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39 接待役

1540年12月下旬。


畑の土は、冬の冷気に締まり始めていた。

霜が降りる前に、最後の収穫を終えねばならない。

次郎は膝をつき、うねの端に手を添えた。


九月に切り分けた九十六個の芋――芽が出たのは半分。

さらに幾つかは腐り、不作に終わった。

残った三十三個が、静かに実をつけていた。

そのとき、足音が近づいた。

「いよいよ、収穫なんだね!」


お琴だった。

そでを揺らしながら駆け寄ってくる。

顔には収穫を、待ちわびた笑みが浮かんでいた。


「はい。お琴様が春に掘った芋の、子どもたちです」

次郎がそう言うと、お琴はしゃがみ込み、土に手を伸ばした。

指先が冷たい土を掘り、丸い芋に触れる。

「わあ……次郎ちゃん、見て! おっきいの!」

笑い声が畑に響く。


次郎は黙って頷き、隣の畝に手を伸ばした。

収穫は続いた。

取れた芋は計画の三分の一――三百九十七個だった。

数字だけ見れば、失敗に近い。

だが、お琴は両手に芋を抱え、満面の笑みを浮かべた。

「いっぱい取れたね! 次郎ちゃんと、わたしのお芋さん!」

次郎は少しだけ目を伏せた。

その言葉に、数字の意味が少しだけ変わった気がした。


(お琴ちゃんはいい子だし、可愛いよ…。でも、子供としてなんだよな)

(いずれはこの子を、女性として――愛してあげないといけないのか…)

次郎はお澄の事を思うと、戦国の無情さに打ちのめされ、複雑な気持ちになった。



冬の風が吹き、畝の上に落ち葉が一枚、静かに舞い降りた。



お琴は芋を抱えたまま、ふと顔を上げた。

風に揺れる梅の枝を見ながら、ぽつりと言った。

「ねえ、次郎ちゃん……お澄ちゃん、なんか元気ないの」


次郎は黙って耳を傾ける。

「だからね、このお芋さん、半分こしてもいい?

お澄ちゃんにあげたら、元気になるかもって思って」


次郎は少しだけ考えた。

そして、静かに問いかける。

「お澄様は、お琴様と会ってくださるのですか?」

お琴はぱっと顔を上げて、嬉しそうに頷いた。

「うん! 毎日お見舞いに行ってたらね、ちょっとずつお話してくれるようになったの。

昨日は、わたしの髪、かわいいって言ってくれたよ」


次郎は微笑み、芋を一つ手に取った。

「では、お琴様の芋を、お澄様に届けましょう。

きっと、あたたかい気持ちになります」

お琴は満面の笑みを浮かべた。

その笑顔は、冬の畑に小さな春を運んできたようだった。


ーーー


楠予屋敷・奥書院。


冬の陽が障子越しに差し込む中、次郎は膝をついて報告を始めた。

「御屋形様。芋の収穫、計画の三分の一に終わりました。

九十六個を植え、収穫は三百九十七個。芽が出ず、腐ったものもあり……ご期待に応えられず、心苦しい限りです」


正重は黙って聞いていた。

やがて、静かに口を開いた。

「構わぬ。十倍以上に増えておるのじゃ。成功ではないか」


次郎は頭を下げたまま、言葉を継いだ。

「御屋形様にお願いがございます。収穫した芋のうち、七十個ほどを使い、食事の席を設けたく存じます。

楠予家の皆様と重臣方、二十名ほどが食べられる量です」


正重の眉がわずかに動いた。

「食事の席……?」

次郎は一呼吸置いて、言葉を選んだ。

「お琴様が、お澄様の元気がないことを気にされております。

収穫した芋を食べていただければ、少しでも笑顔が戻るのではと。

これは、私の願いでもあります」

正重はしばし黙した。

障子の向こうで、風が庭の竹を揺らしている。


「……お澄のためか」

その声は、主君ではなく父のものだった。

「主君としては、認めてはならぬ事であろう。

だが――父として、頼む。

お澄の心の傷を、少しでも癒せるなら。芋を使っても構わぬ」


次郎は深く頭を下げた。

「必ず、美味いしい料理をご用意いたします」

正重は目を伏せ、静かに頷いた。

「頼んだぞ次郎…」


(お澄様に、日本人の家庭の味、肉ジャガと、俺の好物の輪切りにした、じゃがいもの天ぷらを食べて貰い、元気を出して頂こう)


※※

数日後。

楠予屋敷の調理場の空気は、いつもより張り詰めていた。

火床の熱が立ち上り、鉄鍋の湯気が天井に届く。


次郎は黙って芋を並べ、包丁を手に取った。

その背後で、三人の女たちが慌ただしく動いている。

ウメ、トヨ、カネ。

かつて次郎が炊事場の下働きだった頃、冷たい言葉を浴びせ、雑用を押し付けていた女たちだ。ウメたちが必死で働く様子を、新たに加わった下働きの、女たち5人が不思議そうに見ていた。


次郎は今や楠予家の重臣。今回の膳の責任者だ。

彼の指示で、楠予家の食事が整えられていく。

「次郎様、芋はこの大きさでよろしいでしょうか?」

ウメが、少し声を震わせながら尋ねる。

「小ぶりは二つに。中はそのまま。大ぶりは四つ割り。煮崩れを防ぐため、角を落とせ」

次郎の声は冷静だった。

感情はない。ただ、工程を伝えるだけ。


トヨは慌てて浅葱を刻み、カネは椎茸の出汁を確認している。

三人とも、次郎の顔色を伺いながら、手を止めることなく動いていた。


「肉は薄く。繊維を断つように。火床の熱は強すぎる。鍋をずらせ」

次郎が指示を出すたび、三人は「はい」「すぐに」と返す。

かつての横柄さは、どこにもなかった。

ウメは、芋を並べながらぽつりと呟いた。


「……昔は、次郎様がここで皮を剥いておられたのにねえ。私の目が節穴だったよ…」

次郎は何も言わなかった。

ただ、鍋の火加減を見て、黙って位置を調整した。


次郎にとって、過去は過去でしかない。ウメなど取るに足らぬ存在だった。今は、芋を煮る。膳を整える。お澄のために。


三人の女たちは、次郎の背中を見ながら、黙って手を動かし続けた。

その手つきは、かつての冷たさを忘れたように、丁寧だった。


ーー


楠予家屋敷の広間。

冬の陽が障子越しに差し込み、膳の湯気が静かに立ち上っていた。

一門衆とその家族ら16名が左右に並び、正重の前には重臣3人が座している。当主の正重とその妻、千代を入れて総勢21名。


空気は張り詰めていたが、どこか柔らかさもあった。

次郎は膳の端に進み出て、膝をついた。

衣の裾を整え、深く一礼する。

「本日の接待役を仰せつかりました、壬生次郎でございます。

本日は、収穫した芋を用いた天ぷらと、肉じゃがを薬膳として膳を整えました。

皆様のご健勝と、楠予家のご繁栄を願い、心を込めて調理いたしました」


(本当は椎茸の天ぷらも出したかったけど、椎茸は高級品だから全員分は揃えられなかったんだよな。

調べたら、椎茸の菌を植え付けるクヌギの木が楠予領にもあると分かった。

来年は椎茸を大量に育てて、食べるだけじゃなく、商売にも活かそう)


次郎は頭を下げたまま、膳の湯気を見つめていた。

正重は静かに頷き、箸を取った。


椀の蓋が一斉に開かれる。

牛肉と芋の煮物。浅葱と人参の天ぷら。

椎茸の出汁が膳全体に広がり、粟飯と干し柿の酢漬けが脇を固める。

広間に湯気が満ちる。


膳の香りが漂い始めた頃、兵馬が呟いた。

「……肉じゃが? 初めて見る料理だな」

隣の又衛兵が正重の許可なく、勝手に天ぷらを一口食べ、目を丸くする。

「美味い! 衣がついてる、こっちは天ぷらだったな? ……これも初めての味だ!」


次郎は膳の端で立ち上がり、静かに言葉を添えた。

「肉じゃがは、牛肉を薬用のために入れ、芋とともに※椎茸の出汁で煮込んだものです。

味付けには、酒と……少量の醤油を使っております。芋の甘みを引き出すため、火床の熱を弱めて煮込みました」


(醤油が貴重過ぎるんだよ、日本人なら醤油だろ、もっと作れよな!)


次郎は言葉を重ねる。

「次に天ぷらは、芋や、浅葱あさねぎに衣をつけ、油で揚げ、少量の塩をまぶしております。どうぞ、ご賞味ください」


(玉ねぎが欲しかったけど、残念ながら今の日本にはない。前世の子供時代は嫌いだったけど、今は肉じゃがの玉ねぎ、玉ねぎの天ぷら、どっちも美味いと思う。お金に余裕が出来たら買いたい)


正重は膳を見下ろし、静かに杯を持ち上げた。

「では皆の者――無礼講じゃ。

心ゆくまで、料理と酒を楽しんでくれ」

広間に緊張がほどけ、箸の音が響き始める。

吉田作兵衛は肉じゃがを口に運び、思わず笑った。

「……これは、うまい。芋が甘くて、肉の脂が染みておる。それに※粟飯あわめしによく合う」

その隣で、大保木佐介が天ぷらを見つめながら言った。

「天ぷらとは……油を使うのですか? それは豪儀な。

揚げ物など、祝い膳でも見たことがない」

次郎は一礼し、言葉を返す。

「油は、畑用の荏胡麻えごまから搾っております。

制度せいさんたいせいを整え、膳に使えるぐらいには、少量ずつですが供給が増えております。これも皆様方のご助力のお陰です」


次郎の言葉に、重臣たちはまるで自分の手柄だと分かったかのように、満足気に頷いた。

だが次郎は、重臣たちの頷きを見て、内心で計算を終えた。

(制度の理解が浅いな。でも、満足していれば次も動いて貰える)


(出来れば、菜種を増やして菜種油に変更したいからな。搾油量さくゆりょうも安定するし、火床との接続も楽になる)


兵馬は満足そうに咀嚼しながら、ジャガイモの天ぷらをもう一口食べる。

「……やはり、美味いな。芋と塩が絶妙にかみ合ってる」


その空気を割るように、大保木佐介が膳の端に身を乗り出した。

「御屋形様。芋を……我が所領でも育てたいと存じます」

吉田作兵衛が笑いながら続けた。

「それならわしも欲しい。ぜひ吉田村でも育てみたい」

玉之江甚八は膳を見つめたまま、静かに言った。

「御屋形様、それがしにも芋をくだされ」


正重は杯を止め、言葉に詰まった。

計画が狂う。そう思ったのか、次郎の方へ視線を向ける。


次郎は一礼し、言葉を整えた。

「御屋形様、よい折かと存じます。

いずれは池田の里のみならず、楠予家の領地全体に広める所存です。

まずは、お三方に芋を十個ずつお渡しし、育て方を伝授いたしましょう」


重臣たちは膳の前で頭を下げた。

「次郎殿、かたじけない」


その声に反応するように、兵馬が箸を止めて言った。

「ちょっと待て、次郎。わしの所領にも芋をくれ。兵糧にも使えそうじゃ」

玄馬が笑みを浮かべて言う。

「弟に先を越されたのは癪だが。わたしも欲しい」

友之丞は黙っていたが、膳の前で手を止めた。

「……なら私の家の畑にも、少し分けてくれ」


次郎が口を開く前に、正重が手を上げた。

「そなたらは一門衆じゃ。順を守れ。

一年……いや、半年待て。芋はすぐに増える。制度けいかくを乱すな」


広間に笑いが混じり、湯気が再び立ち上る。

膳の上には、芋の天ぷらと肉じゃが。

そして、次郎の制度たくらみが、静かに広がり始めていた。


ーー


(……次はデザートだ。火床の温度は保ってある。あれを出す)


次郎は膳の端で立ち上がり、調理場に下がる。

そこでは布で包んだ器たちが、冷えた黄金色の菓子が、静かに出番を待っていた。


次郎は侍女たちと共に器を運び、一つずつ膳に置いていく。

ぷるぷると揺れる、蜜色の冷菓――プリン。

兵馬が目を細め喜ぶ。

「……プリンだな。たまにウメに作ってもらっているが。次郎のは久しぶりだな」


一門衆とは違い、重臣三人は初めて見る菓子に興味津々だった。

吉田作兵衛が匙を取り、一口食べる。

「……これは、うまい。蜜の香りが広がる。冷たいのに、まろやかだ!」


大保木佐介が頷きながら言う。

「確かに美味い。しかし少ないのが残念でごさるな」

玉之江甚八は黙っていたが、器を手に取り、静かに食べた。

「……甘い。だが、芯がある。」

と厳つい顔を綻ばせて言う。


その時、お琴が膳の前で跳ねるように声を上げた。

「プリンだ! プリンだ! 次郎ちゃんのプリンだ!」

次郎は微笑みながら器を差し出す。


「どうぞ、お琴さま。冷えてて美味しいですよ」

お琴は一口食べて、目を輝かせた。

「……おいしい! これ、土の中で泣いてた芋みたいに、やさしい!」

次郎は意味が半分分からず、一瞬言葉に詰まり、笑みを浮かべ誤魔化した。


その隣で、お澄が器を見つめていた。

池田に帰ってから、プリンには一度も手を伸ばさなかった。


お琴がそっと差し出す。

「お澄ちゃんも、食べて。次郎ちゃんのプリンだよ!」

お澄は少し考え、静かに頷き、器を手に取る。

一口、すくって口に運ぶ。

「……」


蜜の香りが広がり、卵と牛乳のまろやかさが舌を包む。

その瞬間、目元に涙が浮かんだ。

「……おいしい」

誰も言葉を発さなかった。

ただ、お澄の涙が静かに頬を伝った。


お琴が心配する。

「お澄ちゃんどうしたの? 美味しくなかった?」

お澄は軽く首を振る。


兵馬が膳の端で呟いた。

「お澄……何か、思い出したのか?」

「いいえ、何も。でも……なぜか涙が止まらないのです」


正重は杯を傾け、黙って頷いた。

千代は膳を見つめたまま、静かに目を閉じた。

次郎は器を見つめながら、心の中で呟いた。

(記憶が戻らなくても、心は覚えているんだ。なら、希望はある)


玄馬が静かに言った。

「……制度も、技術も、感情も。全て、この膳に乗っておるな」

広間には、静かな希望が満ちていた。

※椎茸の出汁は、醤油が貴重なため、代用品として用いてます。


粟飯あわめしは、粟と米を混ぜて炊いたもの。

保存性に優れ、栄養も高く、戦国期の膳では日常の主食として用いられていた。



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