65 呼び出し
九月下旬。
朝の風は少し冷たく、屋敷の庭先に落ち葉が舞っていた。
弥八に帳簿の整理を任せ、次郎は楠予屋敷へ向かう。
正重から「昼前に出仕せよ」との使いが届いたのだ。
屋敷の広間に入ると、空気が静まっていた。
正重、千代、源太郎、まつ、玄馬、兵馬、友之丞、又衛兵――
そして、小聞丸とお琴、お澄も並んで座していた。
(あれ……これ……なんか前にも見た気がする)
次郎は一礼し、広間の空気を見渡した。
誰も言葉を発さず、ただ視線が次郎に集まっていた。
(……なんだ、今回は何を要求するつもりだ?)
正重が重い口を開いた。
「次郎……お琴から聞いた。
数日前、お前は鶏を油で揚げ、それを“から揚げ”と呼び、供したそうだな。
鶏は——朝を告げる神聖な鳥だ。
それを薬用と称して、皆で食すとは一体、何を考えておるのじゃ!」
正重の怒声に、次郎は怯んだ。
(しまった! 肉を忌む風潮はあるけど、全部薬用で誤魔化せると思ってた。
鶏もイケると思ったけどダメだったか!?)
その時——次郎は、万一に備えて考えていた、言い訳を思い出した。
「御屋形様、ご存知ないのですか?」
「なにをじゃ」
「ニワトリの肉は、明の朱元璋が好んで食べた吉祥の食べ物なんですよ。
朱元璋の親友、徐達も鶏の肉が大好きだったとか。
……まあ、徐達は最後は鶏の肉と間違えて、ガチョウの肉を食べて死にましたけどね」
内容は嘘八百だった。
普通は、朱元璋が何を食べたかなんて知る筈がない。
そう思って次郎は、適当に言ったのである。
友之丞が興味を示した。
「朱元璋がニワトリの肉を好んだとは知りませんでした。ぜひ食べてみたいですね」
又衛兵が賛同する。
「義弟が作るのだ、美味いに決まってる」
源太郎が戒める。
「こらお前達、食い意地を張るな。今は詮議中だぞ」
兵馬が言う。
「もうよいではありませんか、鶏は吉祥の食べ物なんでしょ? 美味いは正義です。そもそも次郎に唐揚げを作らせるために呼んだんですよね?」
小聞丸も加わる。
「父上、早く次郎にいに、からあげを作って貰ってよ、お腹すいた」
「お兄ちゃん、次郎ちゃんのから揚げ、凄く美味しいんだよ。期待しててね」
源太郎はマイペースな弟と子供たちの態度に『ぐぬぬ』と正重の方を見た。
正重が告げる。
「次郎……薬用のニワトリは準備してある、頼んだぞ」
(おい、ふざけんなよ親分! あんたさっき鶏は食べちゃダメとか言ってたよね!? なんの為に怒られたんだよ俺は!)
――そう言いたいのを、次郎はぐっと飲み込んだ。
次郎は一礼し、声を整えた。
「承知いたしました。薬用の鶏、ありがたく使わせていただきます」
正重は頷いた。
「皆、次郎の膳を待て。今日は“吉祥の膳”とする」
小聞丸は『やったー! 次郎にいの、からあげだ!』と喜び。
お琴は『次郎ちゃん、がんばってね』と応援し、
お澄は手を合わせ『うちの家族がゴメンね』と謝った。
ーーーー
半刻後(1時間後)
広間には、膳が静かに並べられていた。
白米、干し大根の味噌漬け、根菜の味噌汁――
そして、黄金色に揚げられた鶏のから揚げが、湯気を立てていた。
侍女たちが膳を運び、まつが器を整える。
次郎は最後に広間へ入り、下座に座した。
「お待たせしました。膳、整いました」
次郎の声は静かだったが、空気を揃える力があった。
正重が頷いた。
「皆、手を合わせよ。今日は“吉祥の膳”だ」
小聞丸が跳ねるように手を合わせる。
「いただきます!」
お琴も笑って続いた。
「いただきます、次郎ちゃんのからあげ!」
お澄は静かに手を合わせ、目を伏せた。
「……いただきます」
箸が動き、衣が砕ける音が広間に響いた。
塩の香りが跳ね、肉汁が舌に広がる。
兵馬が声を上げる。
「うまいな! これは……薬用どころか、戦の膳だ!」
又衛兵が笑う。
「美味い! さすが義弟じゃ!」
お琴が跳ねるように言った。
「おにいちゃん、おいしいね!」
小聞丸が頷く。
「うん、じゃがいもの天ぷらよりも、おいしいかも!」
友之丞は静かに頷いた。
「……朱元璋、侮れませんね」
源太郎は箸を止め、次郎に目を向けた。
「次郎。これは……本当に、お前が考えたのか?」
次郎は湯気の向こうで、少しだけ笑った。
「はい。お澄の誕生日に、何か美味しいものを食べさせたくて考えました」
お澄は家族の視線を受けて、下を向き赤らんだ。
千代がそっと目を細めた。
「……お澄、よかったわね」
小聞丸が笑って言う。
「お姉ちゃん、すっごく嬉しそうだよ」
お澄は何も言わず、ただ膳を見つめていた。
その頬は、まだ赤かった。
から揚げの話題を中心に、
家族団らんの楽しい時間は過ぎてゆく。
正重は膳を平らげて言った。
「次郎、吉祥の膳、見事であった」
源太郎も賛同する。
「真に素晴らしかった。しかし父上、これほど鶏の肉が上手いとは知りませんでしたな」
兵馬が言う。
「これなら毎日でも食べたい」
玄馬が眉を寄せる。
「しかし、鶏肉を食してばかりいては、坊主どもがよい顔をせぬであろうな」
次郎は玄馬の言葉に考えさせられた。
先ほど正重に怒られたのも仏教が肉を食べる事を忌避しているからだ。
次郎は鶏肉だけじゃなく、豚肉も牛肉も食べたい。
――坊主を何とかしないと、次郎の食計画が頓挫してしまうかも知れない。
そんな危機感が次郎を襲った。
そして――次郎は心に決めた。
(坊主が邪魔なら、坊主ごと作り直せばいい)
次郎は湯気の向こうで、静かに笑った。
信長とは異なる次郎流の戦いが始まろうとしていた。