54 軍制改革(赤備えの誕生)
1541年6月初旬。楠予屋敷。
※次郎視点
朝から空気が張り詰めていた。
庭の松が風に揺れる音さえ、どこか遠くに感じる。
次郎は、広間の横にある書院の縁側で深く息を吐いた。
庄吉が「皆様、揃われました」と告げると、次郎は静かに立ち上がった。
広間の障子は開け放たれており、畳の上には楠予家の一族と重臣たちが勢ぞろいしている。
中央には正重。
その隣に源太郎。
上席の方には玄馬、兵馬、友之丞、又衛兵。
その次に重臣――大保木佐介、吉田作兵衛、玉之江甚八と続いている。
家中の柱が、すべてここに揃っていた。
(……楠予家の評定。空気が、重い。なんせ俺がまた改革をやるって言ってしまったからな…)
正重は、静かに座を見渡した。
その目は、誰にも語らず、誰も逃さない。
源太郎は巻紙を手に、玄馬は筆を持ち、兵馬は腕を組んでいる。
友之丞は書記役として控え、又衛兵は口元を引き締めていた。
重臣たちは、各々の座に深く腰を下ろし、沈黙の中に思考を沈めている。
次郎は、広間の入口に姿を現すと、中央に進み出た。
その後ろに、庄吉が巻紙を携えて控えている。
「本日は、軍政改革の件につき、皆様にご報告とご相談をしたく、お呼びだてしました」
その声は、広間の隅々まで届いた。
誰も言葉を発さず、ただ次郎の言葉を待っていた。
次郎は巻紙を広げ、畳の上にそっと置いた。
「こちらが、楠予家が今後取り組むべき軍政改革の一覧です。御屋形様と源太郎様の承諾をすでに得ております。これを基本方針とし、皆様の状況と意見をすり合わせながら、実現を目指したく存じます」
広間の空気が、静かに動いた。
筆が走る音、紙の擦れる音、誰かの咳払い――すべてが、制度の整いへの道を告げていた。
正重は、巻紙を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「……皆、よく聞け。これは楠予の柱となる話だ。次郎、続けよ」
次郎は深く頭を下げた。
「では皆様、厚紙に書かれた、項目をご覧ください」
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楠予家・軍政改革方針(草案)
1.戦術思想の転換
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個人戦闘は控え、集団戦を重視する。
勝手な行動は、敵の首級を上げたとしても評価に値しない。
武勇は統制の中でこそ意味を持つ。
2. 兵種別編成の導入
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弓隊・槍隊・足軽隊・騎馬隊など、兵種ごとの訓練と編成を整える。
3. 軍役定書の制定
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家ごとに軍役を明文化し、兵種・人数・装備の基準を定める。
4. 小荷駄隊の整備
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補給・炊事・矢・道具運搬など、戦場支援部隊の設置。
5. 軍目付の設置
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戦場での家臣の行動を記録・監督する役職の導入。
6. 陣形訓練の導入
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鶴翼・魚鱗・鋒矢などの陣形を実地訓練し、戦術理解を深める。
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次郎は広間を見渡した。
「ご覧頂いたものが、現時点での草案です。皆様のご意見を賜りながら、楠予家の軍政を、より強く、より整ったものへと進めて参りたく存じます」
吉田作兵衛が、眉をひそめて巻紙を覗き込む。
「……個人戦闘は控え、集団戦を重視する。勝手な行動は、敵の首級を上げたとしても評価に値しない」
「……第一項は、変わっておるな?」
広間に、一拍の沈黙が落ちた。
玉之江甚八が、低く呟いた。
「首を上げて評価されぬとは……それでは武士の道が立たぬのでは?」
大保木佐介が、筆を置いて言った。
「戦場での武勇を否定するとは、いささか乱暴だと思う」
兵馬が腕を組み、静かに言った。
「敵の首を上げてこそ、命を懸ける意味がある。……それを否定するのか?」
広間にざわめきと、声が飛び交った。
「これでは誰も前に出ぬぞ」
「首級の価値を下げてどうする」
「誉れを捨てる気か」
「武士の誇りはどうなる」
誰の言葉か分からぬほど、空気が揺れていた。
玄馬が目を細め、巻紙の端を押さえた。
「だが、勝手な突撃で陣形が崩れれば、全体が危うくなる。……統制こそが勝利を呼ぶ」
友之丞が筆を走らせながら言う。
「軍目付を置く以上、個人の武勇よりも、全体の整いが重んじられるべきです」
二人の言葉に追随する者が出る。
「それも一理ある」
「戦は一人ではできぬからな」
「まあ首より、勝ちが欲しいのは事実だ」
又衛兵が肩を揺らして笑った。
「まあまあ、皆の言い分は分かる。だが義弟、これは“首を上げるな”という話ではないのだろう? 義弟がそのような事を言う筈がないからな」
次郎は一歩前に出て、広間を見渡した。
声は静かだったが、空気に深く沈んだ。
「はい。武勇を否定するものではありません。ですが――戦は、全員でやるものです。
かの武神・関羽ですら、わずかな兵に囲まれ、捕らわれました。いくら強くとも、同時に百人は相手にできません」
次郎は一呼吸置いて言う。
「武勇は、統制の中でこそ意味を持ちます。勝手な突撃は、誉れではなく、崩れの始まりなのです」
友之丞が、静かに微笑みながら言った。
「……命を守るための整え。私は、次郎殿の言葉に賛成です」
又衛兵が肩を揺らして笑った。
「だがそれだと、俺の武勇が宝の持ち腐れになる。武勇自慢の兵からも不満が出るだろう」
次郎はしばし考える。
「では、特別に従来通りの武功で評価する、武勇自慢の者だけがなれる、精鋭部隊を作っては如何でしょうか?
赤鬼のように強い部隊。赤の鎧で揃えた赤備えの部隊です。これなら楠予家の強力な武器にもなり得ます」
又衛兵が眉を上げる。
「赤備え? ……それは、なかなか洒落ておるな」
兵馬が腕を組み直す。
「精鋭部隊か。……武勇を誇る者には、誉れとなる居場所になるな」
玄馬が目を細める。
「だが、赤備えは目立つ。敵の標的にもなりやすいぞ」
友之丞が筆を走らせながら言う。
「いやいや、精鋭部隊を見て誰が喜ぶんですか兄上。皆見ただけで腰を抜かして逃げ出しますよ」
正重は巻紙を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「よい。赤備えの部隊、次郎に任せる。……武勇も、整えの中でこそ光る」
(ちょっと待て! 俺は井伊直政じゃないから、二度と先頭は切らないぞ! お澄様とお琴ちゃんのためにも、まだ死ぬ訳にはいかないんだ!)
次郎は慌てて手を上げた。
「御屋形様お待ちください。赤備え隊の大将は、兵馬様、又衛兵様、大保木殿、玉之江殿の四人の中から選ぶべきです」
広間に、わずかな笑いが広がった。
又衛兵が肩を揺らして言う。
「次郎よ、赤備えの大将を俺に任せる気か? ……それは、誉れだな」
兵馬が腕を組み直す。
「ふむ。赤の鎧か。……目立つな。だが、悪くない」
玉之江甚八が、静かに頷いた。
「赤備えは、戦場の芯となる。光栄だが、わしはもう年だ、辞退しよう」
大保木佐介が筆を置いた。
「わたしも、楠予家に仕えて2年にも満たぬ身ですので、精鋭部隊を率いるには荷が勝ち過ぎる。辞退させて頂こう」
広間の空気が、静かに揺れた。
玉之江と大保木の辞退に、兵馬が目を伏せ、又衛兵が眉を上げた。
「ふむ……ならば、俺と兵馬の兄上の二人で赤備えを預かるというのはどうだ?」
兵馬が腕を組み直す。
「二人でか。……悪くない。弟が前を切り、俺が後ろを締める」
玄馬が目を細める。
「赤備えが二人の手に渡るなら、統制は保たれる。……だが、命を預ける者が百を超えれば、指揮は一つでなければならぬ」
友之丞が筆を止め、静かに言った。
「ならば、試練を設けてはどうでしょう。赤備えの大将を、楠予家の武勇と統率で選ぶのです」
正重は巻紙を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「よい。赤備えの大将、試練で決せよ。……次郎、場を整えよ」
「え? い、いえ、お待ちください!」
(何でもかんでも俺に振るなよ!)
次郎は面倒な試練を止める言い訳を考える。負けた方に恨まれるのも嫌だった。
「……武勇自慢の中には騎馬がうまい者もいれば、槍や剣などの陸上戦に強い者がいるでしょう。そこで……騎馬専用の赤備えを又衛兵様、陸上専用の赤備えを兵馬様が担当されてはいかがでしょうか?」
広間の空気が、再び揺れた。
兵馬が目を伏せ、静かに言った。
「……騎馬と足軽を分けるか。確かに、戦場での動きはまるで違う」
又衛兵が肩を揺らして笑う。
「騎馬専用の赤備えか。……それは、いいな。俺の馬も喜ぶだろう」
玄馬が巻紙を指で押さえながら言う。
「分化すれば、指揮も明確になる。……統制の乱れも防げる」
正重は、巻紙を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「よい。赤備えは二隊とせよ。騎馬隊は又衛兵、陸上部隊は兵馬に預ける。……次郎、編成を整えよ」
次郎は深く頭を下げた。
(またかよ!)
「承知いたしました。……楠予の赤、必ず整えてみせます」
(これは弥八に任せよう。あいつはオールマイティな奴だからな、困った時の弥八だ)
広間の空気が、静かに沈んだ。
戦国に名を轟かす楠予の赤備えが、二つの流れとなって芽吹き始めていた。
それは、武勇と制度が交差する、楠予家の新たな芯となる。
次郎はため息をつく。
(はあ、これでやっと第一項が終わった。まだまだ終わりそうにないな……)
楠予家の軍制改革は、一歩ずつ、確かに進む。
それは、絶対的な権力と、家中の空気を掌握する楠予家だからこそ成し得る荒業だった。
――改革には、血が流れやすい。
だが楠予家は、誰の命も奪うことなく、制度を改めてゆく。
静かに、確かに、空気を変えていく。
戦の整えも、町の整えも、家の空気も、数年前とは格段に違う。
未だ領土の規模は小さい。
だが、その内実は、規模に見合わぬほどの強さを静かに孕み始めていた。