32 次郎の秘策
壬生・大江両家の屋敷を落とし、領地を制圧した楠予軍は、
首実検を終え、池田への帰路についた。
戦の火は消え、道には風と土の匂いだけが残っている。
先頭を行くのは源左衛門と源太郎。
二人は馬に乗り、並んでゆっくりと進んでいた。
次郎は後方の三間槍隊の先頭に立ち、歩を進めていた。
槍を肩に担いだ兵たちが、彼の背を見て黙々とついてくる。
戦の疲れが足に残りつつも、心は妙に落ち着いていた。
そこへ、門番の権蔵が小走りでやってくる。
「次郎、御屋形様がお呼びだ。前へ行け」
「……はい」
次郎は首を傾げながら走って行くと、源太郎が馬上から声をかけた。
「次郎、御屋形様の馬の轡を取れ。手綱を引くのじゃ」
「承知しました」
(なんで俺が手綱なんて引くの? まあいいけどさ…)
次郎は馬の横に立ち、手綱を握る。
馬の歩みに合わせて歩き出すと、源左衛門が静かに口を開いた。
「次郎。此度の戦、よくやった。
我らは二万石の地を得た。氷見・古川も入れると二万八千石じゃ。
そのうち、二千石をそなたにやろうと思う」
(二千石……一石が八百文として、160万文か!! き、きたーーー!!)
次郎は思わず足を止めかけた。
「……二千石、でございますか?」
(マジか、いいの、ホントにいいの!! )
(あっ、でも二千石のうち税で取れるのは千石。兵士、事務方を雇うから、残るのは1割くらい? あれっ、て事は16万文? ……意外と少ない)
「うむ。壬生の地の一部を与える。
そして、名も与える。姓は壬生。通称は次郎。名は忠光。
そなたの忠義を、名に刻む。どうじゃ」
次郎は手綱を握り直し、少しだけ笑った。
(壬生・次郎・忠光。うん、まあ源左衛門よりはいいかな。あっ)
「壬生次郎忠光。ありがたく、頂戴いたします。ですが御屋形様、御屋形様も――」
言いかけて、次郎は一歩、馬の前に出た。
源左衛門の視線が、静かに彼の背を追う。
「御屋形様も、名をお作りになっては如何でしょうか」
源左衛門の眉が、わずかに動いた。
「名、か」
「はい。源左衛門では、少々格が足りませぬ。3万6千石の御屋形にしては――」
言葉を選びながら、次郎は振り返った。
その目には、冗談めいた光と、確かな敬意が混じっていた。
「御屋形様の威光は、もはや村の長ではございません。
名乗りが、御屋形様の器に追いついておりませぬ」
源左衛門は馬上でしばし黙し、遠くの山並みに目をやった。
風が吹き抜け、馬の鬣が揺れる。
「……名か。わしが名を持たぬこと、気にしておったか」
「いえ。気にしておりましたのは、敵方でございます。
“源左衛門など、村の古老の名ではないか”と、嘲る声もございました」
源左衛門の口元が、わずかに歪んだ。
「ほう。では、そなたは何と呼べば格が立つと思う?」
次郎は一拍置いて、静かに言った。
「姓は楠予。通称は源左衛門。名は――」
言いかけて、ふと笑った。
「それは、御屋形様ご自身が刻まれるべきものでございましょう。
忠光の名は、御屋形様が与えてくださった。
ならば、御屋形様の名は、誰にも与えられぬ、ものにてございます」
源左衛門は、しばし黙していた。
そして、馬の首を軽く叩きながら、ぽつりと呟いた。
「……楠予・源左衛門・正重。どうじゃ」
次郎は目を見開き、すぐに深く頭を下げた。
「楠予源左衛門正重。御屋形様に、相応しき名にございます」
次郎は再び手綱を握り直し、少しだけ笑った。
「それと御屋形様、今一つご提案がございます」
(これは俺が以前から考えてた秘策だ)
源左衛門は、次郎の声に目を細めた。
馬の歩みはゆるやかに続いていたが、風の向きがわずかに変わったように感じた。
「申してみよ、忠光。名を得た者の言葉ならば、聞くに値しよう」
次郎は手綱を握ったまま、少しだけ前に出た。
馬の歩みに合わせて歩きながら、静かに口を開く。
「御屋形様。二千石の所領、ありがたく存じます。
ですが、できれば――五百石の所領と、五百石の俸禄にしていただけないでしょうか」
源左衛門は、思わず馬の歩みを緩めた。
次郎の顔を見つめる。
「……所領を減らすのか? どういうつもりだ」
次郎は、風を受けながら静かに言った。
「壬生次郎は、ただ地を治めたいのではありません。家に仕える者として、生きたいのです。
所領は自分のもの。俸禄は家からの支給。両方を持つことで、忠光は地を守りながら、家にも繋がれる。そういう形を、楠予家全体で試してみたいのです」
(まあ、俺の本心はちょっと違うけどね)
これが俺の楠予家改造計画だ。
楠予家で半所半禄を制度化。
1. 半所半禄で家臣を制度的に縛る
→ 俸禄で家に依存
→ 謀反しづらくなる
2. 所領を家が管理することで、
御屋形様の直轄領が増え、家臣の直轄領が減る。
→ 謀反しづらくなる
3. 俸禄の一部を兵士の給与に回させる
→ 兵役の義務化→常備軍の雇用→兵農分離。そして、 常備軍を家の戦力として働かせる事だ。
(織田信長と違い、楠予家には金で兵士を雇う余裕はない。だがこれなら兵農分離が半分可能だ!)
源左衛門は黙って聞いていた。
次郎は言葉を続ける。
「家中の者がみな所領を持てば、家はただの寄り合いになります。
でも、俸禄を受ける者が増えれば、家は統制力を持ちます。
なぜなら俸禄は、家が与えるものですから。謀反を起こせば、すぐに失われる。
家臣は、家に依る者になる。忠誠が、制度として根づくんです」
源左衛門は、遠くの山並みに目をやった。
風が少しだけ向きを変えたように感じた。
「……さすがは次郎、いや忠光。楠予の家の形まで考えていたとは」
次郎は、笑って言う。
「それほどでもありません。お気づきですか? 俸禄五百石を払うためには千石以上の領地が必要。実質、俺は二千石の領土を貰ったも同然なんですよ」
源左衛門は、ふと目を細めた。
馬の歩みは止まらぬまま、思考だけが立ち止まる。
「……待て。俸禄五百石を出すには、千石以上の地が要ると言う事は。
家臣に俸禄千石を支給するには、二千石の徴税地が必要になる。
管理費を考えると二千では、確かに足りぬ」
次郎は、手綱を握り直しながら、少しだけ笑った。
「はい、実際には二千五百、いや三千石は見ておいた方がいいかもしれません。
年貢の取りこぼしもありますし、徴税には人も手間もかかります。
それに、戦があれば田畑も荒れます。帳面通りにはいきません」
源左衛門は、馬上で静かに頷いた。
「……それでは十分な俸禄を皆に、与えてやれぬではないか。やはり、所領を与えた方がよいと思うぞ」
次郎は笑う。
「説明されればよいのです。俸禄千石を払うために三千石が必要だ。実質三千石を与えているのだと。それに、貰う側にも利点がございます。俸禄は土地の管理をせずとも、利益の部分だけを受け取れるもの。
御屋形様が制限をお付けにならなければ、自由に使える金、いや、米でございます」
(まあ本当は制限をつけるよ、千石につき三十人の兵役とかね)
源左衛門は、しばし黙した。
馬の蹄が乾いた土を踏みしめる音だけが、二人の間に流れていた。
「……それで、忠義は保てるか?」
次郎は目を細めた。
「保てます。忠義は、制度で育てるものです。
土地を預けるのは“任せる”こと。俸禄を渡すのは“支える”こと。
どちらも忠義を育てる土壌になります」
源左衛門は、前方の道を見据えた。
「……ならば、支えるに足る者かどうか、見極めねばならんな」
次郎は頷いた。
「はい。采配とは、ただ命を下すことではなく、命を預けることでもございます」
風が、再び向きを変えた。
その風は、まだ形にならぬ制度の胎動を孕みながら、楠予家の旗を静かに揺らしていた。




