51 ご両親へのご挨拶
1541年5月初旬・楠予家屋敷
※次郎視点
月明かりが、楠予家屋敷の通路を照らしていた。
次郎は、家臣の弥八の後ろを、お澄とともに歩いていた。
次郎はお澄を側室にする許可を得るため、正重と千代、源太郎とまつの四人との面談を弥八に取り付けさせた。
「面談の場を設けていただきました。御屋形様ご夫妻と源太郎様ご夫妻が揃われるとのことです」と、昼過ぎに報告を受けた時、次郎は弥八に深く頭を下げた。
「弥八、改めて礼を言うぞ」
「いえ。殿のお役に立つのが、私の喜びですから」
次郎は、隣を歩くお澄に目を向けた。
お澄は、袖を握りしめたまま、静かに歩いていた。
その横顔には、決意と不安が滲んでいた。
「……大丈夫ですか」
次郎が声をかけると、お澄は少しだけ頷いた。
「……大丈夫です。次郎が、隣にいてくれるから」
その言葉に、次郎はわずかに息を呑んだ。
(……俺が、守る。今度こそずっとだ)
書院を抜け、広間へと続く通路に差し掛かる。
障子はすでに開け放たれており、通路の先から広間の様子が見えた。
次郎は、思わず足を止めた。
広間には、楠予家の一族が全員揃っていた。
正重と千代。
源太郎とまつ。
玄馬、兵馬、友之丞、又衛兵。
さらに、重臣の大保木佐介、吉田作兵衛、玉之江甚八までが、座に着いていた。
次郎は、目を見開いた。
(……え? 全員なんで……?)
お澄も、隣で目を丸くしていた。
袖を握る手が、わずかに震えた。
弥八は、何事もないように振り返る。
「どうぞ。皆様、お待ちです」
次郎は、弥八の顔を見た。
「……弥八。これは……」
弥八はにこやかな笑顔で応えた。
「千代様のご意向です。『どうせ皆に話すなら、一度に済ませましょう』と」
(ちょっと待て! お前さっき俺の為に働くのが喜びだとか、何とか言ってなかったか!!)
次郎は、弥八の裏切りに思いっきり動揺した。
その時、お澄が次郎の袖をそっと掴んだ。
その手は柔らかく、しかし逃げようとはしていなかった。
(しまった、俺が緊張してどうする。男らしく、ちゃんと導かないと)
次郎は、我に帰ると、深く息を吸い込んだ。
そして、歩き出す。
広間の畳に足を踏み入れると、空気が変わった。
誰も声を発さず、ただ視線だけが次郎とお澄に向けられていた。
正重は、座の中央に静かに腰を下ろしていた。
千代は、その隣で穏やかな表情を浮かべていた。
「よく来て下さいました。お澄も、次郎殿も。今日は、皆でお話を聞こうと思っております」
千代の声は、柔らかかった。
だが、その言葉の裏には、すでにすべてを見通しているような気配があった。
次郎は、深く頭を下げた。
「……本日は、お時間を頂き、誠にありがとうございます」
お澄も、次郎の隣で静かに頭を下げた。
その袖の奥で、指がわずかに震えていた。
広間の空気は、静かに満ちていた。
誰も言葉を継がず、ただ、次郎の口から語られる言葉を待っていた。
(……ここでちゃんとしなくちゃ、お澄様に嫌われてしまう!)
次郎は、膝をつき、正重の方へと顔を向けた。
その目は、揺れていたが、逃げる気はなかった。
「お、御屋形様。源太郎様。千代様、そしてまつ様…。
本日は…、お澄様の件で…、お話がございます」
その声は、時折途切れがちになりながらも、広間の隅々まで届いた。
次郎は喉の乾きを感じていた。唇が少しだけ震える。
広間の空気が、次郎の背に重くのしかかった。
誰も言葉を発さない。だが、誰もが聞いている。
(……言うんだ。例え殺されても。お澄様と俺のために!)
次郎は、袖の内側で拳を握った。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……私は、お琴様との婚約を破棄するつもりはありません。正室はお琴様だけです。
そのうえで、申し上げます。もしお許しいただけるなら……お澄様も、ぜひ私の側室として頂きたく、お願い申し上げます」
正重は、眉を顰めた。
「……そなたは、わしの娘が、源太郎の娘に劣ると申すか」
次郎は、思わず言葉を詰まらせた。
「い、いえ……そのようなつもりは、決して……」
正重は、わずかに口元を緩めた。
「冗談だ。お琴も、お澄も、わしの大事な家族だ。
そなたが両方を大切にするというなら、それでよい」
千代が、静かに笑みを浮かべた。
「……よかったですね、お澄」
お澄は、袖を握ったまま、そっと頷いた。
しかし源太郎が、静かに手を挙げた。
「父上お待ちください。次郎、この話、私は承服しかねるぞ」
次郎は、思わず顔を上げた。
源太郎も次郎の方に目をやった。その目には怒りが込められていた。
「お澄には、幸せになってもらいたい。それは兄としての願いだ。
だが……お琴というものがありながら、側室を迎えるというのは、心が許さん。お琴の父として――いっぱつ、いや気が済むまで殴らせろ」
次郎は、息を呑んだ。
(めっちゃ怒ってる!!)
兵馬が、眉を寄せた。
「源太郎兄上の言葉は、もっともだ。お琴様ほどの方がおられるのに、側室とは……」
玄馬も、静かに言葉を継いだ。
「次郎、それは酷い。お琴の心を、考えてみたのか?」
吉田作兵衛が、鼻を鳴らした。
「主家の娘を二人も抱えようとは、なかなかの度胸じゃ。源太郎様の怒りも、道理じゃわい」
次郎は、言葉を失った。
(ちょっと皆、ひどくないか! 仲良くやってたと思ってたのは俺だけかよ!)
「いえ、私はちゃんとお琴様の許可を頂き――」
その時、又衛兵が笑いながら声を上げた。
「仕方ないではないか。
次郎は、幼女も美女も好きな、好け者なのだからな!」
広間にどっと、笑いが広がった。
(おい、又衛兵お前もか!)
「義兄上、それはちょっと言い過ぎでは!?」
「わっはっは、いや、すまんすまん。冗談じゃ、皆の顔を見てみろ」
兵馬が、肩を揺らしながら笑った。
「兄上は殴る気など、はなからない。だが罠に嵌めたいと言われてな」
源太郎は、口元をわずかに緩めた。
「まあ、お琴の父としては、何かの罰を与えるべきだと思ってな。それで罠に嵌めたのだ」
次郎は、目を見開いた。
(だ、だまされた! この人、意外と演技できる人なんだ!)
まつが、源太郎の顔を見て、ふわりと笑った。
「側室を持つななど、私の前では言えませぬものね」
源太郎は、少しだけ咳払いをした。
「……それは、それだ。今は父としての話だ」
次郎は、広間の空気が少しだけ緩んだのを感じながら、静かに頭を下げた。 その隣で、お澄も深く礼をしていた。袖の震えは、もう止まっていた。
源太郎は、次郎の姿を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……次郎。お琴も、お澄も、頼むぞ。どちらも大切な家族だ」
次郎は、膝をついたまま、深く頭を下げた。
「はい。二人を幸せにできるよう、命の限り努力いたします」
正重は、静かに頷いた。
「次郎。そなたの言葉、しかと聞いたぞ」
千代も、穏やかな笑みを浮かべながら言葉を継いだ。
「お澄も、お琴も、幸せにしてくださいね。……次郎殿、あなたご自身もね」
その言葉に、お澄はそっと目を伏せ、次郎の袖を握った。
玉之江甚八が、低くうなずいた。
「……よき場であった。次郎殿、祝着に存ずる」
広間には、静かな余韻が漂っていた。
誰かが小さく咳払いをし、別の者が膝を整える。
座のあちこちで、短い祝いの言葉が次郎に掛けられる。
「よきことだ」「めでたい」「よく言った」――皆の温かい声が、次郎に届いた。
誰もが、場の心から祝福した。
祝いの言葉は、形式的なものではなく、温かい空気の中にあった。
笑みを浮かべる者もいれば、黙って頷くだけの者、肩を揺らして笑う者もいれば、目を伏せて静かに受け止める者もいた。
座の中央では、正重が静かに目を伏せていた。
その姿は、場を整える柱のようであり、誰もがその沈黙を尊んでいた。
隣に座る千代が、柔らかな笑みを浮かべながら、そっと視線を送る。
その眼差しには、すでにすべてを見通しているような穏やかさがあった。
障子の外では、風が草花を揺らしていた。
初夏の夜は、静かに、穏やかに、過ぎていった。
※本文中の「好け者」は造語的表記です。正しくは「好き者」ですが、語感の柔らかさを優先して使用しました。