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61 石鹸とお見舞い

1541年 8月中旬 

壬生屋敷、お澄の部屋。


朝、自室に戻る廊下の途中で、次郎はふと立ち止まった。

廊下には、夏の熱気がまだ残っていた。

風はあるが、涼しさには届かない。

袖口に残るお澄の香の匂いが、いつもより濃く感じられた。


「……香、強くなった気がする」


次郎は昨夜、お澄の部屋に泊まった。

又衛兵に夫が側室の元に通うのが礼儀だと聞いてから、次郎は自室に呼ぶのを控えるようになった。


(汗の匂いを隠すため……かな? まあ、俺も自分の臭い気になるし……)


この時代に風呂に毎日入る習慣はない。

だが次郎は毎日入っていた。池田の里は水が豊かで、穴を掘れば地下水が出る。遠慮する必要などないと思っていたのだ。


(やっぱり水洗いだけじゃだめだな、石鹸を作るか?)


___________

石鹸──昔の呼び名ではシャボン。

南蛮人が持ち込んだとされる泡立つ洗浄剤である。


戦国末期、ポルトガルの宣教師が織田信長に献上したのが、日本における石鹸の登場とされている。

当時の石鹸は、贈答品として扱われるほどの高級品であり、庶民の手に届くものではなかった。


ヨーロッパ人の戦略だったのか、現物は渡しても製法は伝えられず、国内での生産には至っていない。

日本で石鹸が本格的に製造されるようになったのは、明治三年(1870年)の事だ。

京都の官立化学研究所で、牛脂と灰汁を用いた飴状の石鹸が試作されたのが始まりとされる。

それ以降、石鹸は徐々に実用品として普及し、贈答品から生活の道具へと変化していった。

__________


(うんそれがいい。石鹸を次の義兄上またひょうへの見舞いの品にしよう。そろそろ臭くなってる頃だ。夏なのに風呂に入ってないんだからな)


次郎はスキル一覧から石鹸の作り方を選ぶ。


(へえ、石鹸には植物性油と動物性油の2種類があるのか。

豚肉を食べるようになったら、脂身の再利用に使うと無駄がなくなりそうだ。でも大量生産するなら、やっぱり植物性油だよな)


【石鹸製作(植物性油脂):知識Lv10】

価格:3000文

効果:菜種油・椿油などの植物性油脂を使った軟石鹸の製法を習得。

内容:

• 基本原理

• 油脂と灰汁の鹸化反応による泡生成

• 攪拌と加熱による反応促進

• 冷却による泡の安定化と匂い制御

• 素材選定

• 菜種油:入手性が高く、匂いが穏やか

• 椿油:肌馴染みが良く、香との相性が高い

• 木灰:薪由来の灰から抽出した灰汁を使用

• 製作工程

• 灰汁抽出 → 油脂加熱 → 攪拌 → 冷却 → 布への染み込み → 乾燥

• 容器は陶器・木桶が推奨。熱伝導と通気性のバランスが良い


「なんだ結構安いじゃん。もっと早く買えばよかった」

(購入!)

その瞬間、次郎の視界がわずかに揺れた。

頭の奥に、油と灰汁の混ざる感覚が流れ込んでくる。

泡の立ち方、匂いの逃がし方、冷却のタイミング──すべてが、図面ではなく手触りとして染み込んでいく。


菜種油は温度を上げすぎるな。灰汁は濃すぎると肌を荒らす。

冷却は風通しの良い場所で、陶器の器を使え。

布に染み込ませるときは、泡が落ち着いてから。

香と合わせるなら椿油がいい。匂いが重ならず、空気が整う。


次郎は息を吐いた。

「……これなら、贈答品にもなる。……そうだ、これを薬(清風散)に並ぶ池田の新しい目玉商品にしよう!」


次郎の頭に次々と、石鹸の販売プランが浮かんだ。


「これは薬品店に続き、石鹸店も開業しないといけないな。いや、取り合えずは薬品店で売った方が効率はいいのか? コンビニとか商品の集まりだからな。あとは吉利義兄さんに連絡して商品の宣伝を頼まないとな。それから……。まあ、まずは弥八たちに作り方を教えるとこから始めないと、始まらないか…」


ーーーーーーーーーー

池田の里の鍛冶場。


火は落とされ、炉の余熱だけが残っていた。

灰の匂いが漂う中、次郎が桶を引き寄せると、弥八が声をかけた。


「殿、次は何をお作りになるんですか?」


言葉には敬意と、少しの好奇心が混ざっていた。

庄吉が鉄くずを片付けながら、ちらりと視線を寄越す。

おとよは手を止め、静かに頷いた。

三人の空気が、次郎の手元に集まる。


「石鹸だ。泡が立ち汚れがよく落ちる。洗濯物や体を洗うのに使うんだ」


弥八が少し驚いた顔をした。

「……洗濯にも使えるんですか?」

次郎は頷いた。

「使える。布に染みた汗も、薬の匂いも、泡で落ちる。

水洗いだけじゃ落ちない汚れも、油と灰汁で分解できる」


庄吉が灰を集めながら、ぽつりと呟いた。

「……それ、町でも使えたら、夏の匂いが減りますね」

「わたしもその石鹸と言うのが欲しいです!」

おとよは目を輝かせて言った。

まだ年頃と言っていいおとよにも、魅力的な道具に映ったらしい。


次郎は菜種油を注ぎながら、火床の余熱を確かめた。

泡はまだ立たない。


だが、空気は少しずつ変わり始めていた。

桶の中で、灰汁と菜種油がゆっくりと混ざり合う。

火床の余熱がじわりと伝わり、液面に細かな揺れが生まれた。

次郎が柄杓ひしゃくで※攪拌かくはんすると、液の表面が白く濁り、やがて──泡が立った。

最初は小さく。

だが、攪拌を続けるうちに、泡はしっかりと形を持ち始める。


弥八が息を呑んだ。

「……泡、立ちましたね」

庄吉が手を止め、桶の縁に目を落とす。


おとよは黙ったまま、布を差し出した。

その手には、ほんのりと熱がこもっていた。

次郎は泡の粘度を確かめるように、指先ですくった。

泡は軽く、だがしっかりと指に絡んだ。


「これで石鹸の元は出来た。汗も、匂いも──泡で落とせる」


弥八が桶を覗き込みながら呟いた。

「石鹸って、意外と簡単に作れるものなんですね?」


次郎は泡を指先で転がしながら、肩をすくめた。

「まあな。材料も揃ってるし、火もある。

誰も作り方を思いつかないだけだ。

職人なら、見れば分かる」


弥八は頷いた。

次郎はさらに攪拌を続ける。

泡の粘度が落ち着いたのを見て、次郎は小さく頷いた。


「後は……これを固形化させれば完成だ」


桶の縁に手をかけ、泡を木枠の型に流し込む。

形はまだ柔らかい。

だが、空気と時間が整えば、数日から数週間で石鹸になる。



※※※※


1541年8月下旬。

池田の里。又衛兵の屋敷。

※又衛兵視点


屋敷の奥座敷には、晩夏の光が差し込んでいた。

障子越しの陽が畳の目を照らし、風が庭の木々を揺らしている。

その一隅に、又衛兵が横たわっていた。


戦の傷は深く、まだ起き上がることはできない。

ゆえに、枕元には侍女のさやが控えている。


――さやは、お澄付きの侍女である。

又衛兵が独り身であることを気遣い、お澄がしばらく、さやを貸し出す事にしたのだ。

初回の見舞いの折。

「兄上は身の回りの世話もままならぬでしょう。さやは気が利きます。しばらくお傍に置いてください」

お澄がそう言って以来、さやは黙って湯で体を拭き、薬を整え、膳を運び又衛兵の世話を続けている。


さやは、何も言わない。

湯を替えるときも、薬を並べるときも、又衛兵が目を覚ましているかどうかは気にしない。

ただ、必要なものを必要な場所に置いていく。

それが、お澄から託された役目だと、さやは理解していた。

又衛兵は、最初の数日は礼を言っていた。

だが、さやが黙って世話を続けるうちに、言葉は減り、代わりに空気が整っていった。

湯の温度がちょうどよく、薬の香りが鼻につかず、寝具の皺が消えている。

それだけで、さやがいたことがわかる。

又衛兵に取って寡黙で、黙々と世話をするさやの存在は次第に心地よいものになっていった。

お澄の言葉は正しかった。

「さやは気が利きます」──その一言が、今も又衛兵の頭の隅に残っている。


ーーーーーー


その日、四度目の見舞いに次郎とお澄が現れた。

手には、小さな包みが2つ。

1つは島吉利から届いた高麗人参を、次郎が薬房で調合したものだった。


布団の上に横たわる又衛兵に次郎が声かける。

「義兄上、吉利義兄よしとしにいさんから薬が届きました。高麗人参です。調合してきましたので、少しずつ服してください」


又衛兵は目を開け、次郎を見た。

「……あいつも、気を遣ってくれるな」

次郎は頷いた。

「ええ。今は行けないので、自分の分も義兄上を頼むと、文に書いておりました」

まつが湯を差し出し、次郎が薬を手渡す。

――余計な一言を添えて。

「義兄上、戦場で熱くなるのはダメですよ。

その熱が、時に味方を危うくするんですよ?」


かつて又衛兵が次郎に言った言葉がブーメランとなって返って来た、

又衛兵は静かに薬を受け取った。

「そうだな……猿も木から落ちると言うやつだ」

そして笑い。

「だが、落ちた猿を拾ってくれる義弟がいるから、まだまだ登れる」

次郎も笑う。

部屋の空気が軽くなり。

お澄とさやも、ほんのりと笑みを浮かべた。


又衛兵が薬を飲み終わったところで、次郎が2つ目のつつみを広げた。

「これは?」

「石鹸と言って服を洗ったり、体を洗うのに使うと汚れがよく落ちます。最近お澄の臭いが気になって作ってみました」


一瞬、空気が止まった。

又衛兵の視線がお澄に向かい、さやは湯桶を持ったまま、『お澄さま…』と動きを止める。

お澄は顔を赤くして俯いた。

次郎は包みを開いたまま、涼しい顔で続ける。

「ふふ。やだな、冗談ですよ。本当は自分の臭いが気になって作ったんです。お澄が臭い訳ないじゃないですか。なぁ、お澄?」


お澄は次郎を睨んだ後、ふいに頬を膨らませた。

そして――

「……知りません!」

と言って、顔をそむけた。

怒っているというより、拗ねた空気がふわりと広がった。


次郎は包みを閉じながら、心の中で呟いた。

(あれ、お澄も怒るんだ?)


「ねえ、お澄怒ったの? ゴメン、本当に冗談だから」

「知りません!」


次郎が正面に回り『ごめん』と謝る度に、お澄はぷいと体を横に向ける。

お澄の顔はどこか楽し気で笑っているようだった。

「ねえ、お澄こっち向いて」

「嫌です! 意地悪な次郎は嫌いです!」


又衛兵は、二人のやり取りを見て、静かに笑う。

戦の傷はまだ癒えぬ。

だが、こうして笑える家族がいる限り──

俺は、まだまだ戦える。


夏の屋敷には、心地よい笑いの風が吹いていた。

攪拌かくはん

攪拌とは、液体などをよく混ぜることです。

石鹸づくりでは、油と灰汁を混ぜて泡を立てるために使います。

ただの「まぜる」より少し技術がいる作業です。

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