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45 楠予家の女たち

楠予家の屋敷 ※お澄視点


楠予家・奥の間。

障子を通して、昼の光が柔らかく差していた。

お澄は膝の上に布を広げ、針を動かし

、糸が布を通るたび、かすかな音が空気に溶ける。


次第に外が騒がしくなる。

馬のいななき、足音、叫び声。

出陣していた家族が戻ってきたのだろう。

だが、母からも、義姉からも「お出迎えする」との声はない。


不思議だった。

いつもなら、誰かが声をかける。

「お澄、皆が戻るわよ」と。


今日は、誰も何も言わない。

広間の方から、さらに騒がしい声が聞こえた。

怒鳴り声ではない。だが、沈黙でもない。


何かが起きている。

お澄は針を止め、顔を上げた。

侍女のさやが、静かに立ち上がった。

「様子を見てまいります」


そう言って、襖をそっと開け、音を立てずに出ていった。

お澄は再び針を持った。

だが、糸が指に絡み、うまく通らない。

何かが胸に引っかかっていた。

不安の理由は分からない。だが、確かにあった。


しばらくして、さやが戻ってきた。

襖を閉める音が、いつもより重く響いた。

「お澄さま……次郎様が、矢を受けて重症とのことです」

「御屋形様の命で、馬回りの方が先に次郎様を運んで、帰って来られたのだとか」

「何事もなければよいのですが……」


お澄は針を持ったまま、顔を伏せた。

「ええ、そうね」


静かにそう言った彼女の手は、わずかに震えていた。

糸が布を通る音が、止まった。

障子の向こうで、お琴の泣き声が聞こえて来た。

その声は、誰よりも早く、次郎の名を呼んでいた…。


※※


あれから三日が過ぎた。


楠予家の奥の間は、静かだった。

正重たち楠予軍は、越智軍を破り凱旋したが、家の空気は重い。


祝いの言葉が、誰の口からも出て来ない。

まるで禁句のように、誰も触れようとしなかった。

夜の膳も、勝者の席とは思えぬほど静まり返っていた。


お澄が部屋で、ロウソクの明かりを頼りに縫物の続きをしていると、侍女のさやが、ぽつりと漏らした。

「……まるでお通夜のようですね」


お澄の持つ針を動かす手が止まった。

しばらく沈黙が続いたあと、お澄は次郎に付いて訊ねた。


「次郎殿は……そんなに悪いのですか?」

お澄が次郎の様態を聞くのは、この三日間で初めての事だった。


さやは少し驚いたあと、

静かに「はい…」と応えた。


お澄の針を持つ手が、にわかに震えた。


その時――廊下の向こうから、泣き声が聞こえた。

小さく遠い声。

だが、確かにお琴のものだった。

「………じろ……ちゃん………じろーちゃん……」

声はだんだんと大きくなる。

足音が混じり、廊下を駆けてくる音が響いた。

泣きながら、何かを訴えるような声だった。


お澄の胸に、冷たいものが走った。

針を持つ手が、さらに震えた。

何かが崩れる音が、心の奥で鳴った気がした。


お澄は居ても立ってもいられず、立ち上がると、障子の前に歩み寄り、そっと手をかけた。

さやが後ろで動こうとしたが、お澄は振り返らなかった。


障子を開けると、ちょうどそこにお琴が現れた。

顔は涙で濡れ、袖を握りしめていた。

「お澄ちゃん……次郎ちゃん、こん夜がいちばんたいへんなんだって……」

「お医者さんが……かくごをしておいてくれって……」

「……死んじゃうかもって……言ってたの……わたし……」

琴の声は震え、小袖で涙をぬぐいながら、言葉を探していた。

その言葉は、誰も触れなかった場所に、真っ直ぐ届いていた。


お澄はさやに向かい「お琴ちゃんを頼みます」と告げると、

袖を整え、廊下へと歩き出した。

その歩みは次第に早くなっていく、その歩みにもう迷いはなかった。


ーー


屋敷の奥の一室。

障子は閉められ、あかりは※行灯あんどんひとつだけ。

薬湯の匂いが、空気を重くしていた。


部屋には医師のほかに、次郎の様態を聞いた楠予家の一門衆が数人、枕元に駆けつけていた。

次郎の意識はあの日から一度も戻らず、生死の境を彷徨い続けていたのだ。


何人かは、呟くように言葉をかける。

それが励ましなのか、別れの挨拶なのかは――判然としない。


その時、ふすまが静かに開いた。

お澄が立っていた。

茶色い袖を整え、足を揃えている。

その姿に、一人が気づいた。

「……お澄……」

その声に、部屋の空気が揺れた。


皆が、お澄のほうを見た。

誰もが、何かを言いかけて、何も言えなかった。

だがお澄は家族には目もくれず、袖を握りしめたまま、次郎の枕元へと歩み寄った。そして、次郎の手を握り。

「次郎……お願い目を覚まして。わたし……本当はちゃんと次郎の事、覚えてるから」


その言葉に、一門衆は驚いた。

誰もが息を呑み、目を見交わす。


又衛兵が、思わず声を漏らしかけた。

「お澄、お前……記憶が――」

その瞬間、正重が手を上げた。

声を出さず、首を振り、静かに制す。


そして、ゆっくりと皆の顔を見て、廊下の方へと首をやった。

誰も言葉を発さず、ひとり、またひとりと立ち上がる。


襖が静かに開き、やがて閉じられた。

部屋には、次郎とお澄の二人だけ。

薬湯の匂いが、再び空気を重くした。

行灯あんどんあかりが、次郎の顔を照らしつづけた。


ーー


廊下に出て、部屋から少し離れた所に、正重、千代、源太郎、まつ、友之丞、そして又衛兵が集まり、ひそひそと話しをしていた。

誰も声を荒げず、ただ、静かに言葉を交わしていた。


「……お澄、記憶を失ってなかったんだな」

友之丞がぽつりと漏らす。

「よほど……傷ついたのであろう」

又衛兵が答えるが、声は沈んでいた。


「だが、家族に嘘をつく必要があるのか」

友之丞が言った。語調は柔らかいが、疑問は鋭い。又衛兵がそれに応えた。

「家のために越智に嫁がせた、俺たちを恨んでいるのかもな」


「そうではない」

正重が首を振る。

「お澄は次郎を好いていたのだ」

父の正重の言葉に、母の千代が付け加える。

「お澄は次郎殿に心を寄せていました。輔頼殿に嫁いだ身で、次郎殿に会う事は、気が咎めたのでしょう」


又衛兵が驚く。

「お澄は、次郎が好きだったのか!? …だが次郎には、既にお琴が……」


まつが頷く。

「ええ、それもあるでしょう。次郎殿に会うことは……、お琴を裏切ることになる。会いたくても、会ってはいけない。だからお澄様は記憶を失ったフリをするしかーー『お待ちください!』」


その時ーー廊下の先からお琴が、侍女のさやの制止を振り切り、小袖を握り、泣きながら駆けて来た。

「待て、お琴!」

源太郎がお琴の前に立ち、お琴を受け止める。


「いや、放して……父様、お願い、次郎ちゃんのところに行かせて。まだ言ってないの、好きって言ってないの、死んじゃったら言えなくなるの……!」

源太郎は言葉に詰まった。


源太郎が初めて人を好きになったのは、十二歳の時だ。

だから、五歳の娘が「好き」と言い切ることが、信じられなかった。

いや、信じたくなかったのかもしれない。


千代が源太郎の肩に手を置いた。

「源太郎……放してあげなさい。お琴は、今しか言えないのよ」

「いや、しかし母上、中にはお澄が……」


その言葉に、千代が静かに言った。

「源太郎、これは――女の戦いよ」

源太郎は言葉を失った。

千代の声は、静かだったが、揺るぎがなかった。

妻のまつも、まっすぐ千代を見ていた。

誰も、口を挟まない。


千代は続けた。

「お澄も、お琴も、次郎殿を想っている。ならば、どちらが言えるか――それだけのことよ」

「なっ、…は、母上。…お琴はまだ五歳ですよ?」


源太郎は理解が追い付かなかった。

お琴はまだ五歳だ。

女の戦い?―意味が分からん、そう思った。


だが妻のまつは母に加勢した。

「あなた、ここは男が口を出す場ではないわ」


源太郎は、娘の顔を見た。

涙で濡れた瞳が、自分を見ていた。

その瞳に、迷いはなかった。


源太郎は、そっと腕をほどいた。

お琴は何も言わずに駆け出した。

小袖が揺れ、足音が廊下に響く、その背に声をかける者はいない。

ただ、想いだけが、誰よりも早く駆けていた。



※あとがき


本作について、これまで感想文の受付はしておりませんでした。

理由は単純で、メンタルが強くないからです。

「イチオシレビュー」は、良い評価を書いてくださるものだと思って公開していましたが、

とあるユーザーから非常に厳しい言葉を頂き、正直、精神的に参ってしまいました。


そのため、今後はイチオシレビューも停止いたします。

また、投稿ペースもしばらく落ちるかと思います。

楽しみにしてくださっていた方には、申し訳ありません。


今後は、自分のペースで、静かに書いていきます。

どうかご理解いただければ幸いです。



行灯あんどんは、油皿に灯芯を立て、紙張りの枠で炎を包む照明具。静かな部屋に、柔らかな光を落とします。


※初恋の年齢には男女差があるそうです。

最も多かった年齢(最頻値)は、女性が5歳、男性が12歳。

ちょっと驚きますが、そういうものらしいです(ホントかどうかは分かりませんが)。

ちなみに僕の記憶は四歳くらいからですが、既に好きな子がいましたけどね(笑)

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