけであり、その他は平凡だ。
故に、圧倒的攻撃力、圧倒的速度、そして何より戦闘のセンス。
その全てを兼ね備えた者を敵にした場合、彼女が取れる行動は何もないことを。
だからこそ手を伸ばす。
本来あるべき力に。
自分の努力の結晶を掴み取るために。
「本当にしぶといお人だ。死ににくい。これだけでこうも厄介か」
死神の足音が迫る。
自身で切り分けた鉄の壁からゆらりゆらりと、幽鬼が如く悠然と。
既に一番目の身体は再生した。立ち上がり、埃を払って両者視線を交わした。
「厄介なのはこっちよぉ。早々に諦めてくれると思ったのに、全然諦めないんだもの。まいっちゃうわぁ」
「残念ながら武道に諦めるという文字はない。そこもとが、先生の邪魔をするというのなら、拙者もまたそこもとの邪魔をするのみ」
「有言実行する強さも伴ってるってのが本当に厄介だわぁ」
楓は間違いなく強者だ。
一番目が認めるくらいには彼女の強さは突出している。
何せこの三十分と満たない時間で何度も何度も殺された。
それだけの攻防を刻めば、骨の髄まで楓の実力は伝わってくる。
恐らく第一支部の数字持ちには軽くなれるだろうし、もう随分前に行方不明となった二番目くらいなら倒せるかもしれない。
何せ二番目が一番目を殺した回数は、たった十回に対して。
楓は。
「隼一刀流────────」
都合四二回。
一番目を殺していた。
「雀の舌切り!!」
刀を顔と水平に構え、捲り上げるような剣閃を描く。
それは正に、雀の舌を斬り落とすような正確さで、一番目の頭目掛けて下段から強襲する。
その一撃を心の中で称賛しつつ、バク宙をして躱す。
続く連撃は風を斬り、鼓膜に心地よい音を届ける。
しかしそれは命を断つ斬撃だ。
本来であれば僅か数秒でなますぎりにされていることだろう。
しかし、一番目も無駄に死んでいたわけではない。
幾度も死に、遂には楓の動きの全てを記憶し、その速度、タイミング、癖を理解した。
故にもう、楓の剣が一番目に届くことは──。
「隼一刀流」
余裕を感じさせる間合いの中で、一番目は見た。
彼女の構えた突きの名称こそ、戦闘の中で聴いたものであったが、その形は凡そ──見たことのないものであった。
「目白突き!」
「────────っ!?」
この場で創作した新たな突き。
貫通を目的ではなく衝撃を齎す、真空波を纏った突きは一番目の身体をへこませて、鉄の壁諸共貫通し吹き飛ばす。
本来であれば、空気を切り裂き、対象物を簡単に貫く突き。
それを技術のみで真空波を伴う衝撃に変換した。
それは正しく──
「正解よ……」
一番目への、対抗策だった。
彼女の持ちうる死すら覆す再生能力は、内部出血や完全な破壊にならないものに弱い。
欠損や破壊であれば即座に再生ができるが、全身の毛細血管の破裂や骨にひびをいれる程度の怪我では、百パーセントの力を発揮出来ないのだ。
研究所の鉄壁を四つほどぶち抜いて、瓦礫の中に倒れる一番目は血を吐きながら感嘆する。
まさか自分の攻略を、第二支部の子がしてくるとは。
恐れ入った。
「そこもとの再生能力は恐るべき脅威だったが、完全に切り落とした時と、蹴った殴ったをした後では動きが少しだけ違った。もしやと思い、試したが当たりを引いた」
「全く強すぎよ……あの男が生きていたらわからないけど、間違いなく二番目より強いわ」
「笑止。拙者の研鑽は他の追随を許さないものだ。よもや、一番目がこの程度とは思ってもいなんだが……まぁ仕方あるまい。このままそこで寝ていてもらおう」
切先を突き付け、動きを制限する。
とはいえ切り落とせばまた新しい腕が生えてきてしまうので、安易に攻撃できないのも事実だ。
だから、
「まだやるのか?」
一番目が立ち上がっても、呆れた様子でそういった。
「当たり前じゃない。私は一番目。ただ一人の、一番目なのよ」
「それが間違いだっただけだろう。井の中の蛙、とは言ったものだ。そこもとも、拙者も。世界の広さをまだ知らなんだ──まさかそこもとがそこまで弱いとは」
一番目は怒らない。
しかし、少しだけ気に障った。
弱いわけではないと言い訳をしたいのではない。
「面白いこと、言うじゃない」
自分が強いと証明したいわけでもない。
「井の中の蛙……ねぇ。それ」
だが、理解した。
多分この子ならば──。
「貴方のことよ」
全力で行っても、壊れないと。
瓦礫の中には潰れた机があった。
そこはシムラの書斎であり、シムラが管理していたものが置いてある秘密の部屋。
そしてそここそが──一番目の求めていた部屋だった。
手に握る淡く透明な鍵。
それを自身の頭に、思い切り突き刺す。
おかしなことをしだす一番目に、楓は警戒して、刀を強く握った。
そして。
ガチャリ。と、何かが開く音がした。
「な、なんだ!?」
その瞬間、楓は書斎から外の運動エリアへと吹き飛ばされた。
刀を地面に突き刺して、慣性を殺す。
自然を表現したこのエリアは第二支部の子らの特訓用として利用されている施設であり、そこがただの気の振動で揺れているところなど、楓は見たことがなかった。
書斎。
そこに立つのは先程まで戦っていた一番目と変わらない姿だ。
だがその身体から放出される気の質は段違いに上昇している。
一体何が──。
「井の中の蛙、大海を知らず。代わりに」
体から溢れ出る液状の白い何かが一番目の身体を突き破り、その表面を覆っていく。
形は騎士のように。
それは第二支部の子らが着用する遊びの騎士装束ではない。
正しく鎧。
二の腕ほどの短い剣を二対持ち、最後に兜が精製され、一番目の素顔は見えなくなった。
「────死神を見る」
そこに立つのは死神。
白い死神だった。
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