76 通直の書状と孫次郎の進言
すいません。新居氏→石川氏へと変更しました。
当初「新居氏」としていた勢力は「石川氏」としております。
また、新居氏は石川氏の家臣として位置づけを変更しました。
1541年12月初旬。
池田の里。楠予屋敷。
楠予屋敷の広間では、一族と重臣が揃っていた。
数日前、伊予の前国主──河野通直(弾正少弼)からの書状が届いていた。
広間の空気を切るように、嫡男・源太郎が声を発する。
「父上、それで通直様は、何とおっしゃって来られたのでしょうか」
正重がゆっくりと姿勢を正し、低く言葉を落とす。
その声が、広間の空気をさらに沈ませた。
「通直様は、復権を望んでおられる。当家に力を貸せと申しておる」
広間に沈黙が落ちた。
現当主の河野通春は、先代・通直の追放後に通政と改名し、纏まらぬ家中を巧みに掌握していた。
――通直の復権は難しいと皆が思った。
だが可能性は無くはない。
本来、河野家の当主の立場は弱い。
楠予家や越智家のように半独立状態の家臣が多く、譜代と外様の対立も根深い。
最大の問題は、足利幕府のように直轄領が極端に少ないことだ。
河野家の総石高は約二十万石だが、通春の治める直轄領は一万石にも満たなかった。
つまり――家臣に対する支配力が非常に弱かった。
源太郎が身を乗り出す。
「それで、父上のお考えは?」
正重は視線を巡らせ、静かに言葉を継ぐ。
「これは当家の未来に関わることじゃ。まずは、皆の意見を聞こう」
友之丞が口を開く。
「私は反対です。河野家が一致団結すれば、五千の軍が池田の里になだれ込むやも知れません」
玄馬が首を振る。
「それはあるまい。河野家が家中を纏められるなら、とうに金子や越智、そして石川を滅ぼしている。
今の通政様が動かせるのは、よくて三千ほどだろう」
友之丞は眉を寄せる。
「それでも、当家より多く動かせることに変わりありません」
又衛兵が笑う。
「だが兵の質は我が軍の方が上だ。十分、勝算はある」
兵馬が拳を握る。
「正義は我らにある。負けはせぬ」
源太郎が手を上げて制す。
「待て。河野家に謀反しようという訳ではない。早まるな」
次郎が静かに声を落とす。
「あの……そもそも当家は、本当に河野家の家臣なのでしょうか?」
皆の視線が次郎に集まった。
次郎は一拍置いて言葉を継ぐ。
「御屋形様は通直様に臣下になる許しは得ましたが、その直後に当主が交代しました。
そのため、臣下の礼は取っておられませんよね?」
広間の空気が揺れた。
次郎は続ける。
「そもそも、当家は大きく成りすぎました。越智家は約四万石あります。これを倒せば当家は約十万石ほどになります。
河野家の石高は約二十万石──その半分が楠予家となれば、もはやどちらが主君か分かりません」
友之丞が頷く。
「かつて韓信が『狡兎死して走狗烹らる』と言ったように、我らを排除しようとするかもしれませんね」
玉之江甚八が低く言う。
「あり得る。足利幕府も、大きすぎる守護大名の勢力を削ってきた」
吉田作兵衛が膝を打つ。
「ならば行く道は一つ。河野家の家臣の如く振る舞うが、臣下の礼は取らず、越智家を倒した後──伊予を取るのじゃ」
大保木佐介が笑う。
「御屋形様が伊予を取る。良い響きでござるな」
玄馬が正重に向き直る。
「御屋形様、皆の申す通りです。我らは河野家の家臣に非ず。伊予統一を目指しましょう」
源太郎も頷く。
「父上、私も賛同します。越智は倒さねばなりません。その先には──伊予を取るか、粛清されるかです」
正重は静かに頷いた。
「分かった。皆の意見が同じなら、進む道は一つしかあるまい。
我らは、伊予を取る。皆、そう心得よ」
「「ははぁっ」」
一拍置いて次郎が言葉を継ぐ。
「ところで御屋形様──通直公には、何と返事をなさるのですか?」
玄馬が応える。
「準備が整い次第、参戦すると伝えればよい。
場合によっては敵方として参戦しても、参戦には変わらん」
次郎が微笑む。
「敵方として参戦とは、随分と酷い話です。でも──面白いですね」
正重が首を振る。
「それはならん。家臣にすると認めて貰った恩がある。一度は通直公にお味方せねば、この正重の義が立たぬ。
ゆえに参戦の要請があらば通直公の味方として参戦する。そう心得よ」
皆は正重の揺るがぬ目を見て、一拍して頭を下げる。
「「はっ、しかと肝に銘じます」」
正重が末席に座る孫次郎に目を向ける。
「本日は孫次郎が火急の要件ありと申し出ておる。ゆえに評定への列席を特例として許した。……申してみよ」
孫次郎が立ち上がり、深く頭を下げる。
「はっ。金子家が石川家に降る動きがございます。ゆえに兵を起こし、両家を同時に討つべきかと存じます」
広間に再び沈黙が落ちる。
源太郎が身を乗り出す。
「石川家は宇摩郡の多くを支配し、金子からも領土を奪った。今の石高は恐らく二万石ほど、対して金子は七千。
我らの石高は六万石あるが、一度に滅ぼすのは難しいのではないか」
孫次郎が地図を広げ、指先で示す。
「まずは金子山城を数日で落とします。これで金子家は滅亡します。次に金子山から見て、東南の舟木砦を寝返りで落とし、東北の郷山城を落とせば東の守りが整います。
早ければ五日で、金子と石川から、一万五千石ほどの領地が奪えます」
玄馬が眉を寄せる。
「五日は流石に無理であろう。城攻めなら、三月以上かかってもおかしくない」
孫次郎が地図の一点を指す。
「金子家の家老・松下知家は所領安堵と、息子への金子宗家の相続を条件に、寝返ると約定をしております。
万一不履行でも、今の金子山城なら一月ほどで落とせます」
又衛兵が笑みを浮かべる。
「さすがは孫次郎だ。すでに勝ち筋が見えておる。出陣する価値はあると思う」
次郎が眉を寄せる。
「お待ちください。御屋形様は孫次郎に、敵の所領を安堵する権限などお与えになられたのですか?」
広間の空気が再び沈む。
正重が孫次郎を見据える。
その視線に、孫次郎は一歩前へ出て、頭を下げた。
「それがしは、御屋形様から何の権限も頂いておりません。
筆跡を真似て、松下と密約を結びました。
御屋形様はご存じないゆえ、松下との約束を守る必要はございません。松下を主君を裏切った謀叛人として処刑しても、全ては、勝手に密約を結んだこの孫次郎の不徳の致すところにございます」
作兵衛が感心したように頷く。
「なるほどのう。御屋形様が知らぬ事なら松下に褒美は不要じゃ。良いですじゃのう」
甚八が低く言う。
「いや、それは武士として流石に卑怯であろう」
玄馬が静かに言葉を重ねる。
「汚名を孫次郎が着るのであれば、それでよい。御屋形様は預かり知らぬ事」
次郎が立ち上がる。
「皆さま、お待ちください!
緊急を要する事態なら多少の越権も許されましょう。
されど、書を交わす余裕がありながら、御屋形様の名を語るなど、許されることではありません!」
又衛兵が宥めるように声をかける。
「義弟よ、あまり憤るな。これは御屋形様が知らぬ事を利用した策略だ。御屋形様が知らぬのは仕方あるまい」
次郎は首を振る。
「なりません!
ならばせめて源太郎様の許可を取るべきでした。
これは明らかな越権行為です。
このようなことを認めては、家中の統制を欠きます。
勝手な行動は処罰に値すると、楠予家の法度にも記されております!」
又衛兵が黙る。
「……う、うむ」
又之丞が口を挟む。
「次郎、それゆえ孫次郎は自ら責を取ると言っている。
今回は功績と相殺することで、よしとしてやってはどうだ」
重臣たちが次郎の顔を見た。
(なんだよ、俺が悪者かよ……おのれ孫次郎め、許さん!)
次郎は普段、自分が好き勝手をしている自覚がある。
だからこそ、ここで家中の反感を買うのは得策ではないと判断した。
――だが、制度を揺るがす者を野放しにできるほど、次郎の度量は大きくはない。
次郎は泣く泣く、手を引いた。
いや、丸投げした。
「分かりました。この件については、私からはこれ以上は申しません。
あとの判断は、御屋形様、源太郎様、そして私と同じく制度を取り締まる玄馬様にお任せします」
玄馬が少し考え、言葉を発する。
「制度の抜け穴を突くことは許されん。
だが孫次郎は新参ゆえ、此度は功と罪で相殺する。
しかし今後はもちろん、他の重臣たちが真似することは認めぬ。これで如何ですか、兄上」
源太郎が頷く。
「うむ。良いと思う。どうですか、父上」
正重が孫次郎を見た。
「孫次郎、此度は許す。だが、次は無いと心得よ」
孫次郎は深く頭を下げる。
「はっ、畏まりました」
正重が続ける。
「また松下の件については、わしが所領を安堵したものとする」
孫次郎が顔を上げる。
「御屋形様、それには及びません。松下など――」
正重が手を軽く上げて制す。
「孫次郎、敵を討つのに何をしても良いという訳ではない。
我が楠予家は楠正成公の末裔と言えども、他者から見れば成り上がり者。
信を大切にせねばならん。よいな」
孫次郎は深々と頭を下げる。
「ははっ」
孫次郎は、自分が憎む松下知家を、正重の手で討たせる計画が、見抜かれたのだと悟った。
その上で、正重に許されたのだと。
兵馬が話題を戻す。
「では金子山城は、遅くとも十日で落とすとして、舟木砦が寝返るというのはどういうことだ?」
孫次郎が応える。
「舟木砦の福田頼綱は、元は金子家臣で、それがしと交友があります。
所領安堵を条件に、楠予家に仕えると申しております。また福田は人望があるので、福田が味方につけば舟木砦周辺の地侍も味方になるでしょう」
佐介が目を細める。
「人望がある? 金子から石川に寝返り、またすぐに楠予家に寝返る人物がか?」
孫次郎が首を振る。
「頼綱は舟木砦で石川軍の猛攻を半年耐えました。
ですが金子家は内紛により、一切援軍を送らなかったのです。
それに石川は所領安堵を条件に頼綱を降伏させましたが、約束を反故にして、所領の半分を奪いました。
約束を破った石川家に、頼綱が仕える義理はないと思います」
この時代、援軍を送らないということは、主君が保護義務を放棄したと見なされ、信用を失う行為だった。
ゆえに、援軍を送らない主君を見限り降伏することは、非難される行為ではなかった。
源太郎が言う。
「そういう事情があるならば、仕方あるまいな」
正重が頷く。
「福田頼綱の所領安堵を認めよう」
孫次郎が頭を下げる。
「ははっ、ありがとうございます」
源太郎が地図を押さえ、孫次郎を見る。
「残るは郷山城だが……」
孫次郎が応える。
「郷山城は堅固な城ではありません。城を守る新居元介は臆病者です。
石川の軍が敗れるか、援軍を送らなければ、すぐに降伏するでしょう。
あるいは逃げ道を用意し、力攻めをしても容易に落ちるかと存じます」
友之丞が顔を綻ばせる。
「決まったな。我らはさらに東へと勢力を拡張する」
作兵衛が頷く。
「我らにはロングボウがある。越智は動けぬじゃろう。
越智家は再び、我らの勢力拡大を指をくわえて見ているしかない。愉快じゃのう」
甚八が笑う。
「……楠予家の勢い、頼もしい限りじゃ」
次郎は孫次郎を再評価した。
(曲者だが……この手並みは見事だ。俺とお澄にとって最大の敵、越智輔頼を殺せる日も近いかも知れない)
孫次郎は深く深呼吸をして一拍置き、広間を見渡して言った。
「皆さま、金子と石川を討つ事は表の策でございます。
それがしの真の狙い──裏の策は、越智輔頼を討つ事でございます」
広間の空気が再び張り詰める。
皆の視線が、孫次郎に集まった。




