表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/76

31 宣戦布告状

【玉之江甚八視点】


玉之江の奥座敷。

障子を閉め切った静かな空間に、灯明の火が揺れていた。


甚八は床几に腰を下ろし、手元の弓を磨いている。

源左衛門、玄馬、作兵衛、雪之丞が畳に胡座あぐらをかき、彼を囲むように座した。


甚八は顔を上げ、源左衛門に目を留めた。

「……これだけの人間が揃うとなれば、越智の命ではあるまい」

源左衛門は膝を進め、一歩前へ出た。

「命ではない。越智元頼は我らに援軍を送らぬどころか、戦いの傷も癒えぬうちに、われらだけで西北の輔頼派を討てと言った。壬生と広江を温存し、我らを使い潰す腹づもりよ」


甚八は弓を置き、静かに立ち上がった。

その背は広く、動きは無駄がなかった。

「使い潰すとな。元頼は当主の器ではなかったか…」


源左衛門が口を開いた。

「だからこそ、我らは越智元頼の命にはもう従わぬ。元頼派の壬生と広江を討ち、越智家より独立する。元頼は輔頼との戦いで動けん。それに我らを討つには、輔頼派の領地を通らねばならん」


甚八は座敷の縁に腰を下ろし、源左衛門を見据えた。

「壬生と広江を討てば、楠予の地は広がる。わしは、その地を貰うために戦うのか? それとも、楠予の命に従わされ戦うのか?」

源左衛門は答えた。

「どちらも正しい。戦のあとに地を得て、楠予家に従う者は、家臣となる。楠予が名を掲げる以上、そなたもその名の下に立つことになる」


甚八はしばし沈黙した。

手元の弓に目を落とし、指先を柄に添えたまま動かさない。

「地を得て、家臣となる……それは、志ではなく、取り引きだ」

声は低く、しかし確かに場を打った。


雪之丞がわずかに身じろぎする。玄馬は目を細め、源左衛門は動かず、応える。

「御恩と奉公とはそうしたもの。作兵衛は我が旗の下で戦う事に決めた。お主も楠予につけ。知っておるぞ、お主も金子と裏で通じておったであろう。越智家にお前の居場所はない」


甚八の目が細くなった。

その瞳は、まるで霧の中で獲物を探す獣のようだった。

「……それを、誰から聞いた」

源左衛門は、わずかに口角を上げた。

「聞かずとも分かる。地理を見れば明らか。

金子の大軍が池田に来るには、そなたの村を通らねばならぬ。

素通りなど、あり得ぬ。戦わずに通したのなら――密約しかあるまい」

甚八は黙した。

その沈黙は、否定ではなく、覚悟だった。


「……そうだ。密約を結んだ。

金子が楠予を落とせば、わしは降ると。

越智は身内で争い、援軍を出さず、玉之江は孤立していた。

村を守るには、それしかなかった」

作兵衛が頷いた。

「吉田も同じじゃ。戦えば潰される。

越智は我らを見捨てた。ならば、生きる道を選ぶしかなかった」


源左衛門は一歩、畳を踏みしめた。

その動きは、静かだが重かった。

「その選びが、氷見と古川の民を殺した。

そなたらが通した大軍が、我らの地を焼いた。

その責は、越智ではなく、そなたらにある」


甚八は弓を手に取り、立ち上がった。

「責は、受ける。だが、選びは間違っておらん。

村を守るために、わしは降ると約束した。

だが、楠予は落ちなかった。

ならば、今度は楠予に賭ける。

その旗が、越智よりも強いなら――わしは先陣に立とう」


玄馬が冷ややかに言った。

「先陣に立つか。よいだろう。だが、お前が裏切れば

金子の大軍を討った、我が軍の弓――

異国の技を用いた“ロングボウ”がお前を撃つ」

甚八が眉をひそめた。

「ロングボウ…? 金子元成が流れ矢に当たり、総崩れを起こしたと聞いたが? その時の弓か?」


玄馬が頷いた。

「流れ矢などではない。連合軍の突撃を七度退け、金子元成を討ったのだ。

そなた同様、その威は、越智家すらまだ知らぬ。だが、我らは知っている。

そして、そなたも知るべきだ。楠予の旗の下に立つならば」


甚八は弓を見下ろした。

その手は、弦に触れず、ただ柄を握っていた。

「……わしは、弓を信じておる。だが、それ以上に、背を預ける者を見極めねばならん」


源左衛門が一歩、畳を踏みしめた。

「ならば、見極めよ。わしらは、そなたの背に矢を向けぬ。

だが、そなたが我らの背を狙えば――容赦はせぬ」


甚八は目を細め、源左衛門を見据えた。

その瞳は、まるで霧の中で獲物を探す獣のようだった。

やがて、静かに口を開いた。

「……冷たいのう、楠予は。だが、筋は通っている。

わしが、越智に仕えて十五年。

戦に出れば、越智の旗を背にしてきた。

だが、あの旗は、もう風に耐えられん。

金子の大軍が迫ったとき、越智は何もしてくれなかった。援軍もなく、言葉もなく――ただ、沈黙だけだ」


甚八は弓を背に回し、ゆっくりと立ち上がった。

「主君が主君足らざれば、旗はただの布じゃ。

ならば――」

甚八は一歩、源左衛門に近づいた。

「楠予に賭けよう。玉之江は今より、楠予の旗の下に立つ」

源左衛門は頷いた。

「その言葉、しかと聞いた。そなたの血が、楠予の旗を支える。

それが、忠義の証となる」


灯明とうみょうの火が揺れた。

玉之江の屋敷に、戦の火が灯った。

そしてまた一つ、楠予の旗は強さを得た。


※※※


【帯刀視点】


壬生帯刀の屋敷


壬生帯刀は縁側に腰を下ろし、酒壺を土中に埋めて、冷やした酒を口に運んでいた。

夏の昼下がり、庭の朝顔が風に揺れている。

盃のふちに水滴が浮かび、壬生はそれを指先で払った。

その隣に、広江元安が控えていた。


広江は壬生の機嫌を伺うために訪れ、盃はすでに三杯目。

壬生が酒を口に運ぶたび、広江も少し遅れて盃を傾ける。


そこへ、使者が駆け込んで来た。

汗にまみれ、息を切らしながら、膝をついて報せる。

「楠予家との境にいる見張りより急報です。

楠予軍、のぼりを掲げて布陣。

兵の数二百。丘の上の楠予の領内にて――

幟は楠予源左衛門のものだけ。越智家の旗は見えず。との事!」


壬生は眉を動かさず、盃を置いた。

「楠予は何を考えておる、金子の残党でもおったのか? 見張りは何と言っている?」

使者が答える。

「楠予軍の者より、矢文が放たれ三日後に侵攻するとの事。こちらがその文でございます」


壬生は眉間に皺をよせ、巻紙を受け取る。

広げた瞬間、斜め隣りの広江元安が身を乗り出す。


『  壬生殿へ つつしんで申し上げてそうろう

奇襲は戦国の習いにてそうらえども、我が家は楠正成公の末裔にてそうろう

卑怯なる振る舞い、我が名をけがすにえずそうろう

よって、これより楠予家は越智元頼公の御旗を離れ、独立の道を歩む所存にてそうろう

貴殿、もし降伏致されそうらわば、臣下に加え奉る所存にてそうろう

もし貴殿、元頼公の忠臣にてそうらわば、我が道を阻まれたくそうろう

三日後、貴殿の領地へ侵攻致すべくそうろう

我が軍、すでに国境に布陣済みにてそうろう

貴殿、兵を集められずそうらわば、我が軍、直ちに貴殿の屋敷へ攻め入る所存にてそうろう

正々堂々、弓矢を交えたくそうろう


楠予源左衛門 謹言きんげん 』 


広江が怒る。

「正々堂々だと。名乗ってから斬る馬鹿がどこにいる。

それに、もう布陣済みとは……本気でやる気か……」


壬生は巻紙を丸め、脇に置いた。

「源左衛門め、一か八かの賭けに踏み込んだか。越智は乱れておる、我らに援軍はない。我らだけで楠予を討たねばならぬ。金子元成を流れ矢で討ち取ったからと、図に乗りおって……」


広江が問う。

「兵を動かしますか?」


壬生は酒を飲み干し、立ち上がった。

「今は動かさぬ。使いを出し、吉田と玉之江に先陣を切らせる。さすれば我らは六百、負ける道理などない」


広江が頷く。

「壬生殿の領地がまた広がりますな。吉田か玉之江が死んだ時は、それがしにも分け前を下されよ」


壬生は庭を見下ろし、槿の花が風に舞うのを見て、静かに言った。

「二日か三日で、吉田と玉之江の援軍が来る。わしはそれまで、屋敷の堀・柵をより堅固にして待つ。広江、分け前が欲しければ、全ての兵を率いて参れ。吉田と玉之江がきばかぬよう、我らの威を見せつけるのじゃ」


※※※


三日後。壬生軍。


壬生帯刀は軍扇を膝に置き、広江元安と並んで楠予の陣を見上げていた。

楠予軍は丘の上に布陣。のぼりは源左衛門のもののみ。越智の旗は見えない。


広江が鼻で笑った。

「丘とはいえ、あの程度の高さでは地の利など大してない。兵が少なければ、囲んで潰すだけのこと」

壬生は盃を傾けながら答えた。

「楠予は二百。こちらは六百。吉田と玉之江を先に突っ込ませ、疲弊させたところを我らで討つ。越智の旗を捨てた報い、受けさせてやる」


広江が頷いた。

「吉田と玉之江が死ねば、領地は我らのもの。分け前は、壬生殿と等分で」

壬生は盃を置き、軍扇を広げた。

「…よいだろう。突撃の合図を出せ」


___


吉田・玉之江軍。


吉田作兵衛と玉之江甚八が馬上に並び、楠予の陣を見上げていた。

後方には壬生・広江の本軍。

前方には楠予源左衛門の幟。


甚八が低く呟いた。

「……あの旗は、風に耐えておる。ならば、背を預ける価値がある」

吉田が頷いた。

「越智は我らを見捨てた。楠予は声を上げた。今こそ、選ぶ時よ」


甚八が手を挙げた瞬間、軍勢が一斉に鬨の声を上げ、駆け出した。

槍が陽光を反射し、土煙が戦場を覆う。

壬生・広江の本陣からは、使い捨ての先陣が突撃したように見える。

広江が笑った。

「よし、潰し合え。潰してから楠予を叩く」


楠予の陣、丘の上。

源左衛門が静かに立ち、玄馬がロングボウを構える。

「……来るぞ。甚八、作兵衛。信じておるぞ」

楠予勢と激突する直前で、玉之江甚八が馬上で叫ぶ。

「止まれ!」

吉田作兵衛も手を挙げ、軍勢が一斉に停止。


それを見た壬生が眉をひそめる。

「何だ……あれは?」


甚八が叫ぶ。

「わしは、楠予に賭けた! 越智の旗はもう風に耐えられん! 今こそ、背を預ける時よ!」

作兵衛が続ける。

「越智は沈黙した! 楠予は声を上げた! 我らは、楠予の旗の下に立つ!」

軍勢が反転し、壬生・広江の本陣へ向けて動き始めた。


広江が叫ぶ。

「おのれ裏切りよったか! 全軍迎え撃て!」

だがその瞬間――

源左衛門が手を振り下ろす。

「放て!」

玄馬がロングボウを構え、矢が風を切る。

その矢は壬生の本陣にまで降り注いだ。


壬生の副将が胸を貫かれ、倒れ。

広江の旗持ちが頭を射抜かれ、旗が地に落ちる。


兵たちが叫び、大混乱に陥る。

「何だ、この矢は……! 流れ矢ではない、狙っておるぞ!」


楠予軍が高地から進軍を開始。

次郎と友之丞、率いる三間槍が前列を押し出た。


玉之江・吉田の軍勢が二手に分かれ、

鶴が羽を広げたような形で、側面から壬生軍を包み込む。


壬生・広江軍は三方から包囲され、指揮系統は崩壊した。


広江が叫ぶ。

「退け! 退けぇ!」

だが、本陣を超え、退路にもロングボウの矢が降り注ぐ。

逃げようとした兵が、背を射抜かれ、次々と地に伏す。


玉之江甚八が叫ぶ。

「残兵を皆殺しにしろ、壬生と広江を殲滅するのだ、生きて返すな!!」

吉田作兵衛が槍を振るい、広江の側近を突き倒す。

「さあ広江の首を挙げよ、恩賞はたんまりと出す!」


源左衛門が静かに言った。

「吉田と玉之江の忠義、しかと見届けた」


広江元安は只一人馬を走らせ、丘の裏へ逃れようとする。

だが、楠予兵馬のロングボウによる狙撃が彼の背を貫いた。

馬が倒れ、広江は地に伏す。


決着はついた。

もはや血煙の中、戦場に立っているのは壬生ただ一人。


壬生帯刀はただ一人、折れかけた剣を杖に、膝をつきながらもなお立っていた。

周囲を玉之江・吉田の兵が囲み、槍の穂先が帯刀の喉元を狙っている。

そこへ、源左衛門が槍兵を割って、ゆっくりと歩み寄る。


帯刀は顔を上げ、血にまみれた口元で言った。

「広江は……地の利など大してないと……言っていたが……」


源左衛門は帯刀を見下ろし、静かに言った。

「地の利は確かになかった。

あの丘など、戦の趨勢を左右するほどのものではない。

だが勝敗は、戦場ではなく……戦場に立つ前に決まっている」

「……そうか」

そう言うと、帯刀はゆっくりと目を閉じた。

剣を支えにしていた腕が崩れ、帯刀は地に伏す。



1540年8月15日。

楠予家が越智家から独立した。


伊予東部には――越智元頼、越智輔頼、楠予源左衛門、金子、石川、と。

五つの旗が風に翻る。

五つの旗は、互いに肩を並べて風に揺れている。

抜きん出る者なく、混沌の時代が始まった。

のぼりは、縦長の旗の一種で、布の端に輪をつけて竿に通し、立てて標識とするものです。戦国時代には「風林火山」などの標語や、家紋・家の名・軍の意志を掲げるために用いられました。

※「謹言」は「つつしんで申し述べる」の意。

武士の書状や口上の末尾に使われることがあります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ