89 『河野父子の和解』と『塩飽衆の帰還』
1542年5月初旬。
河野通直と河野晴通の和議が成立した。
来島城の麓にある小さな寺。
堂内には香が焚かれ、静かな空気が漂っていた。
河野通直と晴通は、互いに重臣を従えて向かい合う。
二か月に及んだ来島城の攻防は、楠予家の援軍もあって落城には至らなかった。
通直は白髪を揺らし、低く言い放つ。
「……晴通。わしは未だ隠居するつもりはなかった。だが、この二月の争いで家中は疲れ果てた。これ以上は伊予を乱すだけよ」
晴通は深く頭を下げ、静かに答える。
「父上、我らが刃を交えれば、伊予は他国の餌食となりましょう。どうか、ここで正式に御隠居をして頂きたい。されど父上の威光はなおも健在、私はその後ろ盾を得てこそ、家を治められるのです」
重臣・曽根高昌が進み出て、両者に向かって声を張る。
「御屋形様、若殿。これ以上の争いは国を割るのみ。ここは和をもって家を保たれるが肝要にございます」
通直はしばし沈黙し、やがて大きく息を吐いた。
「……よかろう。わしは隠居し、家督を晴通に譲る。ただし、政に口を出すことはやめぬぞ」
晴通は深く拝礼した。
「父上のお力添え、末永く賜りたく存じます」
寺の本尊の前で、両者は誓紙に花押を記し、和睦は成立した。
こうして河野家の父子相克の戦いは、二か月で収束を見た。
この後、通直は娘婿の村上通康に見放され、数か月後に来島城を追われることになる。
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5月初旬。楠予屋敷。
兵馬と大野が兵五百を率いて池田の里へと帰還した。
「御屋形様、通直公と晴通殿の和議が成立したため、ただいま兵を連れて帰還致しました」
「うむ、ご苦労であった」
嫡男・正継が眉を寄せる。
「……父子の和議が結ばれたか、果たして長く続くだろうか」
広間に一瞬、重い沈黙が落ちた。
戦は収まったはずなのに、誰もが胸の奥で同じ疑念を抱いていた。
玄馬が顎に手を当てる。
「今少し争って貰いたかったな。我らは半年前に領土を倍増させ、ようやく領内が安定してきたばかり。いま河野家を討ち領土を拡大させるのは少し難しい」
源太郎は静かに頷いた。
「そうだな。だがそれもあと数カ月の事だろう」
楠予家は軍勢を動かせても、領土拡大の準備が整ってなかった。楠予家の制度がいかに優れていようとも、こればかりは時間が必要だった。
※※※※※
約2ヶ月後の7月初旬。
夏の陽射しが照りつける広江港に、白帆を張った塩飽衆(しわくしゅう
)の船が1隻ゆるやかに入ってきた。
港に集まった人々がざわめき、やがて船が岸に横付けされた。
港からは直ちに――塩飽衆の船が帰還したとの報せが、次郎の元に届けられた。
次郎は報せを聞くや否やと、豊作たちを連れ、急ぎ広江港へと馬を走らせた。
次郎は豊作や家臣たちと共に桟橋へ進み出て、船長に深く頭を下げる。
「宮本殿、ご苦労であった。無事の帰還、何より嬉しく思う!」
船長の宮本海之進は、日焼けした顔に笑みを浮かべた。そして次郎に抱きつき、挨拶代わりの抱擁をする。
「ただいま戻ったぞ! 琉球との交易、無事に果たして参った!」
次郎は今回の交易で中型船1隻と契約し、琉球へと送り出していた。
中型船1隻の契約代金は銀25貫文。銅銭になおすと2000貫文、つまり銅銭200万文と言う大変な出費であったため、予算の都合で一隻としか契約出来なかったのだ。
契約をした船には、池田の里で特産の薬(清風散)と干し椎茸、それに木材を積載して出航して貰った。勿論、琉球で売るためだ。
木材を積んだのは船の空いたスペースが勿体無いと思った次郎が、船長の宮本に相談した所、琉球では木材資源が乏しいので木材が売れそうだと言われたからだ。
宮本は胸を張り売上の報告をする。
「琉球では薬と干し椎茸、それに木材もよく売れたぞ。とりわけ薬と干し椎茸は王府の者に大層喜ばれ、次はもっと多く持って来て欲しいと言っておったわ!」
次郎の目が輝く。
「そうですか! やはり清風散と干し椎茸は売れましたか!」
宮本海之進は声を弾ませた。
「薬は銀20貫文、干し椎茸は銀15貫文、木材は銀40貫文で売れた。王府の役人どもが薬と椎茸を買い上げ、木材は港の船大工などが奪い合うように求めておったわ。まあ王府は中国にさらに高値で売る気みたいだったがのう」
次郎は思わず拳を握りしめた。
(1隻で銀75貫文……これなら赤字が回避できるかもしれない! いや、砂糖の売上もあるし、いけるだろ!!)
「それでサトウキビの仕入れ値はいくらでしたか?」
宮本海之進は笑って答えた。
「サトウキビの仕入れは銀20貫文ほどだったな」
(はい!?)
次郎は思わず口を開けた。
「ええええっ! ちょっと待ってください! 塩飽の会議所では、仕入れ値は銀50貫文くらいだって言われたんですけど!?」
宮本海之進は苦笑して、穏やかに頭を振った。
「ああ、それは多分、惣の者が計算違いをしたのだな。船の契約料と、積み荷の仕入れ値が混じったのやもしれぬ。サトウキビそのものの仕入れは、船一隻で銀20貫文ほどだった」
次郎は額に手を当て、息を整えた。
「……なるほど、安くついたのなら別にかまいません。海之進殿。報告を続けてください」
宮本海之進は頷いた。
「わかった。売り上げは銀75貫文、費用は銀55貫文で利益は銀20貫だった。
内訳は……」
宮本が帳面を広げ、内訳を示しす。
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売上
薬 銀20貫文
干し椎茸 銀15貫文
木材 銀40貫文
売上合計 銀75貫文
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費用
仕入れ
サトウキビ 銀20貫文
通行料 銀5貫文
船の契約等 銀30貫文
費用合計 銀55貫文の
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売上−費用=銀20貫文
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(うおおおお、マジか! 赤字からいきなり利益に変わった! これで砂糖を作って売れば爆益だよ! きたきたきたぁー、俺の大航海時代が始まった!!!)
(やっぱ商人は儲けるわ! 信長が堺の商人に2万貫の矢銭を要求した理由が分かったよ! 中型船一隻で銀20貫文(1600貫文)も儲けちゃうんだからな。それは少しは寄越せってなるよな。まあチャーター代は2000貫文もするけどねw)
次郎は算盤を弾くように指を折り、静かに頷いた。
「そうだ、なら次の交易は2隻でお願いします! 不足の銀5貫文は後で届けさせます!」
「よいのか? 利益以上を交易船の数を増やすのに費やすのだぞ?」
次郎が笑って応える。
「全然、大丈夫です。サトウキビを砂糖にして売ればもっと利益が出る予定です。
宮本殿、楠予家はどんどん塩飽衆と契約する船を増やしていくので、そのつもりでお願いします」
宮本が笑う。
「それはよい、楠予家の契約金は割高にしてあるから船乗りも喜ぶだろう。
それに同じ航路を繰り返せば、潮の癖も風の巡りも読みやすくなる。寄港地の役人や水軍とも容易に関係が築けるからな」
(今この人、さらっと嬉しくない事いったよな。まあいいか)
「では宮本殿、御屋形様への報告があるのでこれで失礼します」
「ああ、じゃあな。俺は一度、塩飽に戻る。また次の航海で会おう」
次郎は宮本と固い握手をして別れを告げると、港の喧騒を背に、馬へと飛び乗った。
次郎たちは楠予屋敷へと駆け、交易の報告を待っているであろう、正重たちの元へと急いだ。
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次郎が楠予屋敷に駆け込むと、広間には正重たちが座して待っていた。
正重は帳面を広げ、冷静な眼差しで次郎を迎える。
「……戻ったか。それで琉球との交易はどうであった、やはり赤字だったか?」
港での熱気がまだ胸に残る次郎は、深く息を整え、正重の前に進み出た。
「それが、今回の交易で銀20貫文の利、いえ製造費用などの経費を引くと約15貫文の利を得ました。その利益を用いて交易船を1隻増やし、次は2隻で運用するよう船長の宮本殿に頼んでおきました」
源太郎の眉がぴくりと動いた。
「……銀15貫文の利だと? 赤字どころか利を得たと申すか」
玄馬が笑う。
「それは凄い。次郎が初期は赤字が出るかもと言った時は、止めた方がよいと申したのは失敗だったな」
源太郎が『うんうん』と頷く。
「これでますます広江港の発展が見込めるな」
「はい、それに木材を琉球に送るために薬と椎茸、さらに木材事業の拡大が必要です」
次郎が言うと、広間に一瞬の沈黙が落ちた。
「木材事業……?」と源太郎が首を傾げる。
次郎は声を強めた。
「はい。琉球では木材が高く売れると分かりました。ならば伐採所と植林所を増やし、さらに池田の里近くに製材所を設け、港へ運ぶ仕組みを作るのです。質の高い木材を送れば交易の利はさらに増すでしょう」
玄馬が目を細める。
「なるほど……ただの一度の利ではなく、産業として根付かせるか。確かに、それなら広江港も池田の里もますます栄えるな」
数年後――木材を琉球に送り過ぎて、琉球で木材が値崩れを起こしてしまう。そのため余った木材は、主に楠予家の建築等で使われる事となる。
次郎が笑う。
「それだけではありません。琉球から仕入れたサトウキビを用いて黒砂糖と白砂糖を作ります。広江港の近くに製糖所を設けてありますが、更なる拡大が必要でしょう。また砂糖による利益が、現時点で銀60貫文ほど見込まれます」
正重は帳面を閉じ、低く言った。
「……銀60貫文。つまり約5000貫文。……これは国衆の手には余る利だ。主家の河野が黙ってはおるまい」
源太郎が頷く。
「父上、河野家に遠慮は無用です。今回、正式に当主となった晴通公から、湯築城へ臣下の礼を取りに来るようにとの書状を何度も無視したので、当家との関係は悪化しております」
玄馬が笑う。
「その通り、河野など無視すればよいのです。もし攻めて来くれば、ロングボウの矢の雨を馳走してやりましょう」
次郎は静かに笑みを浮かべた。
「この際、いっそ河野家に戦いを仕掛けましょう。領内も落ち着きましたし、そろそろ頃合いかと」
正重は低く言った。
「……だが河野に戦を仕掛ければ、大内や細川が黙ってはおらぬかもしれぬ」
河野家は伊予を束ねる国人領主であったが、西国随一の大名・大内家に半ば従属していた。さらに管領・細川家とも交流が深い。
細川家は室町以来、讃岐・阿波・土佐の守護を世襲しており、伊予と隣接する関係から接触・対立・協調を繰り返していた。
だが天運は楠予家に味方していた。
この頃――大内義隆は出雲の尼子家を滅ぼすため、自らが大軍を率いて出陣中だった。
また細川晴元も4ヶ月前に木沢長政の反乱を治めたばかりで、両者とも河野家に構う余裕は殆どない状況だった。
次郎は静かに笑みを浮かべた。
「管領の細川家はすでに落ち目、それに大内の天下も長くは続きません。恐らく此度の戦で尼子に負け、月山富田城攻めに失敗するでしょう。
されば大内に半分従属している河野家を討っても、大内は動けません」
正重は目を細めた。
「……確かに、大内が敗れれば河野の後ろ盾は揺らぐ。だがそう都合よく行くとは思えぬ」
玄馬が笑った。
「大内が動きそうなら、交易の利を大内に進呈し、懐柔すればよいのです。
そして河野家を滅ぼしたあとに、貢物を減らせばいい」
正重は低く唸った。
「……次郎、大内は本当に負けると思うか」
「はい。早ければ年内、遅ければ来年には敗れる筈です」
源太郎が言う。
「父上、次郎の申す通り大内は出兵中。河野家と争っても我らを気にする余裕はございませぬ。我らは我らの準備が整い次第、河野家を討ちましょう」
玄馬が口を開いた。
「……あとは、河野を攻めれば、村上水軍が黙ってはおらぬかも知れぬ事だな。海を押さえられれば補給が続かぬ」
次郎は静かに笑んだ。
「ご心配なく。能島の島吉利殿とは義兄弟の契りを結んでおります。我らの船は村上衆の保護を受けられるでしょう。河野がいかに命じようとも、能島村上は動きません」
玄馬が目を細めた。
「……ならば来島村上と因島村上はどうだ」
次郎は少し考え、静かに答えた。
「来島は河野と深く結びついております。しかし村上通康殿と河野晴通は不仲です、必ずしも味方はせぬかと。
それに因島は毛利と誼があるので、毛利と婚姻関係にある我らに味方すると思います。能島と因島の縁を基に、来島も我ら側に引き込めるかも知れません」
正重は顎に手を当て、低く唸った。
「……なるほど。能島と因島を押さえれば、来島は孤立する。だが義兄弟や婚姻の縁だけで国は動かぬ。利を示し、信を重ねねばならぬぞ」
玄馬が笑った。
「ならば来島にも交易の利を分け与えましょう。海を押さえれば、伊予の半ばは我らのもの」
正重は目を細めた。
「……よかろう近々重臣たちと、河野攻めについて軍議を開く」
「「はっ!」」
かくして楠予家は伊予国主・河野家に叛旗を掲げる準備を始めた。




