第二十九話 前章 理想と現実
──今から十五年前。
エルバハ独立国はエヌーク共和国の中にある、小さな国でそこは天魔教の総本山だ。
世界で最も小さな国とされ、エヌーク共和国内にある巨大な湖の周りとその中心に建てられた礼拝堂が、国としては異様の光景のため天魔教の事がなかったとしても有名になったことは間違いない。
巨大な湖の中心にポツンと浮かぶ島、そここそが天魔教の本部であり、教皇が住まいだ。
更に研究施設もあり、悪魔に対抗するため、日々魔術、祈祷術、気術、全ての分野で研究がなされている。
そんな研究施設は地下に設立され、一人の男が薄暗い部屋の中で魔術の研究に没頭していた。
「あと少し……あと少しで」
長身痩躯に白衣、更にはメガネをつけた男性は正しく研究者といった格好だった。
男の前には巨大な円柱状のカプセルが設置されて、中を充分に満たした緑の液体の中に浮かぶのは──バケモノだ。
片翼、羊の角に牛の顔、蛇の尾。
盛り上がる筋肉質の身体。二足歩行に歪められた肉体はおよそ人間のものとは思えず、様々な動物の体が融合したハイブリッドなものだった。
このカプセルに浮かぶ生物こそ、男の研究の集大成だ。
だからか、男のその生物を見る目はどこか恋する乙女のようで。
瞳は闇の中に輝く一番星が如く煌めいていた。
「トロッコマン教授」
誰もいない部屋に響く、しわがれた男の声。
呼びかけられた男──トロッコマンは振り返り、部屋の出入り口に視線を向けた。
そこにいたのは、白衣を着た老爺だ。
腰は曲がり、白髪頭の男は齢七◯は行っているだろう。
その男を見るなり、トロッコマンは安心した様子で、
「ヴィルク先生でしたか。いかがされましたか、こんな時間に」
時計を一瞥すれば既に深夜三時を回っている。
研究に没頭しすぎたようだ。
トロッコマンは反省反省、と頭を掻いた。
「いやね、野暮用さ。わたしもこんな体だ、本来なら生徒の一人や二人を派遣するのだが、さすがに教皇陛下直々の命となっては、動かざるを得まい」
「教皇直々……? そんな大層な案件、直近であったかな」
トロッコマンは記憶の中を探すが、そもそも教皇陛下と話したこと自体数年前のレベルだ。
教皇陛下が動き出すときは基本緊急事態があったときであり、その他は司教が動く。
教皇陛下自らとなれば相応の緊急性がありそうだが、彼に心当たりはなかった。
「ははは。言ったろ、野暮用だと。用事はもちろん、君に会いにきた。教皇陛下からの、ありがたいお言葉を伝えに、な」
トロッコマンは訝しむ。
ヴィルクの表情、言葉選び、その不穏な雰囲気から、何かを感じ取る。
「それは、一体?」
「なに。単純なこと、君の研究を白紙にする、そうだ」
「……な」
ヴィルクに言い放たれた言葉に、思わず膝を降りそうになったトロッコマンはすんでで耐えた。
だが押し寄せる不快感はめまいを引き寄せ、近くの机に寄りかかる。
「なぜ、そのようなことを」
「知らん。わたしはただ、教皇陛下の言葉を伝えただけだ。君には今日中にここを出ていってもらう。あぁ、安心したまえ、私物さえ持っていってくれれば、後片付けはわたしがしよう」
「何をバカなことを!!」
感情のままに机を思い切り殴った。
淡々と述べるヴィルクには感情がない。
言葉の通り、本当に教皇陛下の言葉を伝えているだけなのだ。
そこには十年かけてきた研究への思いや苦労に対する配慮などかけらも感じられない。
だがトロッコマンは違う。
「ぼくの混成魔獣の研究は、今もなお戦場で命を散らす同胞を救う手立てだ! 修道者が、人が無駄に命をかけなくとも多くの人間が救える! 混成魔獣に使用するのは死んだ動物と魔核! 犠牲はないんだ!! まだ上手く合成に馴染まず動いたことはないが、ここまで形になってきたんだ!! それをこんなところで!!!」
「君の研究成果は論文で見させてもらったよ。素晴らしい研究成果だと、わたしは思う。だが、教皇陛下は違った。それだけの話だ」
「冗談を……」
「冗談ではない」
「ふざけたことを言うなと言っているんだ!!!」
机の上に積み重なる膨大な紙の束を思い切り押し倒す。
散らばる紙が、積んできた努力が無に変える様を表しているようだった。
眼鏡のガラスの奥に映る、ヴィルクは今でも平然としている。
これほど自分は追い詰められているというのに、何の感情も動かず──動かず?
「ヴィルク先生。ぼくの研究が白紙になるとおっしゃいましたが、そうなるとぼくは次、何の研究をすれば」
恐る恐る口にしたその言葉。
自分の中の最悪が形にならない事を祈り、視線をヴィルクへと向けて。
「──あぁ、言っていなかったな」
彼が笑っているのが見えた。
「君はここの研究所から除籍だ」
「バカな!」
再び激昂。
机を殴る拳はとうに血塗れであった。
「ぼくはここの責任者だ!! 十年以上もここで缶詰をして研究をしてきたのになぜ今更!!」
「魔殺しの子供達」
「な、何だそれは」
ヴィルクが呟く聞きなれない言葉に、トロッコマンは狼狽した。
続く言葉を聞いてまさか、それ以上に驚くとは想像もしない。
「世界中の孤児や身寄りのない子を引き取り、悪魔退治の専門家として育て上げる。子供の覚えは早く、例え死んでも調達は楽だ。これほど素晴らしいシステムに、なぜ今まで気が付かなかったのか。頭が痛い話だがな」
「き、貴様……自分が何を言っているのか」
「何だ。まさか、子供を戦わせるのが非道だとでも言うのか。面白いな。ならば君は、寒い雪の中で、子供が凍え死ぬ方が良いと言うのか」
「違う! 詭弁だそんなものは!! ぼくは、子供を犠牲に成り立つ世界なんてあってはいけないと言っている!!」
「それこそ詭弁だと言うことになぜ気が付かないのか。子供はダメだが、動物は良いのか。人間でなければ許容できるのか。素晴らしい価値観だな。拍手を持って讃えよう」
いやみったらしく、ヴィルクはわざとらしく拍手をした。
そこには敬意はなく、
「だがな」
ただひたすらに軽蔑のみが込められていた。
「そんなこと、この世の多くの人間は気にしないものだよ」
「な……にを」
「地球の裏側で子供が死のうが、赤子が死のうが、誰も気にしない。それを知る手段がないからだ。ひっそりと或いは悲惨に死ぬ、子供達を慈しむ声がどれほどあるだろうか。ならば、世界のために、悪魔を殺し死ぬことこそ、生まれてきた意味もあるというものだ」
「ふざけるなよ……そんなもの!」
掴み掛からんとトロッコマンは駆け出した。
その様子にヴィルクは溜息をついて、
「これ以上は水掛け論だな」
パチンと指を鳴らす。
瞬間、ヴィルクの背後から影が飛び出し、あっという間にトロッコマンを拘束した。
影の正体は黒尽くめの衣装を着た修道者。顔にはGとかかれたマスクを着用している。
「こ、こいつらは執行者!? なぜこんなところに」
執行者。
それは教会内外で、排除するべき存在とされる者を秘密裏に処理する団体、異端審問部の刑の執行役である。
構成員の全てが手だれであり、悪魔よりも人に対して特化した戦闘術を要する。
「予定は変更だ。君の私物は、後から送り届けよう。そして喜べ、君はその魔殺しの子供達の十ある支部の一つ、第十支部を担当するブラザーとして選ばれた」
「ま、待て! ぼくが子供達を捕まえに行くのか! ど、どれだけ人をバカにすれば」
「せいぜい多くの子どもを救い、多くの子どもを死地へと送ると良い」
ヴィルクの言葉が終わると、執行者に連れられてトロッコマンは闇へと消えていった。
彼の声は消えゆく最後まで子供を犠牲にする悪逆に対して、正義を叫んでいた。
その声を聞きながら、ヴィルクはカプセルを眺める。
バケモノは目を覚さない。
当たり前だ。人工的に合成した魔獣に命など宿るわけがない。
あの程度の研究者では。
「神も、君の行いを喜んでくれるだろう」
ヴィルクは微笑み、カプセルを眺める。
そう。あとは自分の好きなように。
──それから、十五年の月日が経ち。
シスターワテリングが悪魔憑きとなり、エンドラインを襲っている際。
エルバハ独立国の魔術研究所は火の海となっていた。
十五年前のトロッコマンが使用していた時よりもより広く改造され、設備も増強された研究所は破壊の限りが尽くされたあとだ。
研究者たちは逃げ惑い、駆けつけた修道者が避難誘導をしている。
その火の海を抜けた先、かつてカプセルがあった部屋はヴィルクの自室となっており、そこには。
「ふ……ふ……く、そ」
腹を鉄棒で貫かれ、今にも息絶えそうなヴィルクがいた。
その前には、長身の影。
背後に続く五つの影。
火の光源が強すぎてヴィルクからは誰かは見えない。
だが、ヴィルクは何となく、察していた。
「十五年ぶり、だな。未だに憤怒の炎をたぎらせていた、とは……よもやだ」
「…………」
「それで。多くの子どもを死地へと送ってきた感想を聞かせてくれよ。聞いたぞ? 最初こそ第十支部と呼ばれていた君の支部もだいぶ順位が繰り上がったそうじゃないか。てっきり、あの時の幻想を叶えようとするものだと思っていたが、まさか拍車をかけるとは。やはり……教皇陛下の判断は正しかったわけだ」
「…………正しい?」
初めて口を開いた男の声に、ヴィルクは体の空気を全部吐くつもりで笑った。
「そうだろう! 陛下の判断で、多くの悪魔が討ち取られたのだ。世界中の人々が君と魔殺しの子供達に敬意を表したことだろう! 神も喜んでいるさ! ははは!!! ……がふ」
重傷でありながら高笑いなどすれば、悪化するのは自明の理。
感情の昂りは頭が麻痺しているのか。
吐血しつつもヴィルクは嬉しそうにいう。
「だが何はともあれ、君はわたしへの復讐を達成したわけだ。どうだい、感想を聞かせてくれよ」
当てつけか。
最早死ぬ未来が確定した今、ヴィルクに無駄な足掻きをする気力はなかった。
せめて、あの偽善を吐き散らかした男が、なんて言い捨てるのか気になって。
徐に机を漁り出す男にヴィルクはハテナを浮かべた。
「何を、している?」
「見つけた。これか」
そう言って男は小さなケースを拾った。
ヴィルクの私用の机の上、論文と共に置いてあった小さなケース。
それを開けば中には小さな骨が入っていた。
「き、貴様! それが、何かわかって……がふっ」
そこまで余裕綽々としていたヴィルクの態度は豹変する。
まるで自分の宝をとられたかのように狼狽し吐血する。
その様を見て、男は確信し呟く。
「やはりこれが三重望の聖遺物か」
「それはわたしの研究だ!!! 分かっているのか、それを持ち出せば明確な教会への……ぐっ」
ヴィルクはもう長くない。
だが命より大事な研究成果が奪われそうになるのを、黙って見ているわけにはいかなかった。
「……君は」
そして紡がれる理解が出来ない言葉に、ヴィルクは思考を停止した。
「君は──第三の手を知っているかい?」
こうして天魔魔術研究所襲撃事件は幕を引いた。
驚くべきことに全焼した研究所に対し、死者一名をのぞいて、怪我人はゼロという奇跡が起きた。
皆が皆、神の奇跡に感謝した。
毎日の祈りが届いたのだと。
その後、焼け跡から見つかったヴィルクは何かに押し潰されるように壁にめり込んで死んでいたという。
大きな大きな、手形とともに。
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