67 お春の勧誘
1541年10月中旬。
池田の里。商人町
次郎は元雑貨屋の店主、お春の元を訪れていた。
今や彼女は、宿屋二軒と飲食店二軒を切り盛りする、町でも有数の女店主だ。
店の奥の畳の部屋。
お春は湯を注ぎ、客用の茶を差し出しながら、次郎の顔を見た。
「それで次郎様。大事なお話とは……何でございますか?」
次郎は茶を受け取り、すぐに本題に入った。
「お春さん、楠予家の家臣にならないか?」
あまりにも直球すぎて、お春の思考が追いつかなかった。
「……次郎様。今、家臣と……仰いましたか?」
「うん。お春さんとその一族を、楠予家の家臣に迎えたい」
お春はさらに混乱した。
「あの……急に言われましても……」
次郎はお春の目を見て、静かに言葉を継いだ。
「今、楠予家では農業奉行と商業奉行を立ち上げようとしてる。ここだけの話にして欲しいんだけど、商業奉行は、銭の流れを楠予家が掌握するための制度なんだ」
「銭の流れの……掌握、ですか」
その言葉に、お春の表情が困惑から思考へと変わる。
「そう。だからお春さんの経営の腕と知識を商業奉行で役立て欲しい。簡単に言えば、お春さんの店は楠予家が買い取る。その後、お春さんは楠予家の家臣になって、商業奉行の重役として店の拡張や運営をして欲しい」
「私が商業奉行の重役に……」
お春は湯呑を手に取り、少しだけ目を伏せた。
これは強制的な買収だ。だがこの話を断れば、楠予家は別の人物を立てて自分の店に競合させてくるだろう。
正直、いい気はしなかった。
「……そういうことでしたら、考えさせて下さい。楠予家の後ろ盾があれば、確かに商いは広がるでしょう。ですが家族には、商いに向いてない者もいますし……」
次郎は頷いた。
「それならなおさらだよ。商いが向いてない家族に、無理に店を任せたら失敗する。店の店主は商いに向いた楠予家の家臣に任せる。だから店を他人に乗っ取られる心配はない。それに、お春さんの功績はちゃんと所領や俸禄として子孫に受け継がれるんだ」
お春は少しだけ笑った。
「……それなら、うちの長男も救われます。あの子は真面目なだけが取り柄でして。商いも槍働きも向いてませんけど、帳簿だけは毎日欠かさず見てますから」
次郎は笑った。
「それはいい。帳簿ってのは命みたいなもんだ。商業奉行の中でも、帳場を預かる役は特に重要になる。お春さんの長男には、帳場の補佐を任せたい」
お春の目が静かに輝いた。
「次男と三男はまだ若いですが……商いの才はあると思います。娘たちも店の手伝いをしてくれてます。長女は嫁いでおりますが、婿と一緒に店を見てくれていて、助かっております」
次郎は目を細めた。
「それなら、娘婿も含めて楠予家の商業奉行に迎え入れよう。お春さんの一族は、すでに商いの流れを掴んでる。楠予家にとって、これほど心強いことはない」
お春は静かに頷いた。
商人として生きてきた自分が、武家の家臣になる──その重みは簡単に飲み込めるものではなかった。
でも、次郎の言葉にはただの買収じゃないものがあった。
秩序の中で生きる道。功績が子や孫に残る道。
「……承知いたしました。楠予家の家臣として、商業奉行の一角を担わせていただきます」
次郎は深く頭を下げた。
「ありがとう。お春さんの力があれば、楠予領の商いは必ず上手くいく。
ただし──楠予家の店は暖簾分けじゃなくて、全部直営で増やす方針だ。だから、店がどんどん増えていくことを前提に、ちゃんと管理できる仕組みを考えてほしい。
たとえば、地域ごとに管理役を置いて、その人たちが定期的に報告を上げる。お春さんたち重役がそれを受け取って、問題がないか精査する。そういう流れを作っておけば、どんなに規模が大きくなっても崩れない」
お春は目を大きく開けた。
次郎の発想が、自分の考えていた商いの規模より、ずっと先を見据えていたからだ。
帳場の型、報告の流れ、地域ごとの管理──それは、商いを制度として動かすという考えだった。自分は、ただ家族で店を回していければ、それでいいと思っていた。
でも、それだけではいずれ限界が来る。
帳場は乱れ、仕入れは偏り、誰が何をしているのか分からなくなる。
それを防ぐ仕組みを、次郎は最初から見ていた。
対立する道を選ばなくてよかったと思う。もし申し出を断っていたなら、いずれは潰されていたかもしれない。
いや、潰されなくても、経営は苦しくなっていたはずだ
「かしこまりました。次郎様の考えを元に、運営できる仕組みを整えたいと思います」
「じゃあ頼む。いずれ奉行頭を決めるから、その人とよく相談して決めたらいいよ。もし奉行頭に問題があったら俺に言ってくれ。悪くはしないからさ」
「はい、よろしくお願いします」
障子の向こうで、風がひとつ吹いた。
その音は、商いの空気が武家の制度に沈み始める合図のようだった。
※※※※
1541年10月中旬。周防・大内館。
※大内義隆視点
西国最大の大名と呼ばれる大内義隆は、尼子攻めに備え、安芸の国人領主・毛利元就を館に招いていた。
会談には、
毛利家からは、毛利元就、桂元澄、志道広良の三名。
大内家からは、大内義隆、陶隆房、内藤興盛の三名が出席していた。
広間には香が焚かれ、屏風の向こうで庭の鐘が遠く鳴った。
会談が一段落し、陶隆房が膝を崩し、地図の端を指で押さえながら言う。
「それでは三か月後、我が軍は尼子の本拠地、月山富田城へ向け出陣いたす。
毛利殿も、そのおつもりで」
毛利元就は一拍置いて頷いた。
「承知いたしました」
桂元澄が笑う。
「三か月あれば、十分間に合いまするな、殿」
志道広良が香の煙を見つめながら、ふと口を開いた。
「そう言えば、伊予の楠予家には“望遠鏡”という物見に役立つ道具があるそうです。なんでも肉眼では見えぬ五里、十里先の兵の動きも、見通せるとか。
物見に使えば、伏兵も隠しようがございませんな」
内藤興盛が目を細める。
「……それは便利ですな。御屋形様、それがあれば此度の戦にも役立つかも知れませぬ、兵の配置にも使えましょう」
陶隆房が鼻で笑った。
「伊予ならば河野家の家来であろう。ならば使者をやり、その道具を貢がせればよいのじゃ。所詮は小者よ」
志道が首を振る。
「いえいえ。それが楠予家には他にも役立つ技術が数多くあると聞き及んでおります。楠予領は当家の目と鼻の先、よろしければ某が大内家の名代として赴き、技術の提供をするよう申し入れて参りましょう」
内藤興盛が義隆に言う。
「では御屋形様、この件は志道殿にお任せしてはいかがでしょう」
義隆は静かに笑った。
「それでよい」
志道広良が頭を下げる。
「はっ。大内家の名代に恥じぬよう努めまする」
内藤興盛は視線を滑らせた。
桂元澄が元就を見て、わずかに頷いた。
元就は、桂を見たあとこちらを見て頷いた。
そのやり取りは、言葉にせずとも、何かが整ったことを示していた。
(……隠す気はないか。毛利殿は、初めから楠予家に手を伸ばすつもりだったのだな)
内藤はそう思った。
だが何も言わなかった。