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59 局地戦の思わぬ敗北

1541年8月5日。


池田の里に蝉が鳴き、空気はすでに戦の気配を孕んでいた。

焼けるような太陽の下で、楠予軍は金子領を目指し、東へ進軍を開始した。


総大将は楠予正重。

率いるは、常備兵七百、農民兵七百――合わせて千四百の大軍である。


兵の列は三筋に分かれ、槍を立て、旗を揺らしながら、威風堂々と行進する。

先頭を切るのは、兵馬率いる百人の赤備え歩兵隊だ。


兵馬は赤い甲冑に身を包み、馬上で呟いた。

「この戦は、赤備えの制度の芯を問うものだ」


赤備えは、武勇と統制の象徴として編成された楠予家の新たな精鋭部隊。

その動きは揃い、空気を裂くように進んでいた。


軍の後方には、正重と源太郎の率いる本隊があった。正重は馬上で地図を広げ見る。

「平野を制した後、船山丘陵の西側に築かれた砦を落とす。丘陵の西側までを制するのが今回の目標だ」

源太郎は頷き、兵の列を見つめた。

蝉の声が遠く、空気は沈みながらも、兵の足並みは確かに揃っていた。



ーーーーーーー

金子家の西拠点、神拝陣屋。

筆頭家老

※松下知家視点


金子領西部の平野に、楠予軍の旗が見え始めたのは、8月5日の昼過ぎだった。それを見た物見の1人が、急いでこの地域の政務と軍務を司る、神拝陣屋へと走る。


西の金子領を預かるのは、筆頭家老の松下知家。

知家の祖先は代々、金子家の重臣にして、妻は金子一族の出だった。

――その血筋により、西の領の守りを任されていたのだ。


伝令の報告を聞いた知家は、地図を睨みながら唸った。

「くそっ、援軍は頼めない。当主の元豊様は石川尚義に攻められて金子城に釘付けだ」


神拝陣屋では、石川氏の侵攻により、本城へと援軍を送っていた。

そのため、陣屋に残る兵はわずか五十人ほどだった。

 とは言え知家が、楠予が越智家を攻めると言う噂――楠予が流した流言――を信じず備えていれば、

 近隣から農民兵を二百ほど召集し、さらに指揮下にある二つの砦から二百を集めて、総勢五百近くの兵で迎え討つ事は可能だった。


「……おのれ、これもあの鬱陶しい無能のせいだ! あいつが楠予が攻めてくるなど言うから現実になったんだ! この兵力差では戦いにならん!」


知家は戦わずして逃げる道を選んだ。

金子本領へ退却するには、船山丘陵の北か南の道を通る事になる。

 北の道の近くにある船屋砦には、知家のお気に入りの与力、村瀬貞之がいた。ゆえに知家は迷うことなく、北の道を選んだ。


一方で南の飯岡砦には、知家が何となくだが気に入らないと言う理由で、事ある毎に難癖をつけ虐めている武将――藤田孫次郎がいた。


知家は藤田を貶めるため数々の偽りの報告を奏上した。金子一族はそれを信じ、当主の金子元豊は、『次に藤田が問題を起こせば所領を没収し、切腹させよ』憤った。それを伝え聞いた知家は、腹を抱えて笑った。

――松下知家とはそうした男である。


松下知家の妻・おさいは、兵士に米俵を荷車に積み込ませ。幼子・弥市を侍女に背負わせて逃げる準備をしていた。

「金目のものや、金子の印がある袋は残さず持っていくのよ、いいわね!」

「「はい!」」


主君の家族が真っ先に逃げだすのだ、家臣の家族たちも、当然それに習う。

金目の物を懐に入れると、畑を捨て、家の門は閉ざすことなく、北の道へと慌ただしく逃げる。


夕方――荷車の軋む音と、赤子の鳴き声が消え、

残されたのは、廃墟となった家々だった。

畑には鍬が刺さり、

開け放たれた門が、風に揺れていた。


翌日、楠予軍が神拝陣屋に入った時、

村の老人が畑の隅で、

「次は誰が来るのかの」と一人呟いた。


ーーーーーーーーー

※楠予正重視点


楠予軍が松下知家の神拝陣屋――西部の役所を制圧したのは、八月六日の朝の事だった。


門はすでに開かれ、陣屋の中には兵の姿はない。

庭には水桶が転がり、屋敷の中では床に帳簿が散らばっていた。倉庫はもぬけの殻で、金子家の印が押された空の袋があるだけだった。


正重は屋敷の広間に入り、

「ここを拠点とする。まずは楠予家の支配を整えよ」と告げた。

源太郎たちは頷き、六百の兵を屋敷と周辺の行政区に配置した。


残る八百は、砦の制圧に向けて二手に分かれることとなった。

北の船屋砦へは兵馬の率いる四百が。

南の飯岡砦へは又衛兵の率いる四百が向かった。


侵攻作戦の成功を既に確信していた正重は、金子領西部の支配体制の再編に取り掛かった。

逃げた役人の代わりに、楠予家の文吏の配置や、村々の戸籍と年貢の帳簿を再整理する準備に取り掛かった。

「戦で勝っても、領を動かさなければ意味がない」

正重はそう言い、広間に地図を広げた。


源太郎は、兵の配置を地図で確認しながら、静かに言った。

「松下知家は退いた。二つの砦も、時間の問題だ。

これで、船山丘陵から西側は――我らの物だ」


蝉の声が再び鳴き始める。

金子領は楠予領へと変わり、楠予の制度が敷かれようとしていた。


ーーーーーーー

※兵馬視点


八月七日、北の舟屋砦に向かった兵馬は、戦をする事なく砦へと入った。

砦の門は開かれ、金子家の守備隊の姿はなかった。

船屋砦の指揮官・村瀬貞之は、上役の知家の落ち延びる様子を見て、やむなく家族と共に逃げ出した。


兵馬は砦の構造と物資を確認し、百人の兵を残して守備にあてた。

残る三百を率いて、正重の元へ帰還したのは、同日夕方のことである。

正重は広間で政務の指揮を執っていた。

兵馬が膝をつき、砦の制圧を報告すると、

正重は静かに頷き、

「よくやった。金子の制度ぎょうせいは崩れていたが、砦は守らねばならぬ」と労をねぎらった。


兵馬は一礼し、源太郎と目を合わせた。源太郎は頷いた。

空気は揃い、侵攻作戦の成功を喜んでいた。

だがその直後、伝令が駆け込んだ。


「南の飯岡砦方面より報告――又衛兵殿、負傷。砦に向かった軍勢四百は敗走中との事です!!」


広間に緊張が走った。

源太郎は机上の地図を見つめ呟く。

「……知家が逃げたと言うのは偽りの情報だったのか。

まさか、反撃の機を窺っていたとは……」

正重は何も言わず、

砦の位置を見つめていた。


玄馬が伝令に尋ねる。

「又兵衛の具合は? 敵の数は?」

「命に別状はありませんが、重症です。敵は当初は五十名ほどでしたが、逃げた敵を追った三百の兵が破れました。本当の数は不明です」

「父上、警戒が必要です。勢いに乗った金子勢が押し寄せるかも知れません」

正重は頷く。

「見張りを立てよ。夜襲に備えるよう皆に伝えるのじゃ」

「はっ」


侵略成功の確信は、南から届いた敗北の報で崩れた。

神拝陣屋には、静かに――眠れぬ夜が訪れた。


ーーーー

時は、少し遡る。

※又衛兵視点


八月七日――

又衛兵は南の飯岡砦へ向かう途上で、五十ほどの金子軍と遭遇した。


槍や刀を持つ者に混じり、鍬を手にした者までいる。

どう見ても、寄せ集めの兵――

戦の空気よりも、土の匂いが強かった。


その中から、一人の若武者が歩み出る。

「我こそは藤田孫次郎、飯岡砦の守将なり! この地を侵す事、断じて許さぬ。引き返されよ!」


どう見ても十代後半の若造である。

又衛兵は、武士の情けを掛けてやることにした。

進み出て名乗りを上げる。

「我は楠予家の又衛兵! この戦、もう勝負はついた。

無駄に死ぬことはない――武器を捨てて降れ、命は取らん」


孫次郎は笑って応える。

「勝てると分かっていて、降伏する馬鹿がどこにいる。ぐだぐた言わず引き返せ。さもないと容赦はせぬぞ」

「はははっ。その軍勢で何ができる。これが最後の情けだ、降伏しろ!」


孫次郎はさっと手を上げる。

「頭の悪い奴だ、これでも食らうがいい、弓隊構えぇ!!」

孫次郎の後ろに控える弓を持った兵10人ばかりが又衛兵に向かって弓を構えた。

「放てぇぇ!」

矢が一斉に飛び、

いくつかの矢が又衛兵の近くの地面に突き刺さる。


又衛兵は、かけた情けを踏みにじられ、怒りを露わにした。

「おのれ小童こわっぱが――調子に乗りおって!

よかろう、本当の弓を見せてやる。弓隊構え!」

孫次郎も同時に命を下す。

「散開せよ!!」


弓隊がロングボウに手を掛ける。

その時——金子勢は散開した。

又衛兵は目を細め、訝しみながらも命を下す。

「放てえぇぇ!!」

ロングボウが一斉に唸りを上げ、

百を超える矢が空を裂いて、金子軍に降りかかった。

これを金子勢は、事前に地に伏せてあった大盾を構え、迎え撃った。


矢は盾に吸われ、兵は崩れなかった。

金子勢は広く散り、矢の雨が薄くなっていたのだ。


又衛兵は直感的に何かがおかしいと感じた。

だが、義弟じろうの作ったロングボウが、山でも城でもなく、平野で通用しなかった事への怒りの方が大きかった。


「おのれ! ならば、騎馬で蹴散らす!! 騎馬隊、我に続け!」

又衛兵は自ら赤備えの騎馬三十を率いて突撃した。

敵は寄せ集めの五十人程度集団、騎馬の突撃で崩壊するのは目に見えていた。それゆえの突撃だった。


孫次郎が再度命を飛ばす。

「盾を捨て、密集隊形だ。急げ!」

金子勢は盾を捨て、再び密集隊形に戻った。

又衛兵は目を細めた。

散開された隊形よりも、密集隊形の方が騎馬の突撃には脆い――

なのに、金子勢は逆を選んだ。

だが、又衛兵に考える暇はなかった。赤備え隊は既に突撃体制に入っており、各自が狙いを定めていた。ならば下す命はただ一つ。

「金子軍を粉砕せよ!!」

それに呼応するかのように孫次郎が命を下す。

「矢を突き立てろ!!」

又衛兵の騎馬隊が衝突する直前、金子軍は地面に隠していた竹槍を一斉に地面に突き立てた。

(まずい!!)

又衛兵が槍を視認した直後、

騎馬隊は竹槍に突撃し――壊滅した。


又衛兵は馬ごと地に叩きつけられ、左脇を竹槍で深く抉られた。

突撃の衝撃で視界が揺れ、音が遠のく。

地面の土が、流れる血を吸い込み、

又衛兵の意識は闇に沈んでいった。


又衛兵の筆頭家臣・矢野幸利は騎馬隊が壊滅する様を見て、すぐさま命を下した。

「殿を救うのだ! 全軍突撃せよ!!」と。

もし幸利のこの判断が一瞬でも遅れていれば、又衛兵の首は金子勢に取られていただろう。


孫次郎は楠予軍の動きを見て、騎馬隊の衝撃を耐えきった直後の部隊に命を下す。

「全軍退却! 急げ!」

金子勢は蜘蛛の巣を散らすように逃げ出した。


矢野幸利は又衛兵の生死を確認すると、介護を他の家臣に任せ、そのまま三百の兵を率いて追撃に移った。

金子勢が逃げた道は隘路(狭い道)で道幅は十メートルほど。

楠予の兵は五列に並び、追撃した。

だが前列が開けた地に出た瞬間、空気が裂けた。


金子勢は突如反転。

さらに伏兵五十が左右に現れ、

まるで鶴翼のように楠予軍の先頭を囲んだ。


「おのれ謀かったか!」

矢野幸利は先頭集団にいた。主の負傷でいきり立ち、自らが先頭を駆けていたのだ。


全速力で追撃していた楠予軍の息は絶え絶え、その上の新手の登場だ。

――しかも地の利は最悪。

矢野幸利は奮戦したが討ち死にした。指揮官を失った兵はたちまち総崩れを起こし、屍の山を築きながら逃げ出すしかなかった。



ーーーーーー

飯岡の戦い

※楠予軍 兵力約四百。

死者   八十二名。

負傷者 百二十一名。


※金子軍 兵力約百。

死者     八名。

負傷者   一五名。


飯岡の戦いは楠予軍の歴史的惨敗に終わった。

ーーーーーー


翌8月8日。

敗走兵と共に、又衛兵は荷車に乗せられて帰還した。


正重は屋敷から出て、陣屋の入り口で兵士らを迎え入れた。

そして荷車の上の又衛兵を見た。

「又衛兵、大事ないか」


又衛兵は血の気の引いた顔で正重に、

「俺が見誤りました、申し訳ございません。

ですが…孫次郎はただ者ではありません、

どうかお気を付けください」

と言った。


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