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77 孫次郎の策略

皆の視線が向けられても、孫次郎は微動だにせず、静かに応じた。


「先ほど申した通り、東は容易に攻略が可能です。されど越智家は違います。守り易く、攻め辛い地形をしております。

此度、可能であれば──越智家を引きずり出し、壊滅させるのが上策かと存じます」


皆が顔を見合わせた。

今回も、東が攻略しやすいから東に進む話だった筈だ。

 以前にも、東への侵攻中に越智家が出て来れば越智家を叩く作戦が取られた。今回も同じだと、誰もが思っていた。

 ある意味、孫次郎の意見は当然であって、驚くような内容ではなかった。



正重が問う。

「……孫次郎、ではいかがして越智家を引きずり出す」


孫次郎は一歩進み、声を落とす。

「はっ。さすれば、機密とされている、某が楠予家を破った戦術の一部を、越智家に漏らします」


佐介が目を細める。

「敵に、我が軍の弱点を教えると申すか!」


孫次郎が頷く。

「そうであって、そうではございません。

敵がロングボウを恐れるならば、私が用いた“散開”と“盾”の策を教えてやればよいのです」


兵馬が立ち上がり、怒気を含んだ声を放つ。

「ロングボウの弱点を教えるだと! 貴様は何を考えているのだ! そのようなことが許されると思うか!」


孫次郎は微笑み、静かに応じた。

「兵馬様、まさにそこです。皆さまは誤解をされております。

ロングボウが散開と盾に弱い? それは、大きな誤りにございます」


次郎が興味深げに身を乗り出す。

「では違うと言われるのか? 孫次郎殿は、その戦法で我が軍を破ったと聞きましたが」


孫次郎は笑みを浮かべ、言葉を継ぐ。

「そうです。しかし、それは少数の軍だからこそ可能だったのです。

盾を持ち、散開した大軍──そんなものは騎馬隊の餌食となりましょう。

足軽の突撃にも耐えられませぬ。

――つまり、大軍になるほど、ロングボウに対抗する術は失われてしまうのです」


又衛兵が豪快に笑う。

「さすがは孫次郎じゃ。俺を破っただけのことはあって、戦の才がある」


玄馬が静かに言う。

「越智家が動くならば、全兵力を出すはず。

ロングボウ対策が大軍に不向きならば、盾と散開が越智軍の足を引っ張ることになるな」


正重が鋭く言い放つ。

「よかろう。此度、越智家を動かし──輔頼を討つ。そして志乃と正若丸の墓前に輔頼の首を捧げるのだ。

だがもし輔頼が動かねば、東を切り取り、越智家との差をさらに広げる。……よいな、皆の者!」


「「ははぁっ」」

皆が頭を下げた。


甚八が低く呟いた。

「越智は再び選択を迫られるのだな。出るも地獄、出ないも地獄……」


孫次郎はちらりと甚八を見たが、何も言わずにすぐに視線を戻した。

その目には、静かな憐れみが宿っていた。

――越智は、必ず出る。孫次郎はそう確信していた。


次郎が訊ねた。

「それで御屋形様、兵はどのくらい東へ向かわせるのですか」


正重が応える。

「此度の戦は越智家を誘い出さねばならん。

ゆえに臨時の農民兵を徴収し、二千八百の兵を集める。うち四百は越智家の侵攻に備え、残り二千四百で東へ向かう」


次郎は拳を握った。

楠予領では、兵農分離が進んでいる。

通常時の最大兵力は千七百――常備兵九百と農民兵八百の予定だった。

それは制度を守るための限界だった。

だが、今回は違う。

農民兵を千九百まで引き上げるという。

それは、制度を逆戻りさせるきっかけになりかねない。


次郎は、正重を見た。

「……御屋形様。兵農分離は、当家の柱です。

それを揺るがすことは、制度を崩すことになります」


正重は静かに言った。

「分かっておる。

だが、地を取るには、風を起こさねばならん。

制度を守るために、制度を揺らす──

それが、戦というものじゃ」


次郎は正重の決意の重さを知り、

そっと目を伏せた。

「……承知しました。そのように手配いたします。

ですが、農民兵はあくまで補助とお考えください。

戦は、戦が専門の常備兵を主体に行うべきです」

正重は頷く。

「分かっておる。皆もそう心得よ」

「「ははっ!」」


次郎は、農民兵が死なないことを祈った。

確かに、戦って領土と民を得れば、楠予家の力は増す。

だが、農民兵が死ねば、元の国力は確実に低下するのだ。


又衛兵が沈みかけた場を盛り立てる。

「二千四百の兵か。

金子と石川は驚くであろうな」


佐介が笑う。

「楠予の軍を見ただけで、降伏するやもしれませんな」


兵馬が言う。

「石川に降伏されては領土が奪えん。決戦の方がよい」


友之丞が思い付く。

「ならばこうしましょう。福田頼綱の舟木砦を偽装包囲して石川を引きずり出す。そして石川が援軍に来たところを福田と挟撃して一気に壊滅させる」


玄馬が頷いた後、孫次郎を見た。

「良い手だ。それなら石川が全軍で出て来るくらいの兵力で、舟木砦を囲むのがよいだろう。丁度よい兵力はどのくらいだ」


孫次郎が応える。

「石川尚義の本拠地・渋柿城の周辺の兵力が五百ほど、郷山城周辺が百五十、舟木砦周辺が百五十。よって五百から七百の兵で舟木砦を囲めば全軍で出て来るでしょう」


正重が扇で地図を指し示す。

「ならばまずは五日後、六百の軍勢を舟木砦の偽装包囲に向かわせる。

大将は源太郎、補佐は又衛兵に任せる。先陣の孫次郎と合流せよ」

「承知しました」

「畏まりました!」


次に正重が金子山城を指した。

「そして我らは二週間後、千八百の兵を率いて金子山城を目指す。

その際は孫次郎は金子山城に来て、松下知家を寝返らせるのじゃ」

「はっ!」


正重が一拍置いて、皆を見た。

「作戦行動中、越智が動けば、すぐに取って引き返す。 皆そのつもりで行動するのだ。

だが――越智が動かぬのなら石川をも滅ぼし、伊予の東を完全に我らのものとする!」


皆が一斉に頭を下げた。

「「ははぁっ」」


広間の空気が、ゆっくりと動き始めた。


その日のうちに、越智家との国境を守る北の大野ら四人に密命が届いた。


楠予家の最大動員兵力による侵攻作戦が、静かに始まろうとしていた。




※※※※


1541年12月中旬

越智家・国分寺城


広間には古谷宗全、川之江兵部、越智元清ら重臣たちが集まり、黙って輔頼を見ていた。


輔頼の機嫌は、見るからに悪かった。


五日前、越智元清の与力・玉川監物から「ロングボウを打ち破った金子の将」の話を聞いた時は上機嫌で、大型の盾の生産を命じていた。

それから、まだ僅かな時しか経っていない。古谷宗全は不安になった。


古谷が恐る恐る声をかける。

「……御屋形様、楠河から書状が届いたとか」


輔頼は古谷を睨み、書状を投げつけた。

「これじゃ」


古谷は書状を拾い上げ、目を走らせる。

「く、楠予家が再び東へ兵を向ける! それも、二千五百を超える大軍とありますぞ!」


重臣たちの間に、ざわめきが起こった。


川之江兵部が唸る。

「楠予家がまた勢力を拡大するのか……さすがにこれは不味いぞ」


元清が声高に進言する。

「輔頼様! これは好機です。楠予家に残る兵は僅か、今こそ楠予を討つ時ですぞ!」


輔頼は首を振った。

「まだ盾の準備が出来ておらん。

散開だけでは斉射に対応出来ても、狙い撃ちには弱い」


元清が述べる。

「防御する盾ならば、民家を壊して作れば良いのです。

楠予家が東を取れば、次に狙うは越智しかござらん。

今ならば、東西に敵を持つ楠予家を挟撃出来ます!」


まだ年若い元清は、焦っていた。

前回、楠予家の罠に嵌められ、無駄に兵士を動員させられた上、楠予家はまんまと勢力を拡大していた。

 このまま楠予家を放置すれば、その勢力は越智家の二倍ほどになり、手が付けられなくなる恐れがあった。


古谷は眉を寄せる。

「民家を壊せば、民の恨みを買う。それは得策ではあるまい」


玉川監物が反論する。

「今は越智家存亡の時。

そのような小事に構う必要はござらん」


古谷は輔頼を見た。

「御屋形様は、如何思われますか」


輔頼は目を閉じ、暫し黙した。

そして静かに言った。

「……此度も動かぬ」


元清が唇を噛む。

「御屋形様……何故ですか」


輔頼は静かに目を開けた。

「確かに、今ならば東西より挟撃出来よう。

だが、金子と石川は当てにならん。

それよりも河野家を頼る。楠予家の台頭は、河野家にとっても目障りであろう」


徳重家忠が否定する。

「それがしは、河野家は動かぬと思います。

 河野家は家臣の諍いに手を出さぬのが習わしでござる。

 もし今、越智家が楠予家に攻められ援軍を要請しても援軍は来ないでしょう。

 仮に通春様が同意されたとしても、譜代家臣と外様衆の間で意見が割れ、結局は援軍は来ない筈です」


玉川監物が頷く。

「確かに、徳重殿の言われる通りでござる。

河野家の家中の意見が纏まる事はまずありえませぬ」


元清が軽く頭を下げる。

「御屋形様! どうかご決断を!」

「っ……」

輔頼は視線を外し、目を閉じた。


輔頼は重臣たちの言葉に、何が正しいか分からなくなっていた。


越智領は守り易く、攻め辛い。

守れば有利に戦える。

だが楠予家は越智家を攻めず、東へと勢力を拡大し、強大になってしまった。

座して待てば、楠予家はますます力を持つ。


当主である以上、輔頼は決断を下さねばならなかった。


輔頼の懸念は楠予家だけではない。

――越智家の家中にもあった。


輔頼の治世になってから越智家は落ち目だ。だが元清が家臣になった事で、家中はひとまずは纏まった。しかし主君としての信望は低い。元清を始めとする、好戦派は血の気が多い。これ以上不満をためれば、内乱に繋がる恐れがある。

 今ならば、輔頼にはまだ求心力が残っている。 もしここで元清が離反すれば、越智家は戦わずして楠予家に敗れる危険があった。


このまま動かなければ、状況は酷くなる一方なのは分かり切っている。

唯一の救いはロングボウ対策が見つかった事。

輔頼は、わずかな光明に希望を抱き――出陣を決断する。


輔頼は目を開けると、立ち上がった。

「皆の者が戦いたいと言うならば、戦おうではないか! だが負ける事は許さん! 全ての兵を動員する。よいか、この戦は死んでも勝つのだ!」

元清は立ち上がった。

「御屋形様、やりましょうぞ! この元清、必ずや楠予正重の首を御屋形様の御前に捧げまする!」

徳永と玉川たちも立ち上がる。

「おおっ! 楠予家の成り上がり者に、名門の力を教えてやりましょうぞ!」

「そうじゃそうじゃ、一枚岩となった越智家に敵などおらぬわ!」

重臣たちが全員立ち上がり、楠予家打倒を声高に叫んだ。


――だが心中は冷え切っていた。




二週間後、越智家は持てる全ての力を使って兵士を総動員し、出陣する。


農民兵はすべて動員され、越智家の家臣の子供は十一歳以上の若者までもが出陣を命じられた。

だが輔頼はそれだけでは足りないと判断し、近隣の山賊・野伏・傭兵にも金を払い、雇われ兵とした。


そして全ての兵に、楠予領での略奪を許可した。

楠予家の豊かさは誰もが知っている。傭兵や農民兵たちだけでなく、正規の兵までもが、目を輝かせた。

越智家が動員した兵の数は二千五百。


――士気は高い。


輔頼は覚悟を決めた。

この一戦で必ず楠予家を打ち破って見せると。



かくして輔頼は、自らの意思に反し、

――負けられぬ戦へと足を踏み入れた。


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