71 毛利との同盟交渉 後篇
吉田郡山城・控えの間
次郎、友之丞、又衛兵の三人は、お澄たちと別れ、志道広良の案内で、元就の待つ控えの間へと向かった。
控えの間に着くと、静かな緊張が漂っていた。
畳の匂いが微かに立ち、壁には毛利家の家紋が掛けられている。
次郎、友之丞、又衛兵が閉ざされた襖に向かって並ぶと、志道広良が一歩前に出て襖に向かって声をかけた。
「殿、楠予家の方々が参られました」
小姓たちが襖を滑らせるように開くと、正面に毛利元就、両脇に重臣たちの姿が現れた。
次郎は歴史的有名人を前にして、感動する。
(これがあの謀神・毛利元就……かっけぇ)
元就の年齢は四十代なかば。浅葱色の直垂に身を包み、背筋は伸び、目は鋭い。だがその口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
元就が声をかける。
「遠路、よくぞ参られた。正重殿のご子息の友之丞殿。そして重臣の壬生忠光殿でござるな」
「はっ。楠予友之丞、父の命を受け、参上いたしました」
「はい。壬生次郎忠光にございます。
毛利様、こちらは正重様の五男・又衛兵様にございます」
元就は頷き、次郎の背後に目をやる。
「楠予又衛兵にござる」
「……又衛兵殿か良い目をしておられる。楠予家は、良き人材を揃えておられるな」
「過分なお言葉、恐れ入る」
元就の左隣には、18歳になる嫡男・毛利隆元が座していた。隆元が言う。
「皆様よくお越し下されました。まずはお座り下さい」
次郎たちは促されて座に着いた。
元就が静かに言う。
「さて、楠予家との同盟の件。我が家としても慎重に進めねばなりません」
友之丞が、応える。
「はい。楠予家も、毛利家と誼を結ぶ事は重要な事だと考えております。失敗は許されません」
元就はしばし黙し、友之丞の顔を見た。
「……友之丞の殿。楠予家はなぜ毛利と手を結ぶ事を望まれたのじゃ」
友之丞は一瞬、言葉を探し、次郎を見た。次郎が友之丞に頷く。
「楠予家は……毛利元就様の器を高く買っています。いずれは安芸の盟主となられるお方だと」
桂元澄が目を細める。
「器を買う、か。言葉は立派だが、裏がなければよいがの」
志道広良が穏やかに反論する。
「裏があるは世の常でござる。殊更騒ぐ事ではありますまい」
児玉就忠が頷き、文箱を前に押し出す。
「殿、同盟が成った折に頂ける技術の一覧は、既に受け取っております」
元就は目を細め、隆元に視線を送る。
隆元は一瞬だけ父を見返し、静かに頷いた。
隆元が言う。
「盟約の件、毛利家中にて議を重ねました結果。誼を結ぶこと、異論は無いとの結論に至っております」
「はっ、ありがとうございます」
次郎たちは頭を下げた。
志道広良が一歩進み出て、静かに言葉を添える。
「では、細部の取り決めにつきましては、後ほど改めて。まずは城内にてお休み下さい。夜には宴もござるゆえ」
元就が立ち、隆元たちも続いて立ち上がる。
口羽と桂も席を離れ、志道が次郎たちに微笑む。
「こちらへ。楠予家の方々の所へ、ご案内致します」
次郎たちは立ち上がり、志道の案内に従って歩み始めた。
畳の音が静かに響き、空気は少しだけ緩んでいた。
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吉田郡山城・夜の広間
その夜、城内の広間には灯がともり、毛利家と楠予家の外交使節を迎える酒宴が盛大に催された。
畳の上には朱塗りの膳が並び、
酒が注がれ、膳には山海の幸が盛られていた。
鯛の焼き物、猪の味噌煮、栗と芋の炊き合わせ。
香の物の香りが漂い、湯気が立つ椀が次々と運ばれてくる。
志道広良が盃を掲げ、柔らかな声で言う。
「本日、楠予家との誼が結ばれましたこと、まことに慶賀に存じます。皆々様、盃をお取りください」
口羽通良が献酬の礼を進め、桂元澄は言葉少なに盃を傾ける。
毛利隆元は父の隣で静かに座していたが、次郎の方へ目を向けて、軽く頷いた。
次郎は盃を受けながら、毛利家の空気に触れていた。
友之丞は持て成しの料理に感嘆し、又衛兵は豪快に酒を飲み猪肉を頬張っていた。
その背後では、お琴がお澄とさやの真ん中に座り、膳の器を指さしてはしゃいでいた。
「ねえねえ、これって、山の魚? 川の魚? どっち?」
さやが微笑みながら答える。
「これは、城の下を流れる川で獲れたものです。お琴様、静かに」
お澄は食事をしながら次郎と会話を交わしていた。お琴たちの存在は祝宴の雰囲気をいっそう明るくした。
元就は水盃を傾けながら、志道に耳打ちする。
「壬生殿は、随分と変わっておられるな。嫁を2人も連れ、他国に赴くなど聞いた事もない」
「さよう。なれど壬生殿は才ある者。馬鹿と天才は紙一重と申しますからな」と笑った。
元就は次郎の顔をチラリと見た。
「自分のやりたい事を押し通す者には敵が多い……。
志道、もし楠予家が敵になれば、内から崩せるか?」
「今は難しゅうござるな。……壬生殿、不思議と家中や民の評判は高うございました。今回の調べでは楠予家に隙はござらん」
「ならば楠予に足を引っ張られる恐れはないと言う事じゃな……」
広間の灯が揺れ、外では虫の音が響いていた。
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※又衛兵視点
酒宴の最中、又衛兵は盃を重ねすぎた。
猪肉の脂と濃い酒が腹に響き、広間を出て便所を探す。
「……まずい、腹が……便所は、どこだ……」
廊下の灯は少なく、曲がり角を二度、三度。
ようやく便所に辿り着き、用を済ませた頃には、酔いがさらに回っていた。
「ふう……助かった。さて、戻るか……」
だが、帰り道が分からなかった。
廊下は似たような曲がり角ばかりで、灯も少ない。
「……広間はどっちじゃったか……」
又衛兵はふらつきながら歩き、やがて一枚の障子の前に立ち止まった。
「ここか……ん? いや、違うか……」
障子を開けると、そこは静かな一室だった。
灯は低く、香の匂いが微かに漂っている。
部屋の奥に、ひとりの女性が座し、書を読んでいた。年は又衛兵と同じ二十代前半くらいだろう。
女性は読書の手を止め、顔を上げる。右眉から右目にかけて、深い刀傷を負い、光を失っているようだった。
女性は息を呑み、横を向いた。そして白い布を頭に被りながら言う。
「どなたですか! ……ここは、客間ではございません!」
声は少し震えていた。
又衛兵は一瞬、言葉を失った。
「……お、おう……すまん、間違えた。便所からの帰りで道に迷うたのじゃ」
女性は布の下から振り返り、片目だけで又衛兵を見た。
その視線は強く、だが揺れていた。
「……楠予家の方ですね。宴の……」
「そうじゃ。楠予又衛兵と申す」
又衛兵は机の上の書物に目をやった。
閉じられた書物の表紙の文字には見覚えがあった。
「……これは、孫子の兵法書ではないか。お主、こんなものを読むのか?」
女性は布の下から片目だけで又衛兵を見た。
その視線は静かで、揺れていた。
「はい。……兵法は面白いですから」
又衛兵は鼻を鳴らした。
「おれは、兵法は苦手でな。書も余り読まん。腕と勘だけでここまで来たようなものじゃ」
女性は眉を寄せた。
又衛兵は少しだけ声を落とした。
「だから、お主みたいに兵法書が読める者は、尊敬する。……戦を読む目を持つ者は、強いからな」
女性は一瞬左目を大きく開けたあと、目を伏せた。
「……書を読むだけでは、戦を読む目は養えません」
「そうかもしれん。……だが、戦を読む者になる為には、書を読まなくて無理であろう。俺には真似が出来ん、俺はただ動く方がよいからな」
女性は微笑んだ。
「ですがそれもまた、才でございましょう」
又衛兵も笑った。
「そなたとは気が合いそうじゃ」
女性は少しだけ視線を逸らし、言葉を継いだ。
「……そのように言われたのは、初めてです」
女性の言葉が終わったあと、少しだけ間があった。
又衛兵はその沈黙に、なぜか胸が騒いだ。
「……その……酔って間違えてしまった。顔の傷も見た、すまぬ」
女性は布を整えながら言った。
「……見て、何を思われましたか?」
又衛兵は言葉を探した。
「わしは傷は気にせぬ。……お主を、美しいと思うた。
じゃが女性のお主は傷を気にするだろうなと……」
女性は、左目を開いた。
「美しいなどと……。本当に……傷は気になりませんか?」
「ああ、わしの体には多くの傷があるからな、先日も大きな傷がまた一つ増えたくらいじゃ。わっはっは」
又兵衛は豪快に笑ってみせる。
だが女性は顔を反らした。
「殿方の傷は誇りにございましょう……」
「……そうかも知れぬな。お主の傷は何故……」
少しの沈黙のあと、女性は布を整えながら言った。
「これは……幼い頃、人質だった時に負った傷です」
又衛兵は少しだけ息を吐いた。
「ならば立派な誇りではないか。家のために負った傷を恥じる必要はないぞ」
女性は目を伏せたまま、灯の揺れを見つめていた。
「……誇りだと思っても、よいのでしょうか?」
「よいとも。俺が保証する。お主の傷は、立派な誇りじゃ」
女性は又兵衛の顔を見て、笑った。
又衛兵と女性は、互いの言葉に耳を傾けながら、しばらく語り合った。
又衛兵は女性と話をしていると不思議と気持ちが安らいだ。
夜も更け、外では虫の音が遠く響いていた。
又衛兵は畳に腰を下ろし、壁にもたれた。
「すまぬ……酒のせいで眠くなってきた……毛利の酒はよう回るのう」
女性は優しく微笑んだ。
「少しお休みになった方がよろしいかと」
「そうか……すまん、では少しだけ……」
又衛兵はそのまま、自分の膝を抱えて目を閉じた。
灯の光が、又兵衛の顔を柔らかく照らしていた。
女性は静かに立ち上がると、障子をそっと閉め、灯を一つだけ残し部屋を出た。
その夜、吉田郡山城の一室で、
粗野な武士と傷を抱えた娘の出逢いがあった事を、次郎はまだ知らない。