58 軍議
1541年7月中旬
夏の暑さがじわりと染みる頃――
正重から、重臣たちへ軍議の招集がかかった。
池田の里の武家町に住む楠予一族と重臣たちは、それぞれの家を出て、楠予屋敷へと向かう。
軍議には、新たに加わった大野虎道・国安利勝・高田圭馬・楠河昌成の四名も呼ばれていた。
楠予家の家臣たちが広間に揃い、左右に分かれて席に着く。
上席には楠予一門が並び、その下に重臣、
末席には、大野ら四人が静かに控えた。
正重が姿を現すと、
重臣たちが一斉に頭を下げて迎え入る。
正重は無言のまま上座へと進み、ゆるりと腰を下ろした。
広間を見渡し、静かに言った。
「……皆、よく来てくれた。頭を上げよ」
皆が頭を上げると、すぐさま次郎が立ち上がり、
広間に掲げられた地図の前に進み出た。
地図には、越智家の領地と砦の位置が記されていた。
「……越智家を攻めるにあたり、国分寺城への攻路は二つあります」
次郎の声は静かで、空気を揺らさない。
「北の海沿いから山を越え、国分寺城へ向かう道。
もう一つは、西北の山道を通り、朝倉砦を落とした後、国分寺城へ向かう道です」
大保木佐介が巻紙を指で押さえながら言う。
「……北の道は狭く、守りに適した場所があります。
越智家にここを押さえられれば、容易に通れません」
玄馬が地図を見つめ、言葉を継ぐ。
「朝倉方面は比較的広い。だが、やはり大軍を動かすには難がある。
砦も堅固で落とすのが難しい」
次郎が一拍置いて言う。
「つまり、どちらの道も守りに適しているのですね。
ロングボウには弱点があります。城攻めや、山での戦闘が不向きなのです。あまり当てにはなりません」
一瞬の静寂が広間を包み、誰も言葉を発さなかった。
視線だけが地図の上を彷徨い、思案の空気が広がった。
又衛兵が膝を叩いた。
「ならば義弟、船で海を渡り、今張の港から国分寺を攻めればどうだ? 村上水軍の島と我らは義兄弟だ、船の伝手はある」
玄馬が否定する。
「馬鹿か…。敵地に乗り込んでは、負けた時に逃げ道が無くなるではないか」
「次兄、バカとはなんだ。負けねばよいだけではないか!」
次郎は静かに言った。
「義兄上、海からの攻めは敵の意表を突き魅力的です。ですがやはり敵地で逃げられぬ状況は危険すぎます。勝敗は時の運と言うではありませんか」
「ぬぬっ、確かに勝敗は時の運。義弟がそう言うなら、こたびは次兄に従おう」
作兵衛が胸を張る。
「流れを変えるには、まずは調略じゃ。わしが一つ、越智の家臣と話してみよう」
甚八が首を振る。
「いや、朝倉砦の前に兵を出し、焚き火を焚けば、越智家は動く。
それでよい」
「なにを言うんじゃ甚八、それが難しいと言うとるじゃろが!」
次郎は評定の場を見渡しながら、皆の顔色を窺った。
意見は交差し、議論は交わされるが、芯はまだ立っていない。
ふと、末席の四人が目に入った。
大野らは、言葉を発さず、ただ広間の空気を見守っていた。
新参者が出しゃばる場ではない――その空気を、彼らは正しく読んでいた。
(……こいつらも仲間だ。声をかけてやろう)
「新たに加わられた四名の方々も、お考えがあればお聞かせ願えますか。
海沿いの道筋と山沿いの道筋――いずれが適しているとお感じでしょうか」
次郎の言葉に、大野が静かに応えた。
「それがしは西北の道に詳しく、案内も可能かと存じます」
続いて、国安が頷く。
「私も同様に、山道には心得がございます」
高田が一拍置いて言う。
「それがしは、海沿いの道筋に縁がございます。そちらなら、お役にたてるかと」
楠河昌成は目を閉じたまま、何も言わなかった。
他の三人が言葉を交わす中、ただ黙していた。
「楠河殿はいかがか?」
次郎の問いに、楠河はゆっくりと目を開け、言葉を置いた。
「拙者は……東へ向かうべきと存じます」
その一言に、広間の空気が揺れた。
一族・重臣の目が一斉に楠河へと向かう。
末席の大野らも、思わず目を見開いた。その目には、『この場で何を言い出すのか』という空気が滲んでいた。
楠河は構わず言葉を継ぐ。
「越智が攻めにくいのであれば、まずは金子を攻めるのが宜しいかと存じます。
金子は今、石川の軍勢に攻められ、山向こうの本城の金子城に籠もっているとか。
ならば、山よりこちら側にある、金子領は空き家も同然かと存ずる」
地形的に金子領は四国の真ん中の北あたりあった。北は瀬戸内海に面し、南には四国の中央部を東西に貫く、四国山地を抱えていた。
そして領内の中央には船山丘陵がある――舩山丘陵は200mほどの小さな山がいくつか集まって構成されたものだ。
金子家の本城は舩山丘陵の一部、東の金子山に築かれた山城であった。
金子家はその丘陵を境に、西と東の平野へと勢力を拡大していた。
兵馬が声を荒げる。
「馬鹿を言うな! 我らの敵は越智! 東が揺れている、今のうちに越智を討つべきだ!」
源太郎が兵馬の肩に手を添えた。
「まあ待て。楠河の言い分にも一理ある」
「兄上、しかし! 越智は我らの――」
友之丞が言葉を遮る。
「長兄の言う通り、楠河殿の意見には理がございます。
金子領の西半分は、1万石ほどの規模。
これを押さえれば、このあたり一帯の平野は全て楠予家の手に落ちます」
次郎も賛同する。
「私も賛成です。まずは攻めやすい所から攻めましょう」
玄馬が得意げに語る。
「戦って勝つは下策。戦わずして勝つは最上の策。此度は金子を攻め、その間に越智の家臣を調略するのがよい」
友之丞も学を披露する。
「勝者はまず勝ちて、しかる後に戦いを求め。敗者はまず戦いて、しかる後に勝ちを求むと言いますからね」
源太郎が正重の方へ、身体を向けた。
「では父上。調略は吉田作兵衛に任せ、我らは手薄の金子領を攻めると言う事で如何でしょう」
正重の返答より早く、大保木が手を挙げた。
「お待ち下さい。私の実家は今張の近くです。交友のあった地侍も多くいます。吉田殿と共に調略を致したく存じます」
正重が頷く。
「では調略は作兵衛と佐介に任せる」
玄馬が膝を叩き、口元をわずかに緩めた。
「……策が浮かんだ。この際、越智を困らしてやろう。
新参の誰かに、偽の内通者を演じさせ、越智輔頼にこう伝えさせる。
楠予の軍勢二千五百が攻め込む――守りを固めよ、と」
友之丞が感心するように頷いた。
「なるほど。農繁期の越智に兵を集めさせ、無駄骨を折らせるのですな。
ならば内通者には、さらにこう伝えさせましょう――
楠予は味方に偽の情報を流し、金子を油断させた。
そして、金子領へと軍を向けた……と」
一拍置いて、言葉を継ぐ。
「これで越智は、より内通者を信じるでしょう。
次の策にも、使える駒となります」
又衛兵が懸念する。
「だが、それでもし越智が我らの留守を好機だと思い、攻めて来ればどうするのだ。前門と後門に敵を抱える事になるぞ」
玄馬が笑う。
「越智が山を越えて来るのは願っても無い事だ。取って返してロングボウの餌食にすればよい」
楠河は胡坐のまま、ゆるりと両手を床につけ頭を下げる。
「ならば内通者の役目、この楠河が務めましょう。越智輔頼には、同じ一族でありながら所領を奪われたと言えば、信用するでしょう」
「ならばこの大野虎道も、間者役に志願いたす」
「それがしも」「私も」
作兵衛が笑う。
「なんじゃお主ら、本当に、越智に通じる気ではあるまいな」
兵馬が腕を組み、言い放った。
「通じたければ、通じればよいのだ。去る者は追わぬ。正義は我らにある」
大野は声を荒げ否定する。
「通じる訳がござらん! 池田の町を見て何も思わぬほど、耄碌してはござらん。わずかな期間でこれほどの町を作った御屋形様の手腕は尋常ではござらん」
国安、高田らも加勢する。
「さよう。この町は普通ではない。大きな道が整備され、人が規則正しく道を歩く。おまけに人が馬車に乗って、すごい早さで物を運ぶのだ。このような町は他にない」
「それだけではないぞ。我が村の農民は最近羽振りがよい。理由を聞けば農閑期に、御屋形の元で仕事をしていると言うではないか。わしが越智に寝返れば、民がわしに背を向けてしまう」
作兵衛が肩を揺らして笑う。
「だから言うたじゃろ。一度楠予に付けば、抜け出せなくなるぞ、とな」
正重が口を開く。
「では、越智への内通者役は――楠河と大野に任せる」
源太郎が正重に確認する。
「ならば父上、此度は大野ら4人と大保木、吉田の2名は越智への備えに残し、我らは千四百の軍勢で、東へ向かうと言う事でよろしいでしょうか」
又衛兵が言う。
「残っている金子の兵は恐らく、多くて三百。相手にならん」
皆が賛同し『そうじゃ、そうじゃ』と頷いた。
次郎がそれを諫める。
「侵略すること、火の如しと言います。
ですが油断は大敵です。
気を抜かぬよう皆で頑張りましょう」
その言葉に、広間の空気が一拍止まった。
誰も口を開かず、ただ次郎の顔を見ていた。
(……あれ? 俺、何か変なこと言ったか?)
又衛兵が静かに歩み寄り、次郎の肩に手を置いた。
「次郎。お前は戦場で熱くなる。
その熱が、時に味方を危うくするのだ。
此度は留守を預かるのがよいのではないか?」
又衛兵の言葉に、広間の者たちは『うんうん』と頷いた。
皆が賛同する様子を見て次郎は目を伏せ、場の空気を読んだ。
(あれ? これもしかして、たった一度の失敗で、俺は戦べたって事になったの?)
正重が広間を見渡し、静かに言った。
「次郎。そなたは、家を導く者じゃ。
戦場に出るより、留守を守る方がよい。
此度は後詰を頼む――お澄も結婚したばかりじゃ、その方が心強いであろう」
(……まあ、別に武功をあげたい訳じゃないからいいか。それに暑い夏に、鎧を着たくないしな)
次郎は頭を下げる。
「承知しました。此度は後方支援に努めます」
「うむ、頼んだぞ」
楠予家の軍議は定まった。
越智を揺らし、金子を討つ――その策は、静かに動き始めた。