55 じゃがいもの天ぷら、ふたたび
1541年6月中旬。楠予屋敷。
楠予屋敷の畑には、朝の光が差し込んでいた。
男爵芋の葉は広がり、風に揺れて、土の匂いが空気に溶けている。
じゃがいもは――収穫の時を迎えていた。
畝の間には、鍬の跡が残り、露が乾きかけていた。
次郎は袖をまくり、腰を落とす。
その隣で、お琴がしゃがみ込み、両手で土を掘り始めていた。
「とれたよ、次郎ちゃん! ほら、こんなに!」
小さな手の中には、土をまとった芋が三つ。
お琴はそれを胸元に抱えて、笑った。
「いっぱいあるよ! 土の中、ぜんぶ芋だよ!」
お琴は畝の間を駆け回り、
芋を見つけるたびに声を上げて、ぴょんぴょんと跳ねていた。
次郎は鍬を軽く振って、隣の畝を崩す。
土が割れ、芋が顔を出す。
「……いい出来だ。雨の加減や日照具合がちょうどよかったんだな」
お澄は隣で、静かに土を掘っていた。
指先で土を払うようにして、一つの芋を持ち上げる。
「……これが、肉じゃがになるんですね」
次郎が顔を上げると、お澄は芋から目線を移し、静かに微笑んだ。
「去年、皆で食べた、肉じゃがと揚げたお芋、美味しかったですね」
「はい。あの時は、お澄様に元気になっていただきたくて……お澄様のことを想い、真心を込めて作りました」
「次郎……ありがとう」
お澄は少しだけ間を置いて、声を落とす。
「そろそろ、“お澄様”ではなく、“お澄”と呼んでください。……二人の時は、そうして欲しいのです…」
お澄は視線を落とし、芋を掘る。
その頬には、わずかな熱が滲んでいた。
次郎は、お澄の横顔を見て頷く。
「うん……。お澄……」
言い終えた瞬間、次郎も芋に目線を変えた、耳がかすかに赤くなる。
お澄は、何も言わずに微笑み、芋を掘った。
お琴が笑いながら、近づいて来る。
「いっぱい取れたよ! おいもさんいっぱいだよ!」
畝の間には、掘り出された芋が並び始めていた。
庄吉が籠を運び、おとよが土を払って並べていく。
お琴が、畝の端に座り込んで、並んだ芋を見る。
「ねえ、次郎ちゃん。これ、何個くらいあるかな?」
次郎は畑を見渡し、指を折って数え始める。
「楠予屋敷には、二百個植えたから……多分、三千個くらいかな」
「さんぜん……!」
お琴は目を丸くして、芋の山を見返した。
お澄も驚いていた。
「あの時のお芋がそんなに……」
次郎は芋を一つ手に取り、土を払った。
「あっ……忘れてた。ジャガイモって日持ちしないんだった。
収穫の時期をずらさないといけなかったんだ」
「そうなのですか?」
「はい。二週間もすれば芽が出ます。だから植え付けに使う芋は、土間の隅や蔵の奥に籠を置いて、藁で包んで……静かに眠らせておくんです」
次郎は気を取り直して言った。
「まあ今回は食用は諦めて、種芋に多く回したと思いましょう。
収穫は屋敷の外の農家でも始まっています。あと一年もすれば、村人の口にも入るようになります」
お澄は、芋を見つめたまま微笑み、少しだけ頷いた。
その頷きは、自分たちだけでなく、民を幸せにする事への静かな肯定だった。
※※※
楠予屋敷の奥書院。
次郎は籠を一つ抱え、正重の前に膝をついた。
「御屋形様。春に植えた芋の収穫が、ひと段落いたしました」
正重は筆を置き、顔を上げる。
「そうか。数は、どれほどか」
次郎は籠の蓋を外し、芋を見せる。
「三百個の種芋を切り分け、約九百の種芋を植えました。恐らく屋敷の外の収穫を合わせれば、一万五千個ほどの芋が取れるでしょう」
正重は目を細め、芋を一つ手に取った。
「……一万五千。増え方が尋常ではないのは知ってはいたが、もうそんなに取れるようになったか」
「はい。これで御屋形様や一族の方は、好きなだけジャガイモが食べれます。ですが保存性がないので、収穫してから2週間以内に食べなくてはなりません。次回からは収穫時期がずれるように植え付け、食べられる期間を長くするつもりです」
正重は芋を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「そうか…これからはあのジャガイモの天ぷらを好きなだけ食べられるのだな。……そうだ次郎、今から天ぷらを作れるか?」
「えっ! 今からですか?」
次郎は一瞬言葉に詰まり、正重の顔を見た。
「そうじゃ、あの味を思い出したら無性に食べたくなった。ちょうど昼時じゃ。家族の分も頼む」
「はい……承知しました。すぐに支度いたします」
正重は頷き、筆を置いた。
「芋は、揚げた方が香りが立つ。あれは良かった……」
________
次郎は籠を抱え、書院を下がった。
調理場に行くと、ウメたちが昼の御膳の準備に取り掛かっていた。
雑仕女の一人が次郎に気づき注意する。
「あんた誰だい、ここは男の来る所じゃないよ。何か用事で来たのかい?」
トヨが雑仕女に言う。
「何遊んでんだい、このいそがしい……って、え? 次郎様……!?」
『次郎様』という声を聞いた瞬間、台所頭のウメが奥から姿を現した。
焼き魚の香りまとったまま、慌ただしく次郎の前に歩み寄り、腰を落として頭を下げる。
「次郎様! まあまあまあ……こんなところに、どうしてまた。本日はどのような御用件でしょうか、なんなりとおっしゃって下さい!」
次郎は籠を少し持ち上げ、蓋を外した。
中には、朝掘りのジャガイモがぎっしりと詰まっている。
「昼膳に、天ぷらを一品。家族の分も揚げたいのです。……また、手を貸していただけますか」
ウメは目を見開き、すぐに頭を下げた。
「はい、もちろんでございます。次郎様の芋なら、油も喜びましょう」
奥からカネが顔を出す。
「天ぷらですかね。火床、すぐに起こしますね!」
雑仕女たちがざわめき、鍋の準備に取り掛かる。
ウメは布巾で手を拭きながら言った。
「芋は切り分けておきましょうか? 衣は前回と同じでよろしいですか?」
次郎は頷き、芋を一つ手に取った。
「ああ、よろしく頼むよ。昼膳に添える分だから、少し小ぶりに切ってくれ。
……あと、次からはウメたちが作れるように、揚げ方などを伝授するから、よく覚えておいてくれ」
ウメは一瞬目を見開き、すぐに深く頭を下げた。
「……はい。次郎様の技、必ず覚えます。台所頭の務めとして、恥じぬように!」
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半刻後。(1時間後)
広間には膳が並べられていた。
湯気の立つ味噌汁、炊きたての粟飯、そして中央には揚げたてのジャガイモの天ぷらが盛られている。
正重が膳が並び終えたのを見て言った。
「さて頂くとしよう」
千代が次郎に声を掛ける。
「まあ、良い香り。……次郎殿も、こちらへ」
「はい。昼膳、ご一緒させていただきます」
次郎は頭を下げ、広間の端の席についた。
すぐ隣には末席に座るお澄がいた。
お澄は膳の前に手を合わせ、そっと次郎の方を見た。
「……いただきます」
声は小さかったが、湯気の向こうに確かに届いた。
源太郎の長男、小聞丸が膳の向こうから顔を出す。
「次郎にい! これ、次郎にいが作ったの?」
「はい、私が作りました。そう言えば、小聞丸様は前回の饗応の席は、風邪で出席できなかったのでしたね。今回はいっぱい作りましたから、たくさん食べてくださいね」
小聞丸は膳の前の天ぷらを見つめた。
「これが叔父さんたちが美味かったって自慢してた、てんぷらってやつなんだ……」
次郎は笑いながら頷いた。
「揚げたてです。熱いから、気をつけてくださいね」
小聞丸は箸を握り、芋を一つ口に運んだ。
「……うまっ! 外はカリっとしてて中はホクホクだ! これ、すごいね!」
お琴は膳の前で箸を握りしめ、隣の小聞丸を見上げた。
「だから言ったでしょ? 前に食べたとき、すっごく美味しかったの!」
小聞丸は口をもぐもぐさせながら、少し悔しそうに笑った。
「……お琴はずるいな。こんな美味しいもの先に食べてたなんて」
「えへへ。あとね、お芋に添えられてるお塩をかけるとね、甘くて美味しくなるんだよ」
小聞丸はそっと塩を振り、芋を一つ口に運んで、しばらくもぐもぐと噛んだあと、目を見開いた。
「……ほんとだ。甘くなる! お琴、すごいな。よく知ってるね!」
お琴は得意げに頷いた。
「でしょ? 次郎ちゃんが教えてくれたの。お芋さんって、塩で甘くなるんだよって」
まつが笑いながら膳を整える。
「二人とも、食べながらしゃべるのは、はしたないですよ。……次郎殿、今日も見事ですね」
次郎は軽く頭を下げた。
「次回からはウメに頼めば作れるように指導しておきました。ご入用でしたら何時でもウメに申しつけください」
(もう俺に頼まないでね、特にそこの親分さん)
正重は満足げに、また一つ天ぷらを箸で取った。
「……揚げ加減が良い。油の香りも、芋の甘みも立っている」
源太郎は黙って膳を見つめていたが、箸を伸ばし、芋を一つ口に運んだ。
「……うむ。この味と食感はやはり実にいいですな、父上」
湯気はまだ膳の上に立ちのぼっていた。
芋の香ばしさが広間の隅々にまで広がり、誰もが箸を動かしながら、時折言葉を交わしつつ、楽し気にじゃがいもの味を語っていた。