表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/103

34 豊作(次郎の兄)

1540年 9月初旬


トントン、カンカン――

槌音つちおとが澄んだ朝の空気を叩いていた。


九月の風は、夏の熱を残しながらも、どこか静けさを帯びていた。

御屋形様の屋敷の北隣、まだ土の匂いが残る一角に、次郎と又衛兵ら、一門と重臣の屋敷が立ち始めていた。


稲の収穫を終え、田から解放された農民が銭で雇われ、資材の輸送を手伝っていた。

木材を担ぎ、縄を巻き、汗をぬぐいながら笑う者もいる。


「ただ働きじゃねえ、銭を頂けるんだ、今年の冬は楽ができるな」

誰かがそう呟き、周囲に小さな笑いが広がった。


その笑いは、槌音に混じって町の空気を少しだけ柔らかくした。

銭が落ちれば、物が動く。

物が動けば、人が集まる。

そして人が集まれば、町が育つ。


次郎はその様子を見ながら、心の奥でそう思った。


兵馬と又衛兵が作られていく建物を見学しながら、次郎に近づいて来た。

「ここが、武家町になるのか」

「はい、兵馬様。武家町は、兵と政のための空間にございます。新たに雇う常備兵たちもここに住まわせます。

 また商人町を、ここの外に設け、銭と物の流れを商人に担って貰います」


又衛兵は柱の一本に手を置き、笑った。

「義弟(次郎)が一門といえど、所領と俸禄を賜った以上、制度に従い、新たな家を作るべき――と、言った時は、驚いたぞ」


次郎は笑いながら応える。

「制度もそうですが、屋敷が少々手狭でしたからね。玄馬様にはお子様がいて、兵馬様のご結婚も決まっていますから」


又衛兵は頷きながら、骨組みだけの屋敷を見上げた。

「そうだな。それにしても自分の家を持つって、いいもんだな。

出来上がっていくのを、見るだけで嬉しくなる」


玄馬が通りかかり、次郎に声をかける。

「おかげで、わたしもここに大きな家を作れる。子供たちが喜ぶだろう。ただ、民に労働させる場合は銭を払わねばならぬ。と言う新しい制度のせいで懐は痛んだがな」

と笑いながら玄馬は言った。


源太郎は少し離れた場所で、屋敷の配置図と建物を見比べる。

「兄弟それぞれが、家を持ち、父上の家が、こうして広がっていくのだな…」

その顔には、嬉しさと、寂しさが混在していた。


トントン、カンカン――と槌音つちおとが絶え間なく続く。

やがて柱が立ち、梁が渡され、町が息をし始める。夏の光の中で、建物が次々と立ち上がっていった。



※※

 9月中旬

 楠予屋敷の畑


畑の土は、夏の熱を少しだけ残しながら、秋の風に冷まされていた。

切り分けられた男爵芋が、等間隔に並べられ、土の中に静かに埋められていく。


次郎はしゃがみ込み、最後の一つを手に取った。

「三十二個の芋を、九十六に分けて植えたけど。けっこう多かったな。……これで最後だ」


そのとき、背後から小さな足音が近づいた。

「いっぱい、お芋さん植えたんだね!」


振り返ると、お琴が袖を揺らしながら駆けてきた。

その後ろには、まつがゆっくりと歩いている。

「お琴様。お一人で……いえ、母上とご一緒でしたか」

「うん。お誕生日の前に、畑を見たいって言ったら、母上が連れてきてくれたの」


次郎は微笑み、芋を埋めたばかりのうねを指さした。

「この畑には、春にお琴様が収穫された芋が眠っています。来年の春には、また芽を出しますよ」

お琴はしゃがみ込み、土の上に手を置いた。

「じゃあ、わたしが植えたの? お芋さん、がんばってねって言ったら、芽が出る?」


次郎は一瞬戸惑った。収穫した記憶が、植えたという言葉にすり替わっている。だが、否定する気にはなれなかった。


「ええ。お琴様の言葉なら、きっと届きます」

まつがそっと微笑みながら言った。

「この子、もうすぐ五歳になるんですよ。芽のことを気にするようになったのは、春の畑を見たからでしょうね」


次郎は、ふと空を見上げた。

五歳――そうか、もうすぐ誕生日か。

そして、同時に胸の奥に別の名前が浮かんだ。

――お澄様。

彼女の誕生日ももうすぐだ。


お琴は立ち上がり、次郎の袖をそっと引いた。

「次郎ちゃん、わたしね、五歳になったらもっといっぱい植えるの。お芋さんも、お花も、いっぱい」

「ええ。お琴様が植えたものは、きっと全部、芽を出します」


秋の風が吹き、畝の上に落ち葉が一枚、静かに舞い降りた。

芽はまだ眠っている。

だが、誰かがそれを見守っている限り――春は、必ず来る。


9月下旬


槌音つちおとが止み、屋根の端に最後の縄が結ばれ。次郎の屋敷が、ついに完成した。


屋敷の中では、弥八が酒を注ぎ、庄吉とおとよが膳を並べる。

「これで、殿の家も立ちましたな」


次郎は座敷の中央に座り、弟子たちの言葉に静かに頷いた。

「俺が出世したのも、皆の力があってこそだ。今日の祝いは無礼講でいこう」

そのとき、門番の太兵衛が駆け込んできた。

「次郎様、ご家族が……屋敷の前に」


次郎の表情がわずかに曇った。

「父上か……」

玄関に出ると、満左衛門が腕を組み、豊作が無遠慮に立っていた。

みよは少し後ろに控え、視線を落としている。

「立派な屋敷じゃないか、次郎」

満左衛門の声は、皮肉とも称賛ともつかない。


「祝いに来たわけじゃねえぞ」

豊作が口を開いた。

「父上が言うには、俺を家臣にしてくれってさ。お前の下で働けって」

次郎は一瞬、言葉を失った。


弟子たちが背後で息を呑む。

「……話し合いの場を設けましょう。屋敷にお上がりください」

その声は静かだったが、芯があった。


座敷に通すと、弥八が無言で茶を淹れた。

庄吉とおとよは、少し離れた場所で控えている。


次郎は正座し、父と兄を見据えた。

「兄上が家臣となるには、まず――その覚悟を見せていただきたい」

豊作は笑った。

「覚悟? お前に試されるのか、俺が?」

満左衛門が口を挟む。

「次郎よく出世したな! 家族なんだから、豊作を武士にしてやってくれるよな」

みよがそっと口を開く。

「次郎……お願い。兄弟で争わないで。家族なんだから」

次郎は目まいを覚えた。祝いの酒が喉に重く残る。


次郎は目を伏せた。

「争うつもりはありません。ただ、役に立たない者を、置いておく余裕はまだないのです」

「俺が役に立たないだって! ふざけるな!」

豊作は肩を震わせ、拳を握りしめた。

目は次郎を射抜くように睨みつけ、今にも掴みかかりそうな気配を漂わせている。


次郎は冷ややかに言う。

「豊作、そう言うところだ。俺の元で出世したいなら態度を改めろ。

家族なんだ、雇うくらいはしてやる。いくら欲しい?

ただし、ここにいる筆頭家臣の弥八の俸禄が百石だ。それ以上は出せん」


豊作は一瞬たじろぎ、言葉を探した。

「じゃあ……百石」

「お前に、百石の価値があると思うか?」

「なら…五十石?」


次郎の声が鋭くなった。

「百石欲しいなら百石欲しいと言え!!

俺は百石分の働きをする! 後悔させないから百石くれ――そう言えないなら出ていけ!

家には毎年百石送ってやる。二度と顔を出すな!!」


豊作は言葉を失い、拳を握りしめた。

顔が怒りに染まり、次に悔しさに揺れ、そして――沈黙。


弟子たちが息を呑む中、豊作はゆっくりと膝をついた。

座敷の板が軋み、彼は深く頭を下げた。

「……俺は百石分の働きをします。

次郎様に忠誠を誓います。

二度と家族として接しません。

だから俺を、武士にしてください…」


次郎はしばらく黙っていた。

その姿を見つめながら、何かが胸の奥で静かに崩れた。

そして、低く、短く言った。

「よく言った。百石で雇う。だが家族としては扱わん、忠誠を誓い、功を建てれば重く用いると約束する。明日から弥八の下で学べ」


弥八が一歩前に出て、静かに頷いた。

「承知しました。殿」


座敷の空気が、ようやく動いた。

次郎の屋敷は、今まさに「家族」から「家臣団」へと変わろうとしていた。

誤字脱字報告、ありがとうございます。日間歴史ランキング1位を取れました。ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ