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30 楠予の暗躍

1540年8月初旬


昼下がりの楠予屋敷。

蝉の声が遠くに響いていたが、広間には重苦しい空気が漂っていた。

越智元頼の重臣、三宅主膳が訪れていたのだ。


年老いた家老の姿は、礼儀正しくも、何かを運んできた者の重みを纏っていた。

主膳は座敷の中央に座し、ゆっくりと口を開いた。

「氷見、古川の攻略、ご苦労でござった。しかも金子と新居の大軍を破ってのお手柄、実に見事でござる」


源左衛門が静かに頭を下げる。

「はっ、それらはすべて、ここにおります。わが孫娘の婿になる次郎の手柄にござる」

主膳は次郎に目を向け、笑顔を浮かべた。

「この者が……うん、うん」

頷きながらも、その目は笑っていない。

まるで、何かを見定めているような、冷たい光が宿っていた。


源太郎が口を開いた。

「本日は主膳様、直々のお越し。どのような御用でしょうか。皆も気になっております」

主膳は扇を閉じ、声を低くした。

「ならば、元頼様のお言葉を単刀直入に申そう。吉田村の地侍、作兵衛、玉之江村の地侍、甚八を率いて、輔頼側の大野虎道、国安利勝、高田桂馬、楠河昌成らを討てとのご命令じゃ」

広間がざわめいた。


主膳は笑って言う。

「当然であろう、池田から朝倉砦や国分寺に行くには、あ奴らの領土を通らねばならん。排除せねば、援軍の行き来もできぬ」


源左衛門が眉をひそめる。

「お待ちください。楠河昌成も加えれば敵は500を超えます。それに楠河は我らと祖を同じくする者、我らと盟約を結んでおります。どうかご容赦を」

主膳は目を細めた。

「元頼様の命じゃ、逆らう事は許されぬ。氷見、古川を加増されたご恩を忘れてはならぬ。それに何も一度に全員を討つ必要はない。一人ずつ血祭に上げればよいのじゃ。さすれば、さらなるご加増があろうぞ」

その言葉に、誰も何も返さい。

そのかわり、兵馬たちは拳を握りしめた。


源左衛門は静かに立ち上がり、言った。

「元頼様の命、確かに聞き届け申した。我らは直ちに出陣いたそう」

「父上!」

又衛兵が苦言の声を上げる。

「楠河は敵ではありませぬ! それに、虎道も利勝も、かつては盟友で――」

源左衛門は手を上げて制した。

「わしの決断じゃ。黙って従え」

その力強い言葉に、皆がしぶしぶ頭を下げる。


納得ではなく、従順。

広間には、重い沈黙が落ちる。

主膳は立ち上がり、扇を軽く振った。

「では頼んだぞ権左衛門殿。楠予家の忠義、元頼様は見ておられる」


そう言い残し、主膳は屋敷を後にした。

その背に、声をかける者はいない。

次郎は座敷の隅で、拳を握っていた。

(なんなんだよ、あの爺は。人のいい爺さんかと思ったら、とんだカス野郎だ。氷見も古川も、俺達が自力で取ったんだ。お前に貰ったんじゃねえよ!!)


三宅主膳が去ったあと、広間には重い沈黙が残っていた。

障子の向こうに蝉の声が響いていたが、誰もそれに耳を傾ける者はいない。

源太郎が口を開いた。

「父上……本当に楠河を討つのですか?」


源左衛門はしばらく黙っていた。

その眼差しは、主膳が去った廊下の方を見つめていた。

やがて、ゆっくりと源太郎に視線を戻し、静かに、しかし確かな決意を込めて言った。

「討たぬ。楠河とは同盟を結んでおる。なにより、元頼は我らを使い潰すつもりじゃ」

その言葉に、広間の空気がわずかに揺れた。


源太郎が身を乗り出す。

「では、どうなさるのですか? 主膳殿には出陣すると申されましたが」

源左衛門は頷いた。

「我らは出陣する。だが西北に、ではない――」

言葉を切り、座敷を見渡す。


源太郎、玄馬、兵馬、友之丞、

又衛兵、佐介そして次郎が。

源左衛門の次の言葉を待っていた。


「敵は池田の東北……壬生帯刀みぶたいとうと広江元安」

広間がざわめいた。

誰も言葉を発せず、ただ互いの顔を見合った。

一呼吸おいて、兵馬が声を上げた。

「壬生と広江は元頼派です。父上は……元頼様に謀反されるのですか?」

源左衛門は静かに言った。

「そうじゃ。もはや越智家には従えぬ」


その言葉は、広間の空気を一変させた。

忠義と現実の狭間で揺れる者もいたが、誰も反論はしなかった。

源太郎が口を開いた。

「我らは氷見、古川の民を従えましたが、まだ戦力として使えませぬ。

先の戦いの傷も癒えぬ今、動かせる兵力は二百ほど。

対して壬生と広江は、両軍合わせて四百近うおります」

玄馬も続く。

「それに頼みのロングボウも、戦場から回収した矢の、半分以上が修理中です」


源左衛門は頷いた。

「そうじゃ。ゆえに――吉田作兵衛と玉之江甚八を仲間に引き入れる」

友之丞が目を輝かせた。

「なるほど。吉田、玉之江の両名が加われば、我らも四百。戦いになりますな」

兵馬が腕を組み、低く言った。

「されど……二人が仲間になりましょうか?」

源左衛門が静かに答えた。

「仲間にならねば、先に討つ。二人の領地は池田と氷見・古川の中間にある。無視する事は出来ん」


源左衛門は立ち上がり、広間を見渡した。

その背に、かつての慎重さはなかった。

あるのは、決断の重みと、未来への覚悟だった。


次郎は座敷の隅で、黙って聞いていた。

今、楠予家はお家の存亡をかけて、越智家から独立しようとしている。

例え成功しても、それは長い戦いになるだろう。

この場に、お澄の事を思っているのは次郎しかいなかった…。



※※※


吉田作兵衛


池田の山裾に、朝霧が立ちこめていた。

源左衛門は、玄馬と友之丞を伴い、池田村の東にある吉田作兵衛の屋敷へと向かっていた。

「作兵衛は、越智家には恩も怨もない。だが、玉之江と違って、利を見て動く男だ」


友之丞が馬上で呟いた。

「利を見せれば、動くか」

玄馬が答える。

「利と、恐れだな。氷見の水の利用権の半分を与えるとかな」

源左衛門は黙って聞いていた。


彼の眼差しは、霧の向こうに広がる田畑を見つめていた。

ここが戦場になる前に、味方に引き込まねばならぬ。


吉田の屋敷に着くと、作兵衛はすぐに応じた。

彼は五十を越えた老将で、目は細く、口元には常に笑みを浮かべていた。

「源左衛門殿が、わしに用とは珍しい。越智家の使いではないのかな?」

「越智家は援軍を送らず、わしらを見捨てた。もはや越智家には従わぬ。壬生と広江を討ち独立する。味方になれば守る。敵になれば……踏む」


作兵衛は笑みを崩さず、茶をすすった。

「踏む、か。脅しは嫌いじゃが、理はある。して、わしに何をくれる?」

「なにもやらん」

「ちっ、父上!?」

友之丞が驚きの声を上げた。


権左衛門が作兵衛を睨む。

「そなた越智を裏切り、金子と通じたであろう」

作兵衛は茶碗を置き、笑みを崩さぬまま目を細めた。

「……よくご存じで。金子・石川の千二百の大軍の前にどうしろと言うのじゃ。越智は我らを見捨て、援軍を寄越さなかった。わしは楠予が落ちれば降伏すると約束し、金子勢を素通りさせただけじゃ」


源左衛門は一歩、畳を踏みしめた。

「素通りさせたか……その結果、氷見の民は三十余名が斬られ、古川の田畑は焼かれた。そなたの“素通り”は、我らの血を流した」

作兵衛は眉を動かさず、静かに言った。

「それでも、楠予は落ちていない。越智が見捨てた以上、わしは村を守る道を選んだまでよ」

玄馬が口を挟む。

「ならば、今度はどう守る? わしはお主の密約を越智家に報せるぞ。越智家にお主の居場所はない。味方にならぬなら、我が兵が吉田村を蹂躙する」



作兵衛は、茶碗をそっと膝元に戻した。

その手は震えていない。だが、目の奥にわずかな揺らぎが走った。

「……脅しは、若い者の得意技か。玄馬殿、そなたの言葉は理にかなっておる。だが、わしを蹂躙すれば、越智は喜ぶぞ。わしを討てば、楠予は謀反の証を自ら差し出すことになる」

玄馬は一歩も引かず、冷ややかに言い放つ。

「証など、いずれ越智が捏造する。ならば、先に動くまで。選べ、作兵衛。生きて村を守るか、忠義の名の下に焼かれるか」


作兵衛は、しばし黙した。

その沈黙は、茶の湯のように静かで、しかし熱を孕んでいた。


やがて、彼は立ち上がり、障子の向こうに目を向けた。

朝霧が、まだ田畑を覆っている。

「……わしが、越智に仕えて三十年。だが、越智はもはや、民を守る器ではない。壬生も広江も、利を貪るばかり。ならば――」

振り返り、源左衛門を見据える。

「楠予に賭ける。わしの兵百、明日より動かす。だが、条件がある」

源左衛門は眉を動かさず、ただ頷いた。

「申せ」

「玉之江の甚八も引き入れよ。あ奴が加われば、越智は動揺する。壬生と広江は隣り合っておるが、玉之江が南から圧をかければ、奴らは兵を分けざるを得ぬ。正面からの衝突ではなく、兵の流れを乱すのだ」

玄馬が目を細めた。

「……なるほど。分断ではなく、兵力の分散を狙うか。玉之江は味方につけるが、それはならぬ。金子の大軍を打ち破った。わが軍の弓にて一戦で決着をつける」


源左衛門は火鉢の灰を指で払った。

その動きは静かだが、言葉には鋼のような重みがあった。

「……吉田、玉之江を味方に引き入れるは、表の策。真の狙いは、先陣に立たせること。壬生・広江との戦の最前にて、お主らを試す」

作兵衛の目がわずかに揺れた。

「試す……とな?」


玄馬が冷ややかに続ける。

「裏切れば、我が軍の弓が風を切る。金子の大軍を討った、あの“異国の弓”――ロングボウの威を、まだ越智家は知らぬ。吉田も玉之江も、壬生も広江も、まとめて屠ることができる」

作兵衛は、初めて茶碗から手を離した。

その指先が、わずかに汗ばみ、声が震えた。

「……そなたら、わしを信じておらぬのか」


源左衛門は目を細め、静かに言った。

「信じるには、証が要る。証とは、言葉ではなく、行動。先陣に立て。玉之江にもそう伝える。そなたらが血を流すなら、楠予は背を預けよう。だが、背を狙えば――」

玄馬が言葉を継ぐ。

「その瞬間、矢が背を貫く。容赦はせぬ」

作兵衛はしばし沈黙し、やがて深く息を吐いた。


「……なるほど。楠予は、越智よりも冷たい。だが、理はある。わしは先陣に立とう。甚八にもそう伝える。だが、そなたらも覚悟せよ。わしらが命を張る以上、楠予も退くことは許されぬ」

源左衛門は頷いた。

「退かぬ。退けば、家も村も滅ぶ。わしらは、進むしかない」


その言葉に、霧の向こうで風が吹いた。

戦の火蓋は、静かに、しかし確かに開かれようとしていた。

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