63 農業奉行と商業奉行の設立
1541年9月初旬。
楠予屋敷の奥書院。
次郎は完成した農政と商業の草案を携え、楠予屋敷を訪ねた。
障子越しに差す光が、畳の目を静かに照らしていた。
書院には、楠予正重・源太郎・玄馬、そして次郎が並んで座す。
火鉢には火が入れられておらず、空気は涼しかったが、場の緊張はそれを凌いでいた。
次郎は、布に包まれた巻物を懐から取り出し、正重の前に差し出した。
「御屋形様。これは、農政と商業に関する新たな制度案でございます」
正重は黙って受け取り、巻物を広げる。
そこには、「楠予商業奉行」「楠予農政奉行」設立案と記されていた。
源太郎が眉をひそめる。
「商業奉行……? 次郎、それは何をする政所なのだ?」
次郎は一拍置き、言葉を選ぶ。
「はい。現在、楠予領では薬房と薬剤店を直営店として管理しております。
ここから得られる利益が莫大である事はご存じかと思います。
正直、商人は儲けます。古来より中国でも唐や宋、元朝で塩・酒・茶などの専売が行われました。これは国を挙げて行った、商いと言っていいでしょう」
正重は巻物から目を上げ、次郎を見据えた。
「……専売か。塩や酒を握れば、民の命も握ることになる。
それを、楠予が担うというのか?」
次郎は深く頭を下げた。
「いいえ、楠予家がそれを今やれば商人にそっぽを向かれます。商人の敵愾心を買わぬ範囲で行います。薬房や薬剤店のように、少しずつ楠予家が運営する店を増やしていきます。専売についてはいずれ時期が来た折に……」
玄馬がニヤリと笑う。
「なるほど、商人は金を持っているからな。
楠予が金と武の両方を握ると言うのは面白い。
帳場は、私が預かろう。拡大した組織の管理を、制度として整える」
次郎は、玄馬に目を向けた。
「……承知いたしました。帳場の管理、お任せいたします。
制度の枠は、私が整えます。流れの管理は、玄馬様にお願いします」
次郎は巻物の下段を示しながら、言葉を続けた。
「次は農政奉行の件ですが」
次郎は一拍置いて言葉を繋ぐ。
「現在、楠予領では年貢以外の作物の生産が村ごとにばらついております。
年貢に含まれぬ作物を育てることで、民の収入を増やし、家の経済も潤います。ですが年貢作物を減らし、年貢作物以外を育てると言う抜け道があるのはよくありません。
――よって楠予領においては作物の販売を楠予家が独占しようと思います」
源太郎が眉を顰める。
「待て次郎、さっきお前は商人の反感を買わぬ範囲でと申したではないか。規模は小さいが、楠予領でも作物の販売をする商人がいるのだぞ」
次郎が一拍置いて応える。
「はい確かに商人はいます。ですが店舗を持たず、村々を巡回する商人が主流です。この者たちは希望すれば楠予家の家臣にして、そのまま商いの担当にすればいいのです」
源太郎は『むむっ』と唸り、思案顔を浮かべた。
「それに流通の割合としては、百姓が市などで現物販売をする方が圧倒的に多いのです。
ハッキリと申しましょう。百姓が個々に現物販売するのは時間の無駄です」
次郎はさらに持論を語る。
「売る事は、売る事が専門の者に任せれば良いのです。百姓が作物を背負って市へ向かい、値を探って売る――それは、命を削る重労働でございます。
その時間を、畑に費やせば、収穫は増えます。
市で売る労力を、楠予家が担えば、僅かな労力ですみ、しかも楠予家に利益が出ます。
楠予家が作物を買い上げ、販売すればよいのです」
次郎は利点を説明する。
「楠予家が買い上げることで、価格と量が安定します。
また商人の買い叩きを防ぎ、民の収入も守れます。
米の販売も同様です。
楠予が百姓が作った米、武士が年貢や、俸禄で得た米を買い取り販売します。
民と武士の金銭収入を楠予が守る事にもなるのです」
次郎はさらに付け加える。
「ですが楠予以外の店はそれなりに残そうと思います。楠予家が全てを握れば、楠予の担当が不当な値を付けるかもしれません」
玄馬が頷く。
「次郎の案はいつも面白い。
ならば現在いる行商人は楠予家が雇い入れよう。断る者には去って貰えばよい」
源太郎が賛同する。
「そうだな、これが実現すれば楠予領の金の流れは、楠予家が一手に担う事になる。そうなれば常備兵もさらに増やし、新田開発、武具の生産とさらに楠予は大きくなれる」
正重はゆっくりと目を開け、皆を見た。
「……よい。動かせ。
だが利のある所には必ず不正が生まれる。
現場を預かる者には、常に目を配れ」
次郎たちは深く頭を下げた。
「「「ははっ!」」」
楠予家の新たな奉行設立――それは、まだ誰も見たことのない制度の芽吹きだった。
この制度は、三か月後には動き始める。
帳場が開かれ、奉行が座し、流れが少しずつ整えられる。
だが、制度として楠予領全体に沈み、民の暮らしに根を張るまでには、なお一年以上の歳月を要する事になる。
※※※※※
来島村上水軍。来島城。
※元伊予国主・河野通直視点
潮の音が遠く響く来島城の奥間。
河野通直は、灯の下で静かに座していた。
その手には、扇が開かれることなく、膝の上に置かれている。
襖が静かに開き、娘のお国と婿の来島通康が入る。
お国は一礼し、通直の前に膝をついた。
「お父様……申し訳ございません」
通直は目を伏せたまま、扇を動かさなかった
「伊予の国主ともあろう父上を、このような小さな城に……
来島は海の守りには向いても、国の主が座すには、あまりに狭う存じます」
お国は振り返る。声は静かだが、いら立っていた。
「父上は、沈黙だけで空気を動かす方です。
そのお力を、誰も見ず、誰も語らず──
それを、あなたは良しとされるのですか」
通康は一息つく。
「良しとは申さぬ。だが、今は動けぬ。
通春は機会あらばと我らの討伐を目論んでいる。
父上を守るには、ここが最善だ」
通直が、ようやく扇を開いた。
風は送られず、ただ静かに開かれただけだった。
「……お国。通康。余は、名を守るつもりはない。
地を守るつもりもない。
ただ、伊予の空気を、沈ませぬようにしておるだけよ」
お国は目を伏せる。
「その空気が、誰にも届かぬまま沈むのではと、恐ろしいのです」
通直は扇を閉じた。
その音が、潮の音よりも深く響いた。
「楠予家が力をつけて来ておる。楠予には越智家からの独立を認めた貸しがある」
通康は頷いた。
「まずは楠予からですな。楠予が我らにつけば、こちらに付く者も現れるかも知れません。ですが、楠予を味方につければ越智は敵になるかと……」
通直は何も言わず、扇を膝に戻した。
その沈黙が、来島の夜を包んだ。