38 島吉利
1540年12月初旬。伊予国主、河野家
湯築城の広間に、重臣たちの足音が響いた。
戒能通森が一歩前に出ると、平岡房実がそれに続いた。
和田道奥は腕を組み、曽根高昌は沈黙のまま壁際に立っていた。
国主・河野通直は、文机の上に港の設計図を広げていた。
交易路、船着き場、板島水軍との連携――河野家の未来がそこに描かれていた。
「殿。ご進言がございます」
戒能通森の声は静かだったが、空気を切り裂いた。
「通春様を、家督にお据え頂きたく存じます」
通直は顔を上げた。
「通春は、能力が無く当主の器ではない。それにまだ若すぎる」
平岡房実が口を開いた。
「若さは、血筋を支える力にもなります。民は、河野の名を求めております」
和田道奥が一歩踏み出した。
「通春様は殿が思うよりも能力があります。河野家は血で継ぐもの。婿殿に家を渡すなど、道理が通りませぬ」
通直の視線が、通康に向けられた。
来島通康は黙していた。婿であり、海軍の要。だが、血筋ではない。
曽根高昌が口を開いた。
「交易の自由化は、通直様の構想で進めたい。だが、家督は通春様がふさわしい」
河野通直は、港の設計図を畳みながら言った。
「……通春は、まだ何も成しておらん。譲る訳にはいかん」
その言葉に、沈黙が落ちた。
湯築城の広間にいる、重臣たちの視線が交錯していた。
誰もが次の言葉を待っていた。
そして、平岡房実が一歩前に出た。
その顔には、これまで見せたことのない冷静な決意が宿っていた。
「――いえ、譲っていただきます」
通直が目を見開いた瞬間、広間の襖が激しく開いた。
甲冑を着た兵士たちが、無言でなだれ込んできた。
荏原の兵、岩伽羅の兵、曽根の兵――すべてが、平岡房実の一言に呼応していた。
戒能通森が咄嗟に太刀に手をかけたが、兵士たちはすでに通直と通康の退路を塞いでいた。
和田道奥が声を張った。
「河野家は、通春様に継いで頂く。若さは我らが支えればよい。
殿、来島殿――湯築城を、今すぐお立ち退き願いたい」
通直は、曽根高昌を見つめた。
「お前も、か」
高昌は目を伏せた。
「国を守るためには、まず血筋を守らねばなりません。……申し訳ありません」
来島通康は、静かに太刀を外した。
「板島の者には、知らせが届く。……海は、まだ我らを見捨ててはおりません」
通直は、設計図を懐に収めた。
「政は、紙の上だけではないか。だが、これで終わりではないぞ」
兵士たちは道を開けた。
河野通直と村上通康は、無言のまま広間を後にした。
その背に、誰も声をかけなかった。
家督争いは一先ず決着した。
だが、河野家の混乱はまだ始まったばかりだった。
※※※
能島・村上水軍の屋形
島吉利は、港からの報せを受けるや否や、迷いなく屋敷の外へと歩を進めた。
潮風に髪を揺らしながら、口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
その立ち姿には、能島衆としての誇りと、海を渡る者への敬意が滲んでいた。
やがて、次郎と又衛兵の姿が沖の道に見えると、吉利は一歩前に出て、胸を張り、声を張った。
その声は潮風を裂いて、はっきりと届いた。
「次郎殿に又衛兵殿――よくぞ海を越えてお越しくださった。
さあ、まずは屋敷で一献。海の話や最近の楠予家のご活躍、まずは膳を囲み、ゆるりと語らいましょうぞ!」
次郎は遠くから頭を下げ、又衛兵は笑みを浮かべた。
能島の空気が、迎える者と訪れる者の間に、静かに橋を架けていた。
ーーー
能島の屋敷には、潮の香りが微かに漂っていた。
島吉利が用意させた膳には、焼き干しの鯛、酢締めの鰆、海鼠の膾、そして能島の地酒が並んでいる。
主食には、粟と麦を半々に炊いた飯が添えられていた。
素朴ながら滋味深く、海の幸と酒の味を引き立てる。
能島衆のもてなしは、華美ではないが、誠意と実利に満ちていた。
島吉利は杯を傾けながら、次郎の前に置かれた三つの薬包に目を落とした。
包みの紙は丁寧に折られ、墨で「清風散」と記されている。
「これらの薬は清風散と言います。十五の薬草が用いられた物が貴人用で二千文、十二の薬草が裕福な者用で三百文、十の薬草が庶民用で六十文で売る予定です」
「――ふむ、随分と差があるな」
次郎は静かに頷いた。
「希少な薬材を用いた薬は当然高くなります。ですがその分、効果も高くなっております」
「貴人向けには希少薬材を使った十五種、商人など金持ち向けには希少薬材を減らした十二種、農民など庶民向けには手に入りやすい薬材十種が用いられております。池田では、この清風散を交易品の柱とするつもりです。
薬の効果は、重度の風邪・咳・寒気・頭痛・炎症・気管支症状の改善に優れており、これらの症状を和らげ、回復へと導く力を備えております」
その言葉を聞いた瞬間、吉利の表情が変わった。
「なにっ、その話は、真か!」
声が膳の上で跳ねた。
次郎は動じず、静かに包みを見つめている。
「信じられぬ。そのように多くの効果がある薬は、聞いた事がない。
それが本当なら、これは…万能薬と言っても過言ではない。…だが――」
吉利は次郎を見据え、口元に笑みを浮かべた。
「望遠鏡を作った次郎殿の申す事じゃ、信じよう」
そう言いながら、吉利は薬包に手を伸ばし、光に透かした。
包みの中で粉がさらさらと流れ、吉利の目が細くなる。
「面白い。これが村上水軍の力で、海を渡り日本各地に船で運ばれるようになれば……」
次郎は吉利の反応に満足げな表情を浮かた。
そして次の一手に移る。
次郎は懐から艶やかな黒塗りの※印籠を取り出した。
細筆で「紫柏膏」と記されたその容器は、三段重ねの薬入れだ。
(これも、この時代にはない革新的な薬だ。絶対に売れる)
「紫柏膏」
用途。 傷薬、クリーム状。
① 材料
・黄柏(乾燥した樹皮) ・紫根(粉末) ・当帰(刻み)
・桂皮(細片) ・蜂蜜(濾過済み) ・酒精(米焼酎など)
② 成分の抽出
・黄柏と当帰を酒精で煮出し、抗菌・血行促進成分を抽出
・紫根と桂皮は粉末にして混合
・蜂蜜を加えて全体を練り合わせる
③ 軟膏化
・煮詰めた抽出液に粉末を加え、弱火で練り上げる
・粘度が出たら火を止め、冷却しながら混ぜ続ける
④ 包装と保存
・布に包み、小箱に収める
・冷暗所で保存。使用時は指先で塗布し、布で覆う
次郎は「紫柏膏」の入った印籠を吉利に差し出した。
「こちらの薬も池田の里の、目玉商品になるでしょう」
吉利は杯を置き、印籠に手を伸ばして受け取る。
印籠の蓋をそっと開け、中を覗き込む。
桂皮と黄柏の香りが立ち上り、蜂蜜の甘さが後を引く。
「こちらは?」
次郎は膳の向こうで静かに答えた。
「傷薬です。切り傷、擦り傷、腫れ、膿み、火傷――すべてに効きます。
炎症を鎮め、血を巡らせ、傷の癒えを早めます」
印籠を見つめていた吉利の目が、その言葉で大きく見開いた。
「……そ、それは凄い。清風散が内なる薬なら、これは外の薬。これ2つで内と外の両方が賄える!」
その目は、ただ驚いていたのではない。すでに、使い道を探していた。
「傷薬と言えば、越前の朝倉家の生蘇散が有名だが、あれは家中の秘薬、市には出て来ぬ。こちらの品も欲しい! 港で扱えるように、数を揃えられるか?」
次郎は頷いた。
「吉利殿が池田の里で手に入らない、希少薬材を手に入れて下されれば、いくらでもご用意致できます」
吉利は印籠の蓋を開け、掌に乗せたまま、指先で軟膏をわずかにすくった。
粘り気のある紫色の膏が、指先に絡む。
「なるほど、我らは薬材を池田に届け、その帰りに池田の薬を、今張の港へ運ぶ。そこから日本各地に商人を通して売る。面白い」
吉利の脳裏に、今張の港に船が並ぶ光景が浮かぶ。
「これは間違いなく日本全土から、水軍によしみのある商人どもが押し掛けて来るぞ。わっはっは」
次郎の目つきがにわかに鋭くなる。
膳の向こうで静かに杯を置き、言葉を選ぶように口を開いた。
「その事ですが――今張の港から池田までは、越智家の領土を通らねばなりません。
関所で多くの金を、越智に奪われるは不本意にございます」
吉利は眉をひそめ、杯を傾けたまま黙って聞いている。
「それに、関所を封鎖されでもしたら、交易路が断たれてしまいます。
そこでお願いがございます。どうか吉利殿には、港を築く技術をお教え願いたく存じます。
ぜひ池田の里の北東に、楠予家の港を――」
吉利は杯を置き、膳の端に視線を落とした。
「なるほど、それはよい。関所に払う税が無くなれば、我らはもっと潤う。
だが池田の近くには港に適した地がない。大船が寄れず、小舟で荷を下ろす簡易な港になるだろうな」
次郎は一瞬黙した。
だがその沈黙は、思考の深みに沈んだだけだった。すぐに顔を上げ、言葉を継ぐ。
「それで結構です。まずは簡易港をつくります。
ですが、やがては商船から直接荷を降ろせるよう、喫水三尋(約5m)の深場まで――橋のように一直線に埋め立てを行います。
杭を打ち、石を積み、潮の流れを見て、港を延ばすのです」
吉利は杯を置き、膳の上の印籠に目を落とした。
「橋状の埋め立てか……出来ぬ事ではない。だが人足三百人でも、一年から二年はかかる、大仕事だ」
次郎は静かに頷いた。
「はい。それでも、やらねばなりません。池田の里が栄えれば、商人たちが何度も往復するようになります――」
言葉を切り、印籠に目を落とす。
「やがて、関所に税を払う事や、池田の近くに直接、船の荷の上げ下ろしができぬことに、不満を覚えるやも知れません。
船を寄せ、荷を降ろし、荷を積む――その一手間が、商人の忠誠を左右することもございます」
吉利は杯を傾けながら、次郎の言葉を噛みしめるように黙って聞いていた。
「買い手の使いやすさを考えてこそ、商売は続く。商売の制度を、使う者の動きに合わせて育てるのだな」
次郎は膳の端に手を添え、さらに言葉を継ぐ。
「もう一つ吉利殿にお願いがあります。人足は、交易で儲けた銭を使い、堺などの他国から集めようと思います。港工事に道路整備、治水の工事と、一度集めた人足の使い通は腐るほどあります。
その人足集めも、吉利殿にお願いしたいのです。もちろん銭は出します」
吉利は笑みを浮かべた。
「よい。人足も港も、薬も船も――制度は動き始めた。だが、それを支えるのは人の絆だ」
吉利は次郎たちの顔を真剣な表情で見る。
「又衛兵殿と次郎殿は既に義兄弟の契りを結んでいるとか。そこに、わしも加えて欲しい」
膳の向こうで、又衛兵が黙って頷いた。
次郎も膳の端に手を添え、吉利の目を見据える。
「ならば、ここで義兄弟の契りを結びましょう。
港を造り、薬を流し、交易を繋ぐ――その柱として、命を預け合う」
三人は膳の中央に手を重ねた。
その手の下には、紫柏膏の印籠が静かに置かれていた。
(義兄弟になるなら、教えて上げるべきだったかな? 人足にも家族がいるから、楠予領に住まわれば、国力の底上げにもなって二度美味しいって)
印籠とは、薬などを携帯できる小さな容器のことです。
時代劇『水戸黄門』でおなじみの、あの「この紋所が目に入らぬか!」の黒塗りのやつですね(笑)。




