幕間 七難八苦の誓い(越智家版)
1541年7月中旬 国分寺城
※越智輔頼視点
簾越しに陽が差し、広間の畳に淡い影を落としていた。
蝉の声が遠くから響き、空気はじっとりと肌にまとわりつく。
古谷宗全は団扇を軽く振り、額の汗を拭っていた。
川之江兵部ら重臣数名が黙って座り、広間の空気に沈んでいる。
その時、通路の向こうで足音が軋み、楠予元清が数名の家臣を連れて広間に現れた。
古谷らは苦々しい表情で元清を迎え入れたが、誰も言葉は発さなかった。
二か月前――
元清の降伏が認められ、越智家は再び一つに戻った。
分裂時に元頼に与した家臣たちは、形式上輔頼の直属に戻ったが、実際には元清の与力として再配置された。
元清による三宅主膳の粛清以降、越智家の空気は静かに変わり始めていた。
輔頼は、降伏の際に元清から提出された起請文を大変喜んだ。
それは、越智家の再統一を制度として示す一枚だった。
元清は起請文を差し出したのち、古谷らを一瞥し、さも当然のように告げた。
「輔頼様の忠臣ならば、神仏に誓う文をなぜ提出せぬのだ。異心でもあるのか」
その言葉に、古谷らも起請文の提出を余儀なくされた。
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※起請文は――神仏に誓って忠誠を示す文書である。
この時代、戦国大名はまだ家臣団に制度的に提出させる例は少なかった。
武田家では、信虎が1546年に今川との同盟に際して起請文を用いた記録があるが、信玄が家臣団に忠誠を誓わせる制度を本格化させるのは1550年代以降だ。
毛利元就も、厳島の戦い後の1555年から家臣団の再編と共に起請文を制度化。
北条氏康も同様に、1550年代から起請文による家中統制を進めていた。
つまり――1541年、越智家による起請文の制度化は、時代に先んじたものだったのだ。
この話を聞いた壬生次郎忠光は「へえ、凄いじゃん」と呟いた。
その二週間後、
楠予家にも起請文制度が導入された。
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越智元清は、広間の上座付近に据えられた重臣席に静かに座した。
その位置は、古谷宗全や川之江兵部と真正面で向かい合う形だった。
広間の空気には緊張が走り、蝉の声だけが簾越しに響いていた。
誰も言葉を発さず、団扇の風も止まっていた。
その時、小姓が通路の奥から声を張った。
「御屋形様の、おなりにございます」
広間の空気が一瞬揺れ、越智輔頼が広間に現れた。
白地に黒の羽織をまとい、足取りは静かだが、目元には怒気が滲んでいた。
古谷が膝を正し、兵部が目を伏せる。
元清は微動だにせず、ただ視線を前に向けていた。
輔頼は上座の席に座り告げる。
「楠予が二千五百の大軍で攻めて来る」
古谷が息を呑む。
「……なんと、それは真ですか」
楠予の石高は今や5万石、農民兵を集めれば2500は十分に動員可能な兵数だった。
輔頼は巻紙を懐から取り出し、古谷の前に放り投げた。
「真じゃ。これは楠河から届けられた密書じゃ」
古谷が密書を拾い上げる間、川之江兵部が不審を口にする。
「楠河は先の戦で日和見を決め込み、楠予に寝返った裏切り者。
今さら我らに密書とは、解せぬ」
古谷が巻紙を開き、目を通す。
やがて、なるほどと頷いた。
徳重家忠が静かに問う。
「古谷殿、密書には何と?」
古谷は巻紙を膝に置いた。
「楠河らは日和見を決め込んだせいで、楠予に所領安堵を反故にされて、所領の半分を奪われたそうじゃ。
同じ一族なのに許せぬと申している。
越智家の内通者として役に立つゆえ、
いずれ機が訪れた際には、越智家に戻らせて欲しい――そう書かれておる」
川之江兵部が頷いた。
「なるほどな。所領の半分も取られては、寝返るのも無理はない。
それで――楠予はどこから攻めて来ると書いてあるのだ」
古谷は巻紙を見直し、静かに答えた。
「攻め口は、楠河には知らされておらぬらしい。
ただ、広江港に怪しい動きがあり、
一部は今張港付近に上陸する可能性もあると申している」
越智輔頼が即座に告げた。
「兵を招集せよ。楠予から国分寺に繋がる陸路は二つ。
さらに港を守るため、兵を分散して配置する」
その声に、評定は決したかに見えた。
だが、広間の空気はまだ動いていた。
越智元清が一歩進み出る。
「お待ちください。今は農繁期――兵を動かせば、田畑が荒れます。
それに本当に楠予が動くのかも分かりませぬ。
とりあえずは招集の準備だけさせ、
密偵を送り、真偽を確認させるべきかと存じます」
古谷宗全はなるほどなと頷いた。
「御屋形様、元清殿の申す通り、まずは密書の真偽を確かめるべきかと。
今は農繁期――兵を集めては、今後の領国経営に響きます」
越智家の評定は、楠予家に密偵を送ることで決した。
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※後日談
一週間後、楠予領に放たれた密偵が戻り、報をもたらした。
それは、楠予家が兵の招集を掛け、屋形に兵が集まりつつあるというものだった。
同じ日、別の密偵からも報せが届いた。
それは、村上水軍の軍船が広江港に停泊しているとのことだった。
越智家の軍勢をたった一つの手紙で動かす――玄馬の策は、見事に成功した。
越智輔頼は、三方からの侵攻に備えるため、軍勢の総動員を決断した。
その数は二千――これは、先の戦から立ち直っておらず、石高が4万石を切ってしまった越智家にとっては、無理をした動員だった。
輔頼の決断の裏に、
かつてロングボウの威力を前に逃げ去った時の恐怖が、
微かに残っていた可能性は否めない。
越智元清もまた罠を見抜けなかった。
楠予との初めての大戦に臨み、
気持ちが高ぶり、如何に楠予を罠に嵌めるかに思考を巡らせていのだ。
そのため――兵を集めさせるための策だとは、気づかなかった。
楠予軍が反転し東に向かい、せっかくの罠が無駄になったと知った時、
元清は朝倉砦の広間で叫んだ。
「天よ、我に七難八苦を与えるつもりか――ならば、与えるがよい」と。
元清は楠予家を人生最大の敵と認め、
『どのような苦難が与えられようとも、必ず楠予を滅ぼしてみせる』と、
改めて心に誓った。
※豊臣家の百石7人制を参考に、近場なら1万石で500人以上の兵が動員可能として計算しました。