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50 告白

1541年5月初旬・楠予家屋敷


お琴の許しを得て数時間後。

夕刻の風が、屋敷の通路を静かに撫でていた。

次郎は、楠予屋敷に入ると、内方うちかたの手前で立ち止まり、侍女が通りかかるのを待った。


通路の脇に立ち、誰かが来るのを期待したが、奥は静かで、人の気配はない。

次郎は已む無く、屋敷のこちら側で仕事をしている侍女に声をかけた。

「すみません。お澄様にお会いしたいのですが……お呼びいただけますか」


侍女は少し驚いたように振り返ると、すぐに頭を下げた。

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

次郎の顔を見て、楠予家の重臣であることに気づいた侍女は、足音を抑えながら急いで内方へと向かった。


しばらくして、お澄の侍女のさやの姿が見えた。

裾を押さえて、静かに歩いて来る。

次郎は、頭を下げた。

「……さや殿、お久しぶりです。お澄様に、お話があって来ました。お目通りをお願いします」


さやは、静かに目を伏せた。

「申し訳ありません。お澄様は……今日は、どなたにもお会いになりたくないと」


次郎は不安げに尋ねる。

「体調がお悪いのですか? 明日ならお会いできるでしょうか?」


さやは、申し訳なさそうな表情で言った。

「体調はお悪くはありません。ただ……お会いになりたくないと」

少しだけ言葉を継ぐ。

「今後についても……おそらく…」


次郎は短く息を呑んだ。

(まさか…避けられているのか!?)


「……そうですか。お手数をおかけしました」

さやは、静かに頭を下げて奥へと戻っていった。

次郎は通路の脇に立ったまま、打方の屋根の向こうを見つめていた。



※※

その日の夜。

次郎は又衛兵の屋敷に行き、事情を説明して、打方までの案内を頼んだ。

楠予屋敷の門をくぐると、又衛兵は何も言わず、屋敷の奥へとひたすら進んだ。次郎はその背を追いながら、足音を静かに揃えた。

 そして渡り廊下を渡り、打方に入る。角を曲がると、お澄の部屋が見えて来た。障子の前で又衛兵が立ち止まり、声をかける。


「お澄、居るか。俺だ、又衛兵だ。話がある」

すぐに、さやが部屋の障子を開けて顔を出した。

さやは次郎の姿を見て、小さく「あっ」と声を漏らした。

「さや? どうしたのですか?」

障子の向こうで、お澄が声をかける。

お澄には障子で、次郎が見えていなかった。


「お澄様、それが…」

「今日は義弟じろうを連れて来ている」

又衛兵が代わり応えた。


次郎が又衛兵の後ろから姿を現し、静かに頭を下げる。

「っ…次郎……」

次郎の顔を見た瞬間、お澄の手が、わずかに動いた。あの夜、次郎に伝えた言葉が脳裏を過ぎった。


「お澄。家族は、皆お前を気にかけている。心配してるんだ」

「次郎のことを想ってるのは、もう誰もが知ってる。隠す必要はない」

「兄上…でも………」

少し間を置いて、又衛兵が言葉を重ねる。

「……分かっている。次郎には、すでにお琴という婚約者がいる。御屋形様の孫で、お前の姪だ。破談にはできん」

又衛兵は、声を低くした。

「だから選べ。側室になるか、忘れるか――それ以外に道はない」


次郎は部屋の中へ足を踏み入れ、お澄の前まで歩み寄る。

そして袖を整え、声を絞るように言った。

「……お琴様に非はありません。だから捨てるつもりも無いです。正室はお琴様だけです…」

少しだけ息を整えて、言葉を継ぐ。

「でも……お澄様。あなたが俺を好きだと知った今、もう貴方あなたを忘れるなんて無理です」

「出会った当時、俺はまだ小者見習いで、お澄様とは身分の差がありすぎました。だから俺はお澄様への想いを心の中にしまっていました」


次郎は真剣な顔で、お澄の目を見つめる。

「今、本当の気持ちを伝えます。

俺は、出会った時からずっと――お澄様のことが、好きでした」

お澄は次郎の目を見つめ、何も言わずに袖を握りしめた。


目元には、静かに涙が滲んだ。

次郎は、一歩踏み出す。

「お澄様……どうか俺の側室になってください。ずっと俺の傍にいてください」


次郎は息を整えて、言葉を継ぐ。

「お琴様にも、話しました。お琴様はお澄ちゃんなら、いいよって許してくれました」

「……っ…」

お澄は、言葉に詰まったまま、目を伏せる。

(……次郎の言葉、嬉しい。でも……本当にいいの?)


その沈黙の中で、又衛兵が静かに言った。

「お前が断る理由は、もうない。家族も、お前の幸せを願っている」

「兄上…」


侍女のさやが、そっと一歩前に出る。

声は静かだったが、揺るぎなかった。

「……お澄様。お澄様の気持ちは、わたくしが誰よりも存じております。

それゆえ記憶を失ったふりにも、協力いたしました。

だから、言わせてください」

「どうか、ご自身の気持ちに正直におなりください。

ご家族は、ずっとお澄様を案じておられます。

これは、お澄様だけでなく、ご家族の幸せのためでもあります」


お澄は、袖を握ったまま、少しだけ顔を上げた。

目元には涙が残っていたが、声は静かだった。

「……さや。ありがとう。あなたが、そう言ってくれるなら……」

少しだけ間を置いて、次郎の方を向く。

「次郎。私を……側室にしてくれる?」


次郎は、何も言わずに一歩近づいた。

その目は、涙を浮かべたお澄を、まっすぐに捉えていた。


静かに腕を伸ばした次郎の手が、お澄の肩に触れた瞬間、彼女はわずかに身をすくめたが、逃げなかった。

次郎は、そっと抱き寄せた。

力ではなく、想いの重さで。

「……ありがとう。俺、絶対にお澄様を幸せにします」


お澄は、次郎の胸元に顔を寄せた。

次郎の背で、お澄の指がわずかに震えていた。

次郎は、何も言わずにその背を支えた。

腕の中の温もりが、過去の距離を静かに埋めていく。


障子の外では、風が通り過ぎていた。

さやは、静かに頭を下げ、部屋を下がる。

又衛兵は、何も言わずに目を伏せた。

打方の空気は静寂に包まれた。

ただ、二人の抱擁だけが、静かにそこにあった。

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