07 暇乞い
1539年10月初旬。
2度目のプリンを作って数日後。
朝の空気は澄み、庭の柿の葉が色づき始めていた。
次郎はわくわくしていた。
薪の管理人になった次郎だったが、薪の代金はその都度、支払われる訳ではない。
毎月月初にまとめて支払われるのだ。そして先月次郎が薪を作ったのは5日分だけだが、その額は80文で、次郎に取っては大金だった。
楠予家の屋敷では、月初の帳簿整理が始まっていた。
村長家では次男の玄馬が番頭をしており、財務を管理している。
書院で玄馬は帳簿と筆を前にし静かに目を走らせていた。
「玄馬様。先月の薪の件で、代金を頂きたく参りました」
玄馬は筆を止めず、帳簿の端に目を落とした。
「九月分の薪……確かに、君が作ったものだな。品質も良かった。屋敷の使用人たちも助かっている」
次郎は一礼した。
「ありがとうございます。薪は村長家の相場に倣い、一束一文で計80束。80文の請求をお願いしたく」
玄馬は筆を置き、静かに次郎を見た。
「……だが、君は我が家の使用人だ。屋敷の仕事として薪を作ったのなら、代金は出せぬ」
次郎は一瞬、言葉を失った。
「……使用人として、命じられて作ったわけではありません。空き時間に、自分の判断で伐り、割り、束ねました」
玄馬は立ち上がり、帳簿を閉じた。
「それでも、屋敷の敷地で、屋敷の道具を使い、屋敷の者に渡した薪だ。君が何者であれ、屋敷の中で動けば、それは奉公のうちだ」
次郎は拳を握った。
「違います! 屋敷の外で伐り、道具も自前で揃えました!」
玄馬は眉間にしわを寄せた。
「人の言葉の上げ足を取るな! 君は見習いだから給与はないが、我が家の使用人が作ったものは、我が家のものなのだ」
「納得できません! わたくしは薪の管理人としてこの5日間努力致しました! わたくしは85文の節約に成功しております!」
「黙れ!! 見習いの分際で私に逆らう気か!」
その時、書院の障子の向こうから、重々しい足音が近づいてきた。
「……何事だ、騒がしい」
障子が静かに開き、楠予源左衛門が姿を現した。
白髪混じりの髷に、紺の羽織。その眼差しは鋭く、場の空気を一瞬で制した。
玄馬はすぐに頭を下げた。
「父上。申し訳ありません。見習いの次郎が、薪代を要求して参りました」
源左衛門は次郎に目を向けた。
「どういう事じゃ、次郎は薪の管理係おかしくはあるまい?」
「それが購入先の名簿に次郎の名があり、次郎が自分で作った薪なのです」
次郎は深く頭を下げ、声を震わせながら言った。
「はい。わたくしは、屋敷の外で伐り、自前の道具で割り、束ねました。屋敷の者に渡しましたが、それは命じられた仕事ではなく、自発的な商いです。80束、80文分頂きとうございます」
源左衛門は黙って玄馬を見た。
「玄馬。次郎の言い分に誤りはあるか?」
玄馬は口を引き結び、帳簿を開いた。
「……確かに、薪の出所は屋敷の外と記録されています。だが、次郎は見習いであり、奉公の身。屋敷の者である以上、家のための働きと見なすべきかと」
源左衛門は静かに頷いた。
「その通りじゃ、次郎、そなたは我が家の使用人、この費用は支払えぬ」
「っ!!」
(くそっ、どうする! 支払わないならもうお仕えせぬと言うか! それとも泣き寝入りするか…。
嫌だ! 俺はもう二度と泣き寝入りはしない!! 例え俺の道に大義が無かろうと、俺は俺の道をゆく!!)
「村長様!! どうしても支払われないと言うなら……次郎は、次郎は、お暇を頂きとうございます!!」
次郎は覚悟を決めて村長の目をじっと見た。
刹那の沈黙が流れ。
書院の空気は張り詰めた糸のように静まり返った。
源左衛門も次郎の目をじっと見つめていた。
その眼差しは、怒りでも困惑でもない。
ただ、何かを見極めようとする者のそれだった。
やがて、源左衛門はため息をつくように口を開いた。
「……致し方ない。では去るがよい」
その言葉は、重く、静かに響いた。
…次郎は目頭を熱くしながら、深く頭を下げ、拳を握りしめた。
「……ありがとうございました。短い間ですが、お世話になりました」
次郎が背を向け、書院を出ようとしたそのとき――
廊下の向こうから、足音が駆けてきた。
「次郎さん、待って!」
お澄だった。絹の袖を揺らしながら、必死の面持ちで駆け寄ってくる。
その後ろには、千代が静かに歩いていた。
2人は少し離れたところで話を聞いていたのだ。
お澄は次郎の前に立って言った。
「お願いです、行かないで……。
お父様、次郎さんはプリンだけじゃなくて、
節約にも成功したんですよね?」
源左衛門は眉をひそめたが、何も言わなかった。
千代が一歩前に出て、静かに言葉を継いだ。
「あなた、次郎は見所があります……次郎なら、さらなる功績を上げるでしょう。80文など、ささいな事かもしれませぬよ?」
源左衛門は目を閉じ、しばらく考えたあと、ゆっくりと頷いた。
「……よかろう。代金は払ってやる「父上それはなりせん!!」」
源左衛門は玄馬を手で制し。
「じゃが――」
その低い声は、再び場の空気を引き締めた。
「次郎。そなたが役に立つ者であると証明できねば示しがつかぬ。しばらくは様子を見るが、役に立たぬと判断すれば、去ってもらうぞ」
次郎は深く頭を下げた。
「はい。必ず、お役に立ってみせます!」
(やったぞ、これで薪の売上で大金が毎月入って来る! お澄さま、ありがとう!)
源左衛門は玄馬に目をやった。
「玄馬、80文を記せ。特別に次郎を薪の購入先として帳簿に記すのだ」
玄馬は無言で筆を走らせた。
次郎の名が、再び帳簿に記された。
安心したお澄はそっと次郎の袖を握った。
「よかった……」
お澄に袖を握られた次郎の心臓は跳ね上がり、胸がときめいた。
(お澄さまの傍を去らずにすんでよかった、暇乞いは早まったな)