48 次郎の選択
1541年4月中旬
朝倉砦。※越智元頼視点
朝倉砦の奥間。
灯は一つ、薬湯の匂いが空気を重くしていた。
部屋の中央には越智元頼が、布団に横たわり、家臣たちが見守っている。
元頼は先の戦で、楠予軍が本陣に放った矢に当たり負傷していた。その後、矢傷が悪化して危篤状態に陥っていた。
元頼の息は浅く、顔は蒼白で、声は枯れていた。
「元清…は…おる……か?」
元頼は嫡男の元清を枕元に呼ぶ。
「はい、父上、元清はここにおります!」
元清は父の手を握り、膝をついて座した。
家臣たち――玉川監物、新谷内記、朝倉頼房、高橋弾正、三宅主膳――が重苦しい顔つきで、二人の会話を聞いていた。
元頼は、かすかに目を開けた。
「……元清…越智を……頼む……」
「…楠予を…討て……仇を……取れ……父の願いじゃ……」
元清は、深く頭を下げた。
「承知いたしました。父上の志、しかと受け継ぎます」
元頼は、わずかに笑みを浮かべた。
「……そなた…なら……出来……る……」
その言葉を最後に、元頼は息を引き取った。
元清は涙を流し、目を瞑る。
「父上、……元清は必ずやり遂げます」
灯が揺れ、空気が沈んだ。
暫く、父の死を悼んでいた元清が、静かに立ち上がる。
「皆に告ぐ。俺は今より、父上の遺言により家督を受け継ぐ」
「そして父上の遺命に従い、楠予を滅ぼすと、皆に誓おう。 そのためには――まずは越智家を、一つにしなければならない!」
家臣たちがざわめいた。
玉川監物、新谷内記、朝倉頼房、高橋弾正は互いに顔見合わす。
三宅主膳が一歩前に出た。
「それは輔頼との同盟を破棄し、直ちに輔頼を討つという事でしょうか?」
越智元清が応える。
「違う。輔頼様を討つのではない、輔頼様の家臣になるのだ!」
「よいか、このまま越智家が2つに分かれ争っていては、楠予を喜ばせるだけだ」
「ゆえに我らが臣下に戻り、輔頼様をお支えするのだ。さすれば楠予を討てる日が必ず来る!」
筆頭家老の三宅主膳が激高する。
「早まるな元清! 輔頼は先代当主の正若丸様を討った謀反人ぞ。逆賊に頭を下げるなど、あり得ぬ。わしは認めぬぞ!」
元清は、沈黙のまま刀の柄に手を添えた。
語らず、迷わず、ただ一閃。
ーー主膳の首を刎ねた。
灯が揺れ、主膳の頭が胴体から離れ、転げ落ちた。首から血が流れ、畳が滲む。
主膳に同調しようと、動こうとした者達は息を飲んだ。誰も声を出さないーー若き主君の凶行に頭が追い付かないのだ。
元清は太刀を収め、主膳の首に言い放った。
「そもそもこの戦国の世で、幼い正若丸を当主にしたのが間違いだと、なぜ分からん!」
次に元清は、たじろぐ玉川らの方に目を向ける。
「越智を守るために、越智を一つに戻す! 父の志は、楠予を討つこと。その願いは越智が一つに成らねば叶わぬ!」
元清は家臣たちに近づいた。
「輔頼様に忠義を誓えぬ者は、今ここで名乗り出ろ!」
玉川らは黙り、互いの顔を見合わせる。家臣たちが動けぬのを見て、元清は言葉を重ねた。
「誰もいないのだな。ではこれより我ら全員、輔頼様に忠誠を誓う旨の、起請文を書くとする、よいな!」
玉川監物が、深く頭を下げた。
「……御意。越智家を、再び一つに」
新谷内記、朝倉頼房、高橋弾正も続いた。
「起請文、承ります」
元清は灯の揺れを見つめていた。
彼は名門・越智家に生まれたことに誇りを持っていた。
ゆえに、先々代・越智頼辰の死後に起きた混乱を、深く嘆いていた。
越智家に、かつての栄光を取り戻す。
その瞳には、領土を奪い独立した楠予家への――
静かな復讐の炎が宿っていた。
※※※※
1541年5月初旬
※次郎の屋敷
夕刻の風が、障子を揺らした。
春の終わりの風はまだ冷たく、灯がわずかに揺れる頃。
又衛兵が酒を飲もうと、※瓶子を懐に忍ばせて、一人ふらりとやって来た。
次郎は又衛兵の来訪を喜び、部屋へ招き入れた。二人は縁側に座り、庭を見ながら酒を飲み始める。
又衛兵が、静かに瓶子を傾ける。
濁酒の白が流れ落ち、盃の底に沈んだ。
「念のため義弟が酒を飲んでいいか、医者に聞いておいた。飲み過ぎなければ大丈夫だと言っていたから二、三杯くらいなら心配ない」
「義兄上、お気遣い、ありがとうございます」
次郎は盃を手にした。
又衛兵が再び瓶子を傾け、酒を注ぐ。
次郎は盃を口に運び、少しだけ喉を鳴らした。
酒は冷えていたが、苦くはなかった。
又衛兵は、少し黙ってから、意を決したように言った。
「実は今、家族の意見が纏まらず、揉めている問題がある。次郎には言うなと言われているが、俺は義弟の意見を尊重したいと思う」
次郎は盃を置き、不安そうな顔をした。
「それは……何でしょうか?」
又衛兵は、瓶子を握ったまま、視線を落とした。
「実はな…。お澄のことだが……記憶を、失ってなかったのだ」
風が障子を鳴らした。
次郎の目が大きく開いた。
「えっ!! それはどういう事ですか!?」
又衛兵は、言葉を選ぶように続けた。
「越智に嫁ぐ前から、お前のことが好きだったらしい。……それで、他の男に嫁いだ事もあって、記憶喪失の振りをした様だ」
次郎の心に喜びが沸いた。
お澄が自分と同じ気持ちだったと知ったのだ。
今すぐ、会いたかった。顔を見たかった。
だが、次の瞬間、お琴の姿が目に浮かんだ。
あの小さな手が、自分を死の淵から呼び戻した。あの声が、真心が命を繋いだ。
次郎は動けなかった。
ただ、胸の奥が軋んだ。
喜びと痛みが、同じ場所に触れた。
次郎は盃を手に取り、一気に飲み干した。 風が障子を鳴らし、灯が揺れる。
又衛兵が庭の方を見ながら、言う。
「お前が生死の境を彷徨ってる時、お澄は泣いておったぞ。……本当は、ずっと覚えてた、と言ってな」
次郎は盃を置いた。
胸の奥が、静かに軋んだ。
(……お澄様が……俺を……)
(……でも、俺にはもうお琴ちゃんがいる。あの子に救われたんだ)
又衛兵は、少し黙ってから切り出した。
「ここからが本題だ。……お前、お澄の事をどう思っている。俺には本当のことを話して欲しい」
次郎は胸が軋んだ。
少しの間、目を瞑り、言うべき言葉を探した。そして又衛兵に本当の事を話すと決めた。
「………俺は。お澄様の事が、ずっと好きでした」
又衛兵は目を瞑り、深く息を吐いた。
遠くでカラスが鳴いた。
夕暮れの空気に、重く、濁った声が落ちていく。
「分かった。ならば義弟、お前がお澄と、どうなりたいかを、選択しろ」
「一つ。お琴との婚約を破棄し、お澄を正室に迎える」
「二つ。お琴はそのまま正室、お澄は側室として迎える」
「三つ。お澄のことは忘れ、今のまま生きる」
次郎はすぐには返答できなかった。
盃に酒を注ぎ一気に飲み干した。
又衛兵は次郎を見つめたまま、微動だにしなかった。
その目は、次郎に決断を促していた。
「どれを選んでも、誰かが泣く。だが、お前が決めねばならん」
次郎は、もう一度酒を注いだ。
そして盃の酒を見ながら言った。
「……お琴様は、捨てられません」
又衛兵は目を細めた。
「ですが、お澄様の気持ちを知った今、お澄様を得られなければ俺は一生を後悔するでしょう。だからお澄様を側室にしたいです」
又衛兵は頷いた。
「分かった、俺はお前の考えを支持しよう」
「しかし義兄上、御屋形様の孫と結婚し、さらにお澄様を側室にするなんて事が可能なのでしょうか?」
次郎は又衛兵の顔を不安そうに見る。
又衛兵は、次郎の目を見たまま、しばらく黙っていた。
瓶子の口を拭い、膝の脇に置く。
「まあ普通は不可能だろうな。だがお前は普通ではない。楠予家の一族や重臣たちが、義弟の働きを認め、必要としているのだ」
「だから俺は可能だと思うぞ。義弟が、お琴とお澄の両方の承諾を得たなら、誰も反対はしない筈だ」
次郎は眉を寄せる。
「それ…難易度高くないですか?」
「…なんいど? なんだそれは、不可能と言う意味か?」
次郎は少しだけ笑った。
「……すみません。つまり、うまくいく可能性が低いってことです」
又衛兵は鼻を鳴らした。
「難易度とはそう言う意味か。……まあ、確かに簡単ではないな」
次郎は盃を手にした。
「正直、お琴様に話すのは……、怖いです」
又衛兵は瓶子を傾け、笑う。
「なんだもう尻に敷かれているのか」
「…だが、話さねばならん。お前が選んだ道だ、俺も全力で応援してやる」
次郎は、盃を口に運びながら、目を伏せた。
「……ありがとうございます」
酒は冷えていたが、喉を通る感触は、さっきより重かった。
又衛兵は、瓶子の口を拭いながら言った。
「お琴には、俺からも話してみよう。……お前の口だけでは、足りぬかも知れんしな」
次郎は顔を上げた。
「助かります。……でも、まずは俺の口から、ちゃんと伝えます」
又衛兵は頷いた。
「分かった。……お澄にも、話すのだろう?」
次郎は少しだけ間を置いた。
「はい。……お澄様にも、きちんと話します」
又衛兵は、庭の方を見た。
「ならば、動こう。家族の事は任せろ。二人の承諾さえ得られれば、俺がまとめてやる」
次郎は盃を伏せた。
「お願いします。明日、まずはお琴様から話してみます」
「でも多分……お琴様も、お澄様も、俺にがっかりするでしょうね」
「ですが、俺は必ず二人を幸せにしてみせます」
又衛兵は次郎の顔を見た。
その瞳には、決意が宿っていた。
(俺が選んだ以上、逃げない。二人には納得して貰う)
灯が揺れ、夜が静かに深まっていく。
盃の酒は、もう残っていなかった。
次郎は、静かに立ち上がった。
その背に、誰も見たことのない決意が宿っていた。
※瓶子は酒などを入れる、比較的小型の壺です。




