57 お澄との婚礼
1541年7月7日
楠予屋敷
※お澄視点
夜の八つ時。楠予屋敷の庭には、灯りが数多く立てられていた。
空には雲がなく、星が静かに瞬いている。
(七夕……今年も、晴れたのね)
庭には籠が静かに据えられ、侍女のさやが荷を整えている。
麻布包みの反物、香、器――贈答品は地元の品で揃えられ、香の匂いが空気に沈んでいた。
お澄は準正室として迎えられる。
――だが、正室ではない。
式を華やかにすれば、家の空気が乱れる。
世継ぎの流れも、お琴の立場も、守らねばならない。
ゆえに正重は、壬生屋敷での式に出席する家族は又衛兵ただ一人と決めた。
祝いの形を最小限にする事で、家の空気を保とうとしたのだ。
母の千代が、お澄の袖を整えながら、静かに言った。
「式には出られませんが……幸せになるんですよ」
「はい……」
お澄は目を伏せ、そっと頷いた。
かつて七夕の夜に、願いがひとつだけ叶うならと星空に祈った事がある。
それは誰にも言えない――次郎への想いだった。
(わたし、あの人の元へ渡れるのね)
源太郎とまつは庭の隅に立ち、言葉を交わさずに見守っていた。
お琴がぱっと笑った。「お澄ちゃん、きれい!」
その声に、お澄は少しだけ振り返り、微笑んだ。
正重は庭の奥に立ち、何も言わなかった。
その沈黙が、家の空気を整えていた。
お澄が籠に乗り込むと、籠の脇に立つ又衛兵が籠持ちに声を掛ける。
「では参るぞ」
籠が静かに動き出した。
籠の横には侍女のさやが続く。
お澄が門を抜ける頃、庭の灯りがひとつ、風に揺れた。
それが、楠予家としての送り出しだった。
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壬生屋敷
※次郎視点
夜の風が、門の灯りを揺らしていた。
次郎は屋敷の門の前に立ち、籠の到着を待っていた。
広間では準備が整い、香が焚かれている。だが、次郎はじっとしていられなかった。
弥八が静かに歩み寄り、声を掛ける。
「殿。……花婿なんですから、広間でお待ちください。ここで花嫁を迎えるのは礼に反します」
次郎は少しだけ眉を動かし、楠予屋敷の方を見つめたまま答えた。
「……わかってる。でも、待ち切れないんだ」
弥八はそれ以上は何も言わず、ただ次郎のそばに控えた。
次郎は門に手を添えて、深く息を吸った。
(……お澄様は本当に来るのか? 俺の家に、俺の嫁になるために……)
灯りが揺れ、門の向こうに籠の影が見えた。
(きっ…、来た!!)
次郎は身を引き、急いで広間へと戻った。
それが、お澄の迎え入れの始まりだった。
壬生屋敷の広間には香が焚かれ、畳は新しく整えられていた。
次郎の父と母は座の末席に置かれ、言葉を交わさずに座していた。
上座の近くには家臣たち――豊作、庄吉、おとよ。そして弟子の光継が控え、巻紙と器を整えていた。
次郎は上座に座し、息を整えた。
やがて、廊下から足音が近づき、弥八が現れ静かに告げた。
「お澄様が、到着されました」
しばらくして、お澄がさやたちに付き添われて広間に入ってくる。
衣は浅葱の絹、髪はさやが整えたまま。
お澄は何も語らず、さやの案内により、次郎の隣に静かに座した。
弥八が巻紙を差し出す。
「婚儀は略式により起請文は任意ですが、殿のご意志にて」
次郎は筆を取る。
巻紙一枚に、名と日付だけを記す。
(……これで俺とお澄様は夫婦になるんだ…)
弥八が盃を盆に載せ、静かに差し出した。
次郎が盃を手に取り、弥八が銚子を傾け、酒が静かに注がれた。
次郎は盃を受け、口をつける。
そして、その盃をお澄に差し出した。
お澄は盃を受け取ると静かに口をつける。
誰も声を出さない。
弥八が盆を下げ、巻紙を整えた。
父親が末席から進み出て、次郎の傍に歩み寄る。
そして小声で言った。
「……よくやったな。でかした」
次郎は一瞬眉を寄せたが。静かに頷き、お澄の方を見た。
それが、壬生家の祝言の終わりだった。
父は末席へ戻り、母は何も言わずに次郎と目が合うと、にこやかに頷いた。
おとよが静かに次郎に歩み寄る。
「次郎様……お部屋の方、整えてございます」
次郎は一言だけ『うん』と頷いた。
(……ヤバい緊張してきた)
お澄はさやに付き添われて立ち上がる
。次郎も立ち上がり部屋へと歩み出した。
三人が広間を後にするのを、
誰も声を出さず、静かに見送った。
次郎の寝室には灯りがひとつだけ置かれていた。
香は焚かれておらず、空気は静かに沈んでいる。
さやが衣の端を整え、お澄に小声で告げた。
「……では、これにて失礼いたします」
お澄は頷き、さやが襖を静かに閉める。
次郎は布団の上に座り、何も言わずにお澄を見ていた。
(やっぱり可愛いな、俺の嫁さん)
お澄は座したまま、視線を上げない。
「お澄。まずは少し話しをしよう……」
次郎は一歩だけ進み、膝をついた。
それが、初夜の始まりだった。
ーーー
ーー
ー
※※※※
※お澄視点
朝の光が障子に落ちていた。
部屋の灯りはすでに消され、香も焚かれていない。
お澄は衣の端を整え、静かに身を起こした。
横では次郎が布団に身を沈め、静かな寝息を立てていた。
表情は穏やかで、時折口元がわずかに緩んでいる。
(わたし…次郎と夫婦になったのね)
お澄は布団を離れ、衣の端を整える。
襖に手を添えて、音を立てぬように開けた。
廊下の向こうにさやが控えていた。
「おはようございます。……お支度、奥の離れで整えましょうか」
お澄は頷き、衣の端を整える。
まつが先に立ち、廊下を抜けて奥向きの離れへと向かう。
奥向きの離れは、お澄にあてがわれた部屋だ。
さやが障子を開けると、真新しい畳の匂いが静かに立ち上がった。
香は焚かれておらず、空気は沈んでいる。
さやが櫛を取り、髪を整え始めた。
指先は丁寧で、空気は穏やかだった。
一拍置いて、さやが笑みを浮かべながら聞いた。
「……昨夜は、いかがでしたか?」
お澄は目を伏せ、少しだけ笑った。
「とても幸せだったわよ」
さやは櫛を止めず、朗らかな声で言う。
「それは、顔を見れば分かります。あちらの方も、よくされましたか?」
お澄は恥ずかしそうに視線を伏せた。
「……さや、そんなこと聞くものじゃないわ」
お澄の頬がわずかに染まっているのを見て、さやは笑みを浮かべた。
『はい、お澄様』とだけ応え、髪を結い続ける。
さやの笑みは消えず、髪を撫でる手は、どこか嬉しげだった。