第四十五話 脱出
「女……のこ」
巨大な円柱型の水槽。
大きさは五メートル以上あるだろうそれは、緑色の溶液で満たされていて、時折泡が下から上に向かって浮かんでいった。
その中心部に膝を畳んで浮かぶ少女は、僕の知る人間の姿はしていなかった。
水色と白色の肌で毛はなく、まるで魚のよう。
女の子と思ったのは、なんとなくだ。
何となく、彼女を女の子と感じた。
「希望……、ああ、素晴らしい」
恍惚な表情でシムラは言う。
彼女の名前だろうか。
「紹介しよう。彼女はエルピス。第二の勇者となるべく、その生誕を待ち焦がれている」
「エデアーレ……ではないんですね」
「それはぼくだけの愛称さ。気にしなくていい」
シムラは円柱型の水槽に手を当てる。
その中に浮かぶエルピスを見つめる目は、ただの研究者と研究対象には思えなかった。
本当に深い愛情を持って接しているような、そんな気がして。
「さぁ、血の摂取を始めよう。協力して、くれるね?」
「はい……」
僕はシムラに対する敵愾心を失っていた。
彼の言う通り、これは世界から悪魔を滅ぼすために必要な処置だ。
誰も犠牲にならないのであれば、この研究にも問題はないように思えて。
『たす────けて』
「え?」
その時初めて、ハッキリとその声を聞いた。
視線の先、水槽に浮かぶ少女の眼は開き、僕を見据えている。
大きな瞳と視線が交差する。
クリクリで翡翠石のような、綺麗な瞳に吸い込まれ、僕は思わず。
「いや、です」
「なに?」
シムラの手を取らなかった。
「ダメな気がする……この実験は、やってはいけないような」
「大丈夫だ。ぼくの実験は成功した。見たまえ、君の横にいるリオこそ成功例だ。そこから四人も成功している。問題はない」
「だけど……」
だが、これから行う実験は初めて行うものだ。
希少な悪魔憑きの血を扱うのは、今回が初めてのはずだ。
でなければ、僕のことを探したりしない。
だからこそ、この実験は危険なのだ。
そして、少女は僕に助けを求めている気がする。
そういう瞳をしている。
だから僕は手伝えない、シムラの研究には。
渋る僕の姿を見て、シムラは大きく溜息をついて、
「リオ」
冷たい目で名前を呼んだ。
「はい」
間髪入れずに答えるリオは、詳細を聞かずとも命令を理解して僕を羽交い締めにする。
「り、リオさん! やめてください! 僕は!」
ガッチリと固定された腕はどれだけもがいても、外れることはない。
まるで鉄に掴まれたようだった。
細いチューブと注射器を持って近寄るシムラ。
その瞳にはもう僕のことは映っておらず、僕の皮の中にある血にしか興味がないようだった。
取り憑かれたような緩慢な動きなのは、もう少しで夢が叶う現実感に酔いしれているのか。
僕が手を伸ばせば振れる位置に着いた時、シムラの瞳は血走って、とてもいつものシムラには思えない。
「シムラ先生!!! 目を覚ましてください!!」
「目を覚ますのは世界の方だ。今こそ証明される。君の、血によって!」
シムラは注射の構えを取る。
ゆっくりとゆっくりと針は迫る。
「やめて! 嫌な予感がするんです!! この実験はうまくいかない!!」
「子供の勘で実験を辞めていたら世界はとっくに廃れている。ぼくを信じろ」
「やめろーーーーっ!!!!」
僕の叫びは届かない。
シムラはもう肌の先の血管に集中している。
リオは無言で僕を絶対に逃さない鉄の像と化している。
針が僕の肌に突き刺さろうとした、その瞬間。
「────第七階位術式」
聞き覚えのある声が、耳を打った。
闇を払う赤い光が部屋を埋め尽くす。
壁の色が熱で変色して、言葉と共に強力な熱波が部屋を焼いた。
「幼炎龍の慟哭」
世界を焼く熱線が、シムラに向けて放たれる。
狼狽えたシムラは両手で自分の身を庇うように覆った。
その正面に──リオ。
「はぁっ!!!」
両腕が肥大化。黄金と黒が混じる毛並みを持った極太の腕が、金色のオーラを纏って熱線を防ぐ。
鉄の壁を貫いて焼き殺さんと放たれた熱線は、リオのガードによって完全に防がれた。
無傷だった。
「た、助かったよリオ」
「いえ、先生。それよりも」
「ああ。どうやら、アッコロ達がしくじったようだ」
二人が見据える先、膨大な熱量によって溶け落ちた壁の奥。
そこに立つ黒髪を二尾靡かせる、小さな魔女がいた。
怒りの目をギラつかせ、リオを睨みつける。
それに応えるようにリオは嬉しそうに一歩踏み出す。
「第一支部の八番目が相手とは、申し分ない」
「知らないわ」
対してカリストはつまらなそうに返す。
「燃やすだけよ」
身の丈ほどもある杖を構える。
その瞬間、火の球が三つ生成と同時射出された。
詠唱破棄。限られた強者にしか使えない、魔術の到達点の一つだ。
瞬きの間に迫り来る摂氏千度の火球は触れれば、たちまち肌が焼け解けてしまうだろう。
だがそれに対して身を翻し、軽々と避けてのけるリオ。
「ははっ! 良いね!」
「素が出始めてるわよ──それ」
三つでは当たらない。
そう判断したのか、カリストの周りには炎の弾が次々と浮かんでいく。
十、二十、五十と。
弾の大きさを小さくして、当てることに注力した。
数打ちゃ当たる戦法だ。
「命取りじゃない?」
再び振り下ろされる杖の指示に従い、炎の弾幕が展開される。
広い空間ならまだしも、ここは狭い研究所だ。
避ける空間すら無くす物量で攻めれば、さすがのリオであっても避けきれまい。
しかしリオはその炎に対して、試すように舌を舐めた。
弾幕の隙間を縫うように跳躍。
流れる水が如く、空間の中を飛び回る姿はまるで鳥のように優雅だった。
地面を、壁を、天井を縦横無尽に駆け、着弾しそうな炎の弾は獣の爪で弾き飛ばす。
そうして跳躍をし続けていくうちに、目に見えない速度に到達し、
「虎牙──」
杖を構えるカリストの正面に出現する。
瞬間移動したような、その動きに。
カリストは反応出来ずに目だけを開いた。
「──王爪!!」
大きく振りかぶった爪による振り下ろし。
跳躍を重ねたことにより助走の力が乗算され、四つの斬撃はカリストを五つに切り分けた。
その威力は人体を斬るだけに留まらず、背後の鉄の壁にすら爪痕を残し、その威力を証明した。
だが、
「悪いけど、不意打ち、以外の方法で私を倒すには骨が折れるわよ」
「なに?」
切り裂いたカリストの肉体が笑いながら話しかける。
そのまま消えるように霧散して、リオの横に新しく出現する、カリスト。
それを、瞬時に爪で薙ぐが、また笑いながら溶けるように消えていった。
「せめて“魔術が効かない”くらいないと、ね」
「……幻覚、か」
「陽炎……どれが本物だと思う?」
ふふふ、あはは、と笑い声と共に次々と現れるカリスト達。
水槽の上に、或いは壁に埋まるように、地面に寝るように、空中で逆さ立ちするように。
あり得ない状況下で冷静にリオは判断を下した。
大きく息を吸い、胸が鳩胸のよう肥大化し、そして放たれる──咆哮。
「虎牙王砲!!」
気術を伴って放たれる咆哮は空間の振動に強力な破壊力が込められる。
カリストの幻影は咆哮に当てられ、次々に姿を消して──一体も残らなかった。
「……どこだ?」
「ここよ」
リオは声のする先に視線を飛ばせばそこには、カリストと、何者かにお姫様抱っこされてる僕。
シムラはしまった!? と言って頭を抱えていた。
「退散させてもらうわ」
終始カリストの掌の上で展開されたこの勝負、決着こそつかなかったが、傍目から見て僕らの勝利なのは疑いようもなかった。
カリストは最後に自分たちが溶かし破壊して入室した壁を炎魔術により爆破。
完全に退路を確保してからの撤退である。
–
「いやー参った! 逃げられてしまったね!」
「追わなくてよろしいので?」
リオはカリストが入ってきた壁ではなく、本来の出入り口に手をかけるが、扉の隙間から手を焼くような高熱が噴き出し、赤白い光が垣間見える。炎魔術で溶かして接着されたのだろう。
力づくでやろうと思えば開くだろうが、シムラは首を振った。
「彼は帰ってくる。この希望を見て、彼は動揺していた。彼の中の正義が揺れ動くのを感じた。純粋なんだ、要は」
水槽の中に浮かぶ少女には手がつけられていない。
それもそのはず。水槽自体は強化ガラスで作られており、本気で壊そうとするなら研究所ごと吹き飛ばす勢いで挑まねばならない。
それを実行すれば仲間諸共あの世行きだ。
カリストにそんな真似はできまい。
「必ず来るよ、ケンは。だからぼく達は心して待とうじゃないか」
そしてシムラは信じていた。
彼の中の善性を。
自分の行っていることの歪さを。
それでもなさなければならない。
世界から悪魔を消すために、新しく勇者を作るのだ。
この願いは誰に認められなかったとしても、必ず自分の手で成し遂げる。
その強い意志を持って、水槽の中で自分を見つめる少女の瞳を見つめて、シムラは言う。
「彼が何になりたいのかを、漸く聞けそうだよ」
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