表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/101

46 次郎の朝

楠予屋敷の奥の一室。


お澄は次郎の枕元に座っていた。

次郎の手を握り、静かに目を伏せ、祈っていた。


障子が静かに開いた。


お澄が振り返ると、

お琴が、小袖を握りしめたまま、涙で濡れた顔で立っていた。


お琴は、何も言わずに部屋へ入って来た。

足音は小さく、だが迷いはなかった。

そして、お澄の隣にそっと座った。


袖が触れ合う距離だったが、二人は言葉を交わさなかった。

枕元まで歩み寄ると、次郎の顔を見つめた。


「次郎ちゃん……わたし、だいすきって言ってないの……」

「言いたかったのに……言えなかったの……」

「死んじゃったら、言えなくなるの……」


その声は震えていた。

だが、その言葉はお澄の心に深く突き刺さった。


お澄は、何も言わなかった。

ただ、次郎の手をそっと離し、袖を整えた。

そして、静かに立ち上がる。


お琴は、次郎の手を握った。

小さな手が、震えながらも、しっかりと握っていた。

「じろうちゃん、死なないで……」


お澄は、障子の前に立ち、振り返らずに廊下へと出ていく。

あかりが揺れ、薬湯の匂いが、再び空気を重くした。



※※

お澄視点


障子の向こうに灯が揺れていた。

お澄は廊下に立ったまま、目を閉じた。

心の奥に、言葉にした声が残っていた。


越智輔頼に嫁いだあの日、次郎の名を口にすることは許されなくなった。

記憶を失ったふりをした「一番の理由」は、忘れたかったからではない。

忘れられないことを、知られたくなかったからだ。


針を持つ手が震えた日も、

夜の膳で誰かが次郎の名を口にした瞬間も、

心は叫んでいた。


そして今日、言ってしまった。

次郎の手を握り、言葉にした。

「次郎を覚えている」

「ずっと好きだった」と。


けれど、お琴の心を知った瞬間、

その手を離すしかなかった。


今ここいるべきなのは、婚約者のお琴だ。

それが、正しい。


負けたのかもしれない。

でも、争う理由は残っていなかった。

次郎が目を覚ますなら――その手を握るのは、あの子でいい。

私は、もう言えたから。

それだけで、十分だった。


※※


楠予家・奥の間。朝。

※次郎視点


障子越しに、やわらかな光が差し込んでいた。

薬湯の匂いは薄れ、行灯あんどんも消えている。


次郎は、ゆっくりと目を開けた。

天井の木目がぼんやりと揺れていた。


胸に、かすかな重みを感じる。

目を下ろすと、お琴が眠っていた。

小袖を握りしめたまま、次郎のお腹の上に身を預けている。


次郎は、少しだけ微笑んだ。

「………そうか……俺は……助かったんだな……」

次郎の声はかすれていた。

お琴は目を覚まさない。

ただ、寝息が静かに上下していた。


次郎は、そっと小さな手に触れた。

その手は、夜の間ずっと、次郎の命を呼び続けていたのだ。

(お琴ちゃんに救われたな。悪夢の中で、ずっと誰かが頑張れって、言ってくれてる気がしてた。お琴ちゃんが俺をこっちに呼んでくれてたんだな)


ーー


廊下の先、部屋の前に座っていたお澄が、

障子越しに、次郎の声を聞き、涙ぐんだ。


やがて、お澄は静かに立ち上がった。

袖を整え、音を立てずに歩き出す。

足音は廊下に吸い込まれ、彼女に気づいた者は、誰もいなかった。

ただ、その横顔には、次郎の命が繋がったことへの、安堵あんどにじんでいた。


ーー


次郎の指が、小さな手を包んだまま、わずかに動いた。

その瞬間、お琴のまぶたがかすかにに震えた。


寝息が止まり、代わりに、浅い呼吸が胸を上下させていた。

次郎は、息をひとつ整え、そっと呼びかける。

「……お琴様……」

声は静かだったが、空気を震わせるには足りなかった。

返事はない。

次郎は、もう一度呼びかけた。

今度は、胸の奥から、わずかに力を込めて。

「お琴様…」

障子越しの光が、わずかに揺れた。

その揺れに呼応するように、お琴のまぶたが、かすかに震えた。


やがて、瞳がゆっくりと開いていく。

涙の跡が残るその目が、次郎を見つめる。

「……次郎ちゃん…?」

声は小さく、かすれていた。

でも、確かに届いた。


次郎は、微笑んだ。

「お琴様、ありがとう」


お琴は、次郎の顔を見つめたまま、言葉を探していた。

そして、ぽつりと漏らした。

「……死んじゃったら、言えなくなるの……。だから言うね。わたし…次郎ちゃんが好きなの」


次郎は、言葉を失った。


お琴の声は小さかったが、胸の奥に深く刺さった。

「好きなの」――その一言に込められた思いは、

命を繋いだ手の温もりよりも、ずっと熱く、ずっと重かった。


次郎は、そっと目を伏せた。

心の中で、何かが崩れ、溶けてゆく気がした。

「……お琴ちゃん」

お琴の瞳が、わずかに揺れた。


「……ありがとね」

次郎は、お琴の頭を撫でながらもう一度言った。


今度は、命を救われたことへの感謝ではなく、

想いを受け取った者としての、静かな答えだった。


お琴は、次郎の手を握り直した。

小さな手が、震えながらも、しっかりと握っていた。

「じゃあ……もう死なないでね」

「次郎ちゃんとね、ずっと一緒にいたいの。やりたいことも……いっぱいあるの」

次郎は、少しだけ笑った。

その笑みは、照れでも、冗談でもなかった。

「……うん。生きるよ。お琴ちゃんのためにも」


障子越しの光が、少しだけ強くなった。

新しい朝が、確かに始まっていた。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ