60 虐めで消された名将
神拝陣屋入り口。
※正重視点
正重は、傷ついた又衛兵を見つめながら呟いた。
「藤田孫次郎とは、何者か」
正重の問いに家臣や兵たちが互いに顔を見合わせる。誰もその名を聞いた事がなかった。
村の長老が一歩前に進み出て、頭を下げた。
「藤田孫次郎様は、亡くなられた藤田民部様の遠縁で、その才を買われて養子に迎えられたそうです。
孫次郎様は、幼くして両親を亡くされており、この村にいる姉君に育てられたと聞きます」
正重は目を細めた。それは獲物を見つけた目だった。
「そうか姉が育てたか…。ならばその者を連れて参れ」
その言葉を聞いた兵士らが、直ちに動く。
村長から姉の居場所を聞きだすと、すぐに姉の元へと走った。
玄馬が正重に尋ねる。
「連れて来ていかがされる気ですか。まさか姉を餌に、降伏させて殺すつもりではありませんよね」
正重は笑って、応える。
「その通りじゃ。又衛兵をこのような目に合わせた償いをさせてやる」
玄馬は次郎がこの場に居ない事に深いため息をついた。
「父上、又衛兵をここまで鮮やかに打ち破ったのです。間違いなく名将でしょう。ここは曹操が徐庶を手に入れたように、姉を餌に家臣にするべきです」
源太郎や兵馬、友之丞は何も言わなかった。
頭では玄馬の言い分は分かるが、目の前の又衛兵の姿を見て、賛同する訳にはいかなかった。
正重はため息を吐いた。
「玄馬、お前は弟の仇を討とうとは思わんのか」
玄馬は応える。
「仇を討つも何も、又衛兵は死んでおりません。万卒は得やすく、一将は得難しと言うではありませんか」
荷車の上で、又衛兵が体を少し起こし、掠れた声で言った。
「御屋形様……次兄の言う通りにして下さい……」
正重が又衛兵を見た。
「やつは……ロングボウも、赤備も、大軍をも破りました」
又衛兵は、言葉を切りながらも、
その目に迷いはなかった。
「殺してはなりません……」
正重が又衛兵に言う。
「無理をするな。元より殺すつもりはない。ただ、玄馬が殺す気かと聞いたゆえ、その通りと言ったまでじゃ」
ーーその時、兵が孫次郎の姉を捕らえて来た。
「この者が孫次郎の姉の雪です」
雪は、兵によって縄で腕を取られながらも、顔を伏せていた。
正重は怒りをあらわにした。
「誰が縛って連れて来いと言った!」
正重は雪の元に駆け寄ると、縄を解く。
「家臣が失礼をした。わしは楠予正重と申す。貴女は藤田孫次郎殿の姉君、雪殿に相違ないか?」
雪はゆっくりと顔を上げ、頷いた。
目元には疲れが滲んでいたが、瞳は澄んでいた。
「はい。私が孫次郎の姉です」
玄馬が一歩前に出る。
「父上、ここで雪殿をどう扱うかで、孫次郎の判断も変わりましょう」
源太郎が静かに言った。
「……判断を誤れば、敵将を敵にしたまま終わります」
正重は頷いた。
「分かっておる。雪殿を客として丁重にもてなす。客間に案内せよ」
「はっ」
雪は兵士の案内により、陣屋の屋敷へと連れられて行く。
正重が雪を見送りながら、ポツリと呟いた。
「藤田孫次郎、忠義と家族、果たしてどちらを選ぶかな」
「最悪でも砦は手に入れたい所です」
「そうか、俺は砦よりも名将が欲しいぞ」
源太郎の発言に皆が賛同し、頷いた。
その夜。
正重は一通の書状を藤田孫次郎宛にしたためた。
ーーーーー
八月九日、朝。
※藤田孫次郎視点
砦の門前に、楠予家の使者――友之丞が現れた。
旗は掲げられておらず、後ろに控えるのは護衛の兵が2人だけ。
孫次郎は砦の上からその姿を見つめ、
「来たか」と呟いた。
孫次郎は恐らく降伏勧告の使者が来るだろうと予想していた。
もちろん受けるつもりはない。
――次なる戦いの準備は出来ている。
孫次郎は先の戦で金子・石川連合軍が負けた理由を徹底的に調べた。
始めは、金子家と石川家が臣民を落ち着かせるため、新たなる弓の脅威を隠していた。
だが真実はいつまでも隠し通せるものではない。孫次郎は金子・石川連合軍がロングボウにより破れたのだとすぐに知った。
――そして対策を考えた。
上役の松下知家へは、楠予家の侵攻に備えるべきだと何度も上書を提出した。
だが知家は『楠予は越智と争い、こちらには来ぬ、この間抜けめ!』と上書を破り捨て、孫次郎に叩きつけた。
孫次郎も馬鹿ではない。
知家が賄賂を好む事を知ると、付け届けをちゃんとした。
宴会では嫌いな酒を、知家に強要されても、潰れるまで楽しそうに飲み。恥ずかしい宴会芸も披露してご機嫌を取った。
それでも知家との関係は一向に改善しなかった。
松下知家もまた、孫次郎の事を見抜いていた。
最初は単に気に入らないだけだった。
友人と庭の縁側で囲碁をしていたら、孫次郎が与力になった挨拶に来た。顔が気に入らなかったので、庭で待たせていたら、4時間ほどで『また、後日お伺いします』と勝手に帰ってしまった。
最近の若造は――根性が足らん!!
さらに話してみて、より一層嫌いになった。
正論を吐くので、気に入らないと言うと、意見を変え別の案を出すのだ。ころころ意見を変える小物だと思った。
孫次郎が付け届けを持って来た時は、やっぱり口先だけの小物だと確信した。
宴会では孫次郎が酒を嫌いな事を知っていて、勧めてやった。
すると孫次郎は楽しそうに酒を飲み、醜い裸の宴会芸を披露して場の笑いを大いに掻っ攫った。
――正直、虫唾が走った。
それで、潰れるまで酒を飲ませてやったが、奴の顔はもう見たくない、存在自体がムカつくのだ。
ゴミには早く消えて貰うべきだろう。
松下知家はこうして当主・金子元豊に、孫次郎に関するでっち上げの報告書を送るようになった。
それが功を奏し、次の報告で孫次郎の命運は尽きる筈だった。
――だがそうはならなかった。
楠予家の軍議で楠河昌成が『東へ向かうべきだ』と進言し、楠予軍が襲来したのだ。
孫次郎はただ一人、楠予家の来襲に備え、立ち向かい。
そして――勝利した。
「門を開けよ、使者に会う」
孫次郎は飯岡砦の門を開け、門前で友之丞に会った。
中に使者を入れれば、砦の備えが知られてしまう。
友之丞は一礼し、文を差し出した。
「楠予正重公よりの文です。
藤田孫次郎殿の才を惜しみ、家臣として迎え入れたいとのこと。
兵の命は保証し、砦の地位はそのままです」
孫次郎は文を受け取らなかった。
「過分な評価痛み入る。だが降伏はしません。勝てると分かっていて、降る馬鹿は居ないでしょう」
「勝てる? 楠予家の本軍は未だ健在ですよ。神拝陣屋には千三百の軍勢がおりますが、それでも勝てると?」
孫次郎はさも当然の如く、首を傾げた。
「勝てますが、何か?」
友之丞はイラっとした。
こいつ俺を怒らせるために言ってるのか、それとも天然なのか! と自問した。そして切り札を出す事に決める。
「良いのですか? 孫次郎殿の姉君は、孫次郎殿が楠予家と戦い続ける事を望まれないと思いますよ。客としてもてなされている姉君の事をもっと考えて下さい」
孫次郎は動揺した。
「っ!! 姉が楠予家の手に落ちたとでも言うのか、ありえん……」
友之丞は形成が逆転した事に気を良くした。
「姉君から文と、この簪を預かって来ました。なんでも孫次郎殿が雪殿に贈ったとか……」
簪を見た孫次郎は姉が楠予に居ると知った。
「確かに……、これは俺が姉に贈ったものだ」
孫次郎は松下知家に、万一の時は姉を連れて逃げて欲しいと頼んでいた。
姉の夫は知家の家臣で、先の楠予との戦で戦死した。姉は今、子供たちを一人で育てていた。頼れるものは少ない。
孫次郎は念のため、知家の側近と村の村長にも金を渡し、姉の事を頼んでいた。
ーー三重に手を打ったつもりだった。
だが、三人とも孫次郎との約束を反故にした。
孫次郎は拳を握った。
「くそっ……味方だと思っていたのに……」
孫次郎は敵の動きは読めても、味方の悪意を見抜けなかった。
「姉は……無事なのだな……」
友之丞は笑顔で応える。
「客として、丁重に扱われてます。
正重公自らが言葉をかけ、広場にて面会されました」
孫次郎は目を伏せた。
風が砦の石垣を抜け、蝉の声が遠くに揺れた。
「……姉は、逃げられるはずだった。
知家に頼んだ。側近にも、村長にも……」
言葉はそこで途切れた。
友之丞は何も言わなかった。
孫次郎は砦を振り返った。
金子家の旗が風で揺れていた。
兵は沈黙し、こちらを見ていた。
「……罠は整っている。兵も揃っている。
だが、姉が楠予にあるなら……」
その声は、怒りでも誇りでもなく、ただ沈んでいた。
「……文をください」
友之丞は二つの文を差し出した。
孫次郎はそれを受け取り、目を通した。
風が止み、孫次郎は目を閉じた。
ーーーーーー
半刻後(一時間後)
手紙を受け取った孫次郎は、家臣に別れを告げ砦を出た。
馬を駆り友之丞と共に、正重の元に向かう。
昼を過ぎた頃、孫次郎は神拝陣屋にたどり着いた。
屋敷の広間に入ると、傍らには雪が座していた。
目が合った瞬間、雪は静かに頷く。
孫次郎は何も言わず、ただ一礼した。
中央の上座には正重が座り、その光景を見ていた。
友之丞が一歩前に出て、静かに言った。
「これなるは、南の飯岡砦を守備しておりました藤田孫次郎にございます」
孫次郎は膝をつき、頭を下げる。
「姉を守っていただいたこと、深く感謝いたします。
金子家の者は、私の家族を見捨てました。
以後、楠予家に忠誠を誓う所存にございます」
正重は立ち上がり、ゆっくりと孫次郎に近づいた。
そして孫次郎の肩に手を置いた。
「又衛兵を破った貴公のお手並み、見事であった。
期待しておるぞ――藤田孫次郎」
「ははっ……以後、命に従い、忠誠を尽くします」
この日、楠予家に新たなる力が加わった。
それは、砦でも兵でもなく――名将だった。
本来なら、松下知家の私怨と讒言に沈み、歴史の余白に消えるはずだった男。
その男が新たな運命に導かれ、歴史の表舞台に立とうとしていた。
その名は藤田孫次郎。
本来の歴史では虐めで消された――四国最強の名将である。