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83 越智家との決戦 前編

12月29日

夜明け前。楠予軍の本陣。


物見の兵が駆け込み、声を張る。

「申し上げます! 徳重殿、玉川殿が兵を率いて参られました!」


本陣の内で就寝していた正重と源太郎、そして次郎が次々と身を起こす。

正重が低く呟いた。

「……来たか」

「父上、これで我が方の勝利は揺るぎませぬな」


次郎の口元に笑みが浮かぶ。

(これで輔頼は完全に終わりだ……)


 次郎は神拝陣屋でお澄たちの護衛を、作兵衛と神拝代官の権太に託し、正重に駄々をこねて、この戦について来た。

どうしても、輔頼をここで仕留めたかったのだ。


 次郎の輔頼憎しの思いは、お澄を妻に迎えてからさらに深まっていた。

 次郎が抱いた女は、まだお澄一人しかいない。だからこそ、愛するお澄を孕ませた事のある輔頼の存在が、どうしても許せなかった。


『お澄の処女を奪い、妊娠させた輔頼は許さん! 死をもって償わせる!!』

――そんな、現代ならば白い目で見られる嫉妬心を、次郎は胸の奥でメラメラとたぎらせていた。運がいいのか悪いのか、この時代は輔頼を合法的に葬れる。



やがて徳重家忠と玉川監物が陣幕に入ってきた。二人は膝をつき、深々と頭を下げる。

「我ら、これより楠予家に忠義を尽くす所存にございます!」


正重が頷く。

「二人が楠予家に付いたからにはこの戦の趨勢は決まった、所領を安堵し、二人を大切に扱おう。ただし楠予家は他家と違う制度ばかり、その一つに半所半禄がある。それらの事を聞いておるな?」


玉川が応える。

「はっ、作兵衛殿より聞き及んでおります。一見、褒美が少なく感じられるが、所領を管理する必要もなく、御屋形様に頂いた俸禄を家臣に与えるため、家臣たちに裏切られる恐れもないと言われてござる」


徳重も深く頷いた。

「楠予家の制度は多少不都合でも、一度受け入れさえすれば役に立つ。それが楠予家の力の源だと大保木殿が申してござった」


正重は満足げに目を細めた。

「うむ、よく心得ておる。楠予家は他家から見れば異様に映ろう。だが、この仕組みこそが家中を束ね、強き統制を生み出す。ゆえに改革は進み、国はさらに豊かになるのだ」


二人が深く頭を下げる。

「ははっ!」


次郎が一歩進み出る。

「楠予家の制度では他家から来られた新参の方には、基本的に先陣をお任せする事になっております。これは万一、新参の方に寝返られても、そのまま踏みつぶすための策です。つまり今回、徳重殿と玉川殿にはその先陣を担って頂きますが、よろしいですか?」


徳重と玉川は一瞬、顔を見合わせた。

新参者に向かって、これほどあからさまに『信用せぬ』と告げる家など聞いたことがない。常ならば黙して先陣を命ずるのが通例である。場合によっては後方に配置され大切に扱われる事さえある。


とは言え、そんな常識を言っても何も変わらない。楠予のやり方は冷酷と言えば冷酷だが、裏切り者を信じる方がおかしい。制度であらかじめ信用せぬと明言し、先陣に立たせるやり方は、楠予家に入る条件と思えば我慢できる――自分だけが疑われている訳ではないのだ、これは皆が等しく受ける試練。


二人はすぐに膝を正し、声を揃えて答える。

「承知致した!」「承知仕しょうちつかまつった!」


徳重が言う。

「先陣にて働き、忠義を示すのは当然の事にござる」

玉川が頷く。

「さよう、先陣にて働き、忠義を示すは武士の本分」


源太郎が二人を見る。

「では徳重殿と玉川殿の400には、中央の前列を担って頂く。中列にはそれがしの部隊400。後列には父上と次郎500。左翼には兵馬と又衛兵率いる赤備え隊800、右翼には玄馬と大保木800――以上が楠予家の布陣である」


次郎が言う。

「お分かりとは思いますが、敵の後方には川があり、右翼の川下は海です。

 左翼の川上には徒歩で渡れる浅瀬がありますが、川下にはそれがない。ですので我らは、輔頼たちを確実に討つためには川下へと敗走させ、退路を断つつもりです」


源太郎が言葉を繋ぐ。

「それゆえ中央と右翼は敵が海側に逃げやすいように攻めすぎず、左翼は赤備により一気に突き崩し、逃げ道を塞ぐ必要がある。それまでの時間、その方達には中央の前線で防御に徹して貰いたい」

「「はっ!」」


正重が軍配を強く握り、床几から立ち上がった。

「……夜明けとともに攻撃を仕掛ける。我らは此度こそ輔頼の首を挙げ、正若丸と志乃の墓前に捧げる所存。――両名とも、心してかかれ!」

「「ははあっ!!」」


ーーーーー


夜明け前。越智軍の本陣。

※輔頼視点


まだ篝火の炎が暗闇を照らす中、陣内は静まり返っていた。輔頼は軍装のまま床几にもたれ、浅い眠りに落ちている。古谷宗全と元清もそれぞれ※毛氈もうせんに身を横たえ、仮眠を取っていた。


 その静けさを破るように、陣幕が荒々しく開かれる。


「し、失礼仕しつれいつかまつります!」


 見張りの兵が駆け込み、声を震わせながら叫んだ。


「大野殿らの陣が、旗と篝火は立っておりますが、その……人の気配がございませぬ……」


輔頼が目を見開き、跳ね起きる。

軍扇を掴み取り、地面へと投げつけた。

「おのれ、あ奴ら! またしても勝馬に乗る気か! わしを愚弄するのも大概にせい!!」


古谷宗全が青い顔で言う。

「御屋形様、さすがに此度は中立はありえませぬ。恐らく我らをこの地に誘い込むための楠予家の罠だったのでござろう」


元清が身を起こし、顔をしかめる。

「我らは大野らに誘導された訳ではない。それは気のせいでござる。大野らは先陣で戦うのが怖くなって逃げだしたのじゃ」


宗全は静かに首を振った。

「まずは川之江兵部殿ら、主だった諸将を呼び集め軍議を行い、布陣の見直しを行うべきにござる。大野らの抜けにより多少の士気の低下は致し方ありませぬ。ここは残る諸将と心を合わせ、決戦に及ぶべきにござる」


輔頼は歯噛みした。

「ぐっ……よかろう。すぐに他の諸将を呼べ。大野たちの裏切り、この戦が終われば必ず償わせてやる」


。。。。


やがて川之江兵部、桜井道兼、新谷内記、朝倉頼房、高橋弾正らが本陣に呼び集められた。

諸将は寝起きの顔を隠せぬまま、次々と床几に並ぶ。

そして口々に大野達の陣抜けについて話しをする。


ざわめきが広がる中、陣幕が再び開かれ、伝令が駆け込んだ。


「申し上げます!」


駆け込んだ伝令は、額に汗を浮かべ、声を震わせる。

「徳重殿、玉川殿の隊、持ち場に姿がございませぬ! 旗も兵も……すでに影も形もなく……」


諸将の間に重苦しい沈黙が落ちた。


元清が膝を叩く。

「越智家の恩を忘れ、楠予に付くなど武士の風上にも置けぬ奴らじゃ!」


桜井道兼が顔をしかめ、低く呟く。

「これで三つの陣が消えた……」


新谷内記は唇を噛みしめる。

「士気はもはや地に落ちましょうな」


 開戦当初、越智軍は大野らの参陣により2,800の兵を集め、楠予軍の2,500を凌いでいた。

 だが大野、徳重らの離反により形勢は逆転。越智軍は2,100に減り、楠予軍は3,200と増え、数において大きく差をつけられた。


輔頼は軍配を握りしめ、歯を食いしばった。

「裏切り者どもめ……! 楠予に媚びて命乞いするか! 二人とも血祭にしてくれる!」


宗全は静かに目を伏せ、低く言った。

「……御屋形様のお怒りはごもっとも。しかし今は残る力を束ね、進むより他はござらん」


輔頼はしばし黙し、宗全を見た。

「宗全、ただちに橋を焼き落とせ。我らの活路は前にしかない。背水の陣をしき、夜明けとともに攻撃を仕掛ける!」


元清が立ち上がる。

「楠予軍は徳重らの寝返りにより、既に勝った気でおろう。つまり、兵士たち戦後の報償のため命を惜しむ。背水の陣で、死兵となった我が軍の突撃を防げる道理などないわ!!」


新谷内記が恐る恐る口を開いた。

「背水の陣と申せば聞こえはよいかも知れませぬ。ただ兵どもは死を覚悟するより、恐怖に駆られて逃げるやもしれませぬ。傭兵らもござれば……」


輔頼は新谷を睨みつけ、軍配を叩きつけた。

「黙れ! 退けば滅び、進めば活路がある! 異を唱える者は、この場で裏切りと見なすぞ!」


朝倉頼房が反論する。

「しかし御屋形様、内記殿の言われる事は正しうござる。ここは――」


その時、元清が刀を抜き、閃光のように朝倉に振り下ろした。


「ギャッ……!」


短い悲鳴とともに、朝倉は床几から崩れ落ちる。


古谷が立ち上がり、朝倉の亡骸に触れる。

「元清殿、なんと言う事をなされる……」


元清は血に濡れた刀を振り払い、声を張り上げた。

「このお家存亡の時に、御屋形様に異を唱える者は、俺が斬り捨てる!」


血に濡れた床几の前で、諸将は誰一人声を発せなかった。

新谷内記は蒼白になり、唇を噛みしめて俯く。

桜井道兼は目を閉じ、ただ静かに目を閉じた。

高橋弾正は手を膝に置き、拳を握り締めていた。


 宗全だけが冷ややかに場を見渡し、低く言った。

「皆の衆……御屋形様の御意に従うほかございませぬ。残る力を束ね、ただ前へ進むのみにござる」


 そう言った宗全だが、元清が朝倉を斬った瞬間、何かが音を立てて崩れ落ちた気がした。


 輔頼は軍扇を振り上げ、声を張り上げた。

「よい、ならば決した! 橋を焼き落とし、夜明けとともに鋒矢の陣にて一気に楠予軍を打ち破る。皆の者、準備をせよ!」


 諸将は顔を伏せたまま「ははっ」と応じたが、その声には覇気はなかった。


 やがて命を受けた兵たちが橋に火を放った。

「退路を断つのか……」

「もう戻れぬぞ……」


その中で、山賊の男がつばを吐いた。

「ちっ、本当に逃げ道を焼きやがったぜ……」

「だがよ、おかしら。背水の陣ってのは昔から有名な策だろ。手としては悪くないんじゃねえのか?」

「そんなの関係ねぇ。俺らは楠予家の財を奪いに来たんだ。戦いには興味ねぇ」


 仲間の山賊がゲラゲラ笑い、肩をすくめる。

「ははっ、どうせオイラたちは死ぬか奪うかしかねえ身だ。退路がねえなら前に行くしかねえだろ、お頭。負けたら適当に逃げればいいんだよ」


 周囲の正規兵は顔を引きつらせ、誰も言葉を返さなかった。


 やがて夜が明け、霧の向こうに、楠予軍の横陣が姿を現した。

 千の槍が一線に並び、まるで大河を堰き止める堤のように隙のない布陣である。

 その左翼には、赤備えの精鋭部隊が控える。赤い甲冑の列は、まるで炎の壁のように不気味な威圧を放っている。


 対する越智軍は、鋒矢の陣を敷いていた。

 中央に精鋭を集め、矢じりのごとく敵陣を突き破る構えである。

 背後は既に焼き落とした橋と川。兵たちが逃げるには川の浅瀬を自分で見つけるか、泳ぐ必要があった。


元清が呟く。

「楠予は横陣か……鋒矢の陣との相性は最悪だ。この戦、勝てるぞ……」


本陣の古谷宗全が輔頼に言う。

「敵は横陣、勝機はございます。されど鋒矢は中央突破には強いですが、側面に弱いと言う弱点がございます。こちらが突破するのが早いか、側面を破られるのが早いか……」


宗全の言葉に、輔頼は軍扇を握りしめた。

「ならば我らが先に突き破るまでよ。退路は断った、進むしかない!」


輔頼は軍配を前に振る。

「全軍、進めぇぇっ!」


 二千の兵が一斉に鬨を上げた。

 退路を焼かれた兵たちは、恐怖と絶望を押し殺し、ただ前へと駆け出す。


 宗全は静かにその動きを見た後、ちらりと視線を楠予軍の左翼の赤甲冑の列に注いだ。


(……あれが楠予家の赤備えか。楠予家の新たな精鋭部隊らしいが、初陣は飯岡砦で惨敗したと聞く。

 もし本当に精鋭なら、わが軍が中央突破する間に右翼が崩されるやも知れぬ……)


その瞬間――宗全の胸に冷たいものが走った。


(狙いはそれか! 赤備えを左翼に置いたのは、越智の右翼を潰し海側へと押し流すため……。

ただの勝利ではない! 我らの退路を完全に断ち、水際で殲滅する気じゃ!)


宗全は軍扇を閉じ、輔頼に一礼した。

「敵の狙いは右翼にございます。拙者、手勢二百を率いて右翼の桜井道兼殿の補佐に回ります」


輔頼は一瞬眉をひそめたが、すぐに頷いた。

「よかろう。だが右翼に問題がなければ中央を補佐せよ」


宗全は深く一礼すると、本陣を出た。


 赤い甲冑の列が次第に右翼へと近づく。桜井道兼は馬上で槍を掲げ、声を張り上げた。


「怯むな! ここを守り抜けば、越智軍の前線が必ずや敵軍を突破する! それまで耐え忍ぶのだ!」


その背後で宗全は二百の兵を指揮しながら、赤備隊を睨んだ。

(……右翼が崩れ、わしまで崩れれば、次は本陣が狙われる。この戦……わしと桜井殿がどこまで粘れるかが勝敗の鍵じゃ)


12月29日の早朝。

楠予軍3200と越智軍2100による、お家の存亡を賭けた戦いが始まった。


毛氈もうせんは、羊毛などの獣毛を圧縮して作られる※フェルト状の敷物。

※フェルト状というのは、「織物のように糸の目が見えず、繊維がみっしり詰まって一枚の布になっている感じ」を指しています。

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