82 越智軍の進軍
1541年12月27日
※楠予正重視点。
越智輔頼が国分寺城を出陣した日の同刻。
飯岡砦の広間にて兵馬が正重に声をかける。
「父上、全軍の移動準備は整っております。そろそろ神拝陣屋へ向かいますか?」
正重は短くうなずいた。
「……うむ、そろそろ参るか」
この日、正重は輔頼が出陣する事を正確に掴んでいた。
戦国の世において、大名の出陣は隠しようがない。兵を集めるには領内に触れを出し、農民兵や雑兵を呼び集めねばならない。村々では太鼓が鳴り、槍や鎧を抱えた男たちが城下へと集まる。その様子は旅の商人や僧侶、あるいは敵に通じる間者の目に必ず映り、やがて噂となって広がっていくのが常であった。
ゆえに正重は、越智家の動きを正確に捉えることが出来たのである。
二人が広間を出ようとしたその時――伝令の庄左衛門が駆け込んできた。
「申し上げます! 源太郎様が千五百の兵を率いてご到着!」
正重と兵馬が顔を見合わせる。
兵馬が驚きに声を荒げた。
「父上、まさか兄上はもう石川領を平定されたのでしょうか!」
正重は低く唸る。
「……わからぬ」
やがて広間に源太郎と玄馬、又衛兵が姿を現した。
源太郎は落ち着いた声で報告する。
「父上、石川の本拠・渋柿城を降伏させ、只今戻りました」
兵馬が目を見開く。
「兄上、もう石川領を平定されたのですか?」
源太郎は首を振った。
「いや、完全にはまだだ。だが孫次郎が郷山城と渋柿城を落とした今、石川領は平定したも同然。後は我らに任せて西へ向かうべきだと申すので、福田頼綱と兵二百を残し、こちらへ参ったのだ」
正重が眉を寄せる。
「……孫次郎は、たった二百で石川領を平定できると申したのか」
源太郎が頷く。
「はい。石川家に戦意は無く、跡継ぎは……」
源太郎は経緯を語った。
23日に金子山城を発ち、その日のうちに新居の城であった郷山城を降伏させて入城した。
24日は、日暮れ前に郷山城を出た。そして昼過ぎに渋柿城が見え始めると、すぐに石川家から降伏の使者がやって来た。
石川尚義の嫡子・道明丸はまだ幼く、城にいた兵のほとんどは楠予軍の進軍を聞くや否や逃げ出した。
そのため、道明丸の傍らに残っていた家臣は十人にも満たなかった。
兵馬が問う。
「それで兄上は、その道明丸をどうされたのですか?」
源太郎は静かに答える。
「孫次郎の進言により、所領はすべて没収した。その上で石川家の家督は継がせ、新たに所領二百石と俸禄二百石を与え、楠予家の家臣として召し抱えることとした」
玄馬が付け加える。
「……孫次郎は申しておりました。石川は名家ゆえ、お家再興に動かれるよりは、名を残して利用する方が良いと。道明丸は旧石川領が落ち着き次第、池田の里に送るそうです」
又衛兵が笑う。
「東は孫次郎たちに任せておれば大丈夫じゃ。我らは越智に専念すればよい」
正重は静かにうなずいた。
「……分かった。源太郎の判断を信じよう。石川の嫡子を野に放つより、楠予家の家臣に迎えた方が、石川の民も安心するであろう」
この日、正重らは神拝陣屋に移動し、次郎たちと合流した。
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翌日12月28日
越智家と楠予家の国境
※越智輔頼視点
朝方、越智輔頼の陣に楠河昌成と大野虎道が挨拶に来た。後ろには高田圭馬、国安利勝の姿もある。
古谷宗全が笑顔で迎える。
「大野殿、楠河殿、よう参られた」
大野が片膝をつき、声を張る。
「はっ、越智家がこの地に戻られたこと、真に嬉しく思います!」
他の三人も同時に頭を下げる。
「「「我らも同じ気持ちにて、嬉しくおもいます!」」」
玉川監物が鼻で笑う。
「その方らは楠予に付いたり、越智に付いたり、信用できたものではないわ」
徳重家忠が宥めるように言う。
「まあまあ玉川殿。国境にある小勢力ゆえ、生き残るために必死なのじゃ。疑いは先陣を切ることで晴らしてもらえばよかろう。そうであろう?」
徳重の視線を受け、大野が応える。
「はっ! 我ら四人、楠予との戦いでは先陣を承りたく存じます!」
大野の言葉に陣中が一瞬静まった。
輔頼はしばし大野ら四人を見据え、軍配を握りしめたまま口を開いた。
「……よかろう。先陣を許す。
楠予との戦い、まずは血をもって忠義を示してみせよ」
その声は低く、しかし陣中に響き渡った。
大野・楠河・高田・国安が頭を下げる。
「ははっ! ありがたき幸せ!」
輔頼は冷ややかに笑みを浮かべ、軍配を振り下ろした。
「先陣は任せよう、ただし退くことは許さぬ。
越智軍の先陣の名誉を汚せば、その首で償うがよい」
その言葉に、四人の背筋が粟立った。だが同時に怒りがこみ上げてくる。彼らは心の中で『上からものを言えるのも今のうちよ』と、冷ややかな笑みを浮かべた。
越智元清が4人に言う。
「その方らには、まず広江港に案内してもらおう。港を襲い、商人から金を奪い上げるのだ」
楠河が進言する。
「ならば急がれた方がよろしいでしょう。楠予家の領内では、越智家の来襲を聞き及び、民や商人たちに緊急避難命令が出されました」
元清が眉をひそめる。
「緊急避難命令とは何じゃ?」
楠河が答える。
「楠予家の筆頭家臣、壬生次郎忠常が作った制度にございます。商人や民を安全な地域へ素早く避難させるための仕組みにござる」
従来、戦が迫れば民は領主や城主の触れを見て、その場の判断で逃げるしかなかった。
ある者は山へ、ある者は寺へ、避難先も経路も定まらず、逃げ遅れや混乱は常であった。
だが壬生次郎は違った。
危機レベルを三段階に分けたのである。
第一では荷をまとめ、逃げる準備を整えさせる。
第二では女・子ども・老人、商人を優先して自主避難させる。
第三では村を空にし、全員が避難。男手は城や砦に入り、防戦に備える。
さらに伝令の経路を整え、避難先を定め、触れ札で村々に周知する仕組みを整えた。
こうして民は迷わず動き、敵が攻め込んだ時にはすでにもぬけの殻となる手筈である。
これまでの場当たりの逃避から、仕組みによる避難へ。
それこそが、次郎の「緊急避難制度」であった。
輔頼が眉を寄せる。
「……壬生次郎とは、確かお澄を側室にした男だったな」
「はっ、その通りにございます」
元清が笑う。
「殿のご正室だった女を側室にするとは、ずいぶんと無礼な奴ですな」
川之江兵部が付け加える。
「お澄の方はご正室を降格され、最後には売り飛ばされたおなごにござる」
元清が笑い声を上げる。
「おおっ、そうであったな。殿に捨てられたおなごであったわ。わっはっは!」
輔頼は笑いながら言う。
「そうけなしてやるな。お澄は見た目も味も悪くはなかったぞ。正重の娘に生まれたのが、あ奴の不運よ」
川之江が笑う。
「殿はお優しいですな」
元清が真顔に戻る。
「それで、その壬生次郎とやらの制度で、民の逃げ足が早くなっておるのだな?」
楠河が深くうなずく。
「はっ、さようにございます」
輔頼が床机から立ち上がる。
「ならば急ぎ参ろうぞ。商人から奪って奪って奪い尽くすがよい!」
「「ははっ!」」
越智軍二千五百は目を輝かせ、悠々と南東の広江港へと向かった。
だが彼らが目にしたのは、もぬけの殻となった港と、沖に停泊する船団の群れであった。
元清が叫ぶ。
「おのれ商人どもめ! 船の上から我らを見下ろすとは無礼な。火矢を射掛けろ!」
古谷宗全が制した。
「止められよ! ここで矢を消費しても何の得にもなり申さん」
元清が歯噛みする。
「ぐぬぬ……ならば港に火をかけよ! 徹底的に壊すのだ!」
輔頼が怒声を放つ。
「いい加減にせよ! この港はわしのものになるのだ、焼くことは許さん。商人はおらずとも蔵にはまだ荷があろう、それを好きなだけ奪うがよい!」
元清が家臣に命じる。
「ゆけ! 奪えるものはすべて奪い尽くすのだ!」
越智軍の兵士たちは酒蔵や米蔵に残っていた品をすべて持ち去った。金目の品はなかったが、これで腹は満たせるとそれなりに満足をした。
だが心の底では、『池田の里でも同じ有様ではないのか』と疑念が広がっていた。
越智軍が略奪を終えた頃、偵察に出ていた兵が駆け戻ってきた。
「申し上げます! 池田の里の民もすでに神拝陣屋へ避難を始めたようにございます! 道々には楠予家の触れ札が立ち、村々はもぬけの殻にございました!」
元清が顔をしかめる。
「おのれ……楠予め、ここまで徹底しておるとは」
川之江兵部が吐き捨てる。
「これでは兵の欲が満たせぬ。士気が下がるぞ」
玉川監物が皮肉を込めて笑う。
「楠予の壬生次郎とやら、ただの文官と思うておったが、なかなかやるではないか」
輔頼は黙して軍配を握りしめた。
「……よかろう。ならば池田の里へは向かわず、神拝陣屋を目指す。そこには民と金が集まっておる。それに東の拠点を落とされれば、池田の里も落ちたと思い、楠予軍も動揺しようぞ」
広江港から見て、池田の里は南西に、神拝陣屋は南東に位置し、どちらへも進軍する事が可能だった。
徳重が頷く。
「さすがは御屋形様。兵の欲を満たし、敵の士気を下げる。これぞ一挙両得にございますな」
こうして越智軍は進路を変え、池田の里を素通りして神拝陣屋へと進軍を開始した。
だがその動きはすでに楠予家の密偵によって逐一報告されていたのである。
越智軍が東の中山川に架けられた船橋を渡り終えた時、物見が帰って来た。
「申し上げます! 前方に楠予軍、こちらに向かって進軍中! その数、恐らく二千以上!」
古谷宗全が輔頼を見る。
「殿、いかがされますか? ここはいったん退き、橋を戻られますか?」
「……いや、橋を焼き払え。背水の陣をしく……」
「お、お待ち下さい! 背水の陣の効果は長くはありません。今は冬、間もなく日が沈みます。決戦は恐らく明日になります。焼くのならば明日がよろしいかと!」
輔頼は軍配を握りしめたまま、しばし沈黙した。
冬の夕暮れは早い。川面には冷たい風が吹き、兵たちの吐く息が白く漂う。
やがて輔頼は低く言い放った。
「……よかろう。今宵は橋を残す。だが夜半、敵が迫る気配あらば、ためらわず焼き払え」
宗全が深く頭を下げる。
「御意。兵を橋の両岸に配し、夜通し見張りを立てましょう」
その後、楠予軍二千五百が現れ、越智軍二千八百と対陣したが、初日は石を投げ、相手を罵る程度の小競り合いに終わった。
両者ともに決戦は翌日だと思っていた。
※※※※
夜。大野の陣内
大野虎道の陣には楠河昌成、高田圭馬、国安利勝の三人が集まっていた。
夜気は冷たく、焚き火の火がぱちぱちと弾ける音だけが響いている。
大野が口火を切る。
「……橋は越智軍の目がある。今宵、我らは浅瀬を渡り、越智軍の退路を断つ。それでよいな?」
楠河が頷く。
「当初の計画とは違うが、我らの役目は越智軍の退路を断つこと、それでよい」
楠予家の当初の見立てでは、越智軍は国境の山を越え、そのまま池田の里を目指して南下する筈だった。
そして池田の里の途中にある、大影砦周辺で再度越智軍と決戦に及び、その際に大野たちが離脱して退路の山道を封鎖する事になっていた。
――だが予定は狂い、越智軍は広江港を襲い、南東へと軍を進めた。
楠河が静かに問いかける。
「一応聞こう。越智軍に付きたいと言う者はおるか?」
高田が軽く笑った。
「あり得ないだろう。楠予は石川も金子も短期間で滅ぼした。あの力は本物だ」
国安が頷き、声を潜める。
「越智は終わりだ。玉川に徳重までが内応している、勝ち目はない」
楠河が言葉を継ぐ。
「そうであろうな。
それに越智について勝った所で使い捨てにされる。それに比べ楠予はいい。働き次第では譜代家臣への道も開ける。なんせ楠予には将が足りておらんからな」
大野が首を傾げた。
「……将が足りていない?」
楠河が静かに笑った。
「ああ、足りておらん。楠予は越智を倒したあと、必ず伊予国を取る。そこで終わりだと思うか?」
大野はしばし考え、やがて笑った。
「……確かに、足りておらんな」
高田が口を挟む。
「ならば明日の働き次第だ。退路を断ち、越智を袋の鼠にすれば、我らの忠義を示せる」
国安が卑屈に笑う。
「同じ過ちは二度と犯さん。楠予を信じ忠義を尽くすだけよ」
楠河が低く言い放つ。
「では口先ではなく、行動で示そう。今宵がその時だ」
四人は焚き火を囲み、計画を立てる。
川上には浅瀬があり、夜陰に紛れれば越智軍の目を逃れられ渡る事が出来る、と。
大野が立ち上がる。
「よし、決まりだ。今宵、我らは川を渡り、夜明けと共に越智の逃げ道を塞ぐ。越智軍が楠予と戦えば、必ず敗走する、川を渡らせはせぬ。最悪の場合は国境の山道まで戻り封鎖するのだ」
高田が笑みを浮かべる。
「越智軍が全滅すれば、我らの名も立つというものよ」
やがて四人は互いに目を見交わし、深くうなずいた。
大野が締めくくる。
「では決行だ。いずれ楠予の譜代となるために、この命を賭ける」
夜更け前。大野らの軍勢三百は密かに陣を抜け、川上の浅瀬へと向かった。
冬の川は冷たく、月明かりに波がきらめいていた。
ーーーーー
徳重・玉川の陣抜け。
大野たちが移動を開始した頃。
徳重と玉川も動いた。
越智軍の本陣では焚き火が消えかけ、兵たちが鼾をかいていた。
その静寂を破らぬよう、徳重家忠と玉川監物は、密かに兵四百を集め、持ち場から静かに抜け出した。
徳重が低く囁く。
「……声を立てるな。今より我らは楠予軍に寝返る」
兵たちは互いに顔を見合わせ、緊張に喉を鳴らした。裏切りの恐怖はあったが、それ以上に『越智に未来はない』という確信が彼らを突き動かしていた。
玉川が前を見据え、声を潜める。
「本当は楠予が石川も金子も討ったと言う噂が真実なのじゃ。次は必ず越智が滅ぶ。生き残るためには、今しかない」
彼らは川へ向かうのではなく、陣の側面から平野を大きく迂回し、楠予軍の前衛が張る陣へと歩を進めた。
月明かりに照らされた草原を、鎧の金具に布を巻いて音を殺し、馬の口を布で覆って進む。
ただ冬の風と兵たちの荒い息だけが闇に響いた。
やがて遠くに、楠予軍の物見の旗が見えた。
徳重は立ち止まり、深く息を吐いた。
「……戻る道は断たれた。皆の者、覚悟はよいな」
兵たちは一斉に頷く。恐怖と同時に、未来への期待がその顔に浮かんでいた。越智家が貧しくなる一方なのに対して、楠予家は富裕で知られるようになった。自分たちもそちら側に入れるのだと。
玉川が声を張る。
「松明を五本振れ! 我らが味方であることを知らせるのだ!」
闇の中、五つの炎が揺れた。合図を受けた楠予軍の物見はしばし警戒したが、やがて闇の向こうで、松明の炎に照らされて旗が大きく振られた。夜気の中、その影が揺れ、確かに返答の合図であることが分かった。
兵たちの間に安堵の吐息が広がる。だが同時に、裏切りの重みが胸を圧した。
「……これで本当に越智には戻れぬ」
誰かが小さく呟いた。
徳重はその声を聞きながら、低く言い放った。
「戻る必要などない。明日、楠予が勝つ。勝者の側に立つのだ」
こうして徳重・玉川の四百は夜陰に紛れて越智軍を離れ、楠予軍へと合流した。
その裏切りは、翌日の戦局を大きく揺るがすことになる。




