29 波紋
国分寺城・越智輔頼視点
城の広間には輔頼の家臣たちが揃い、火鉢の周りに座していた。
徳重家忠が扇を軽く振りながら言った。
「楠予軍が金子・石川の連合軍に攻められておるそうです。総勢千二百。さすがに、あれでは持ちませんな」
古谷宗全が鼻で笑った。
「ふん、あの源左衛門も終わりか。慎重ばかりで動きが遅い。戦場では命取りよ」
桜井道兼が酒を口にしながら言った。
「ざまあみろだ。楠予家もおしまいだな。
あれだけ調子に乗っておったが、所詮は農民の成り上がりであったと言う事よ」
川之江兵部は腕を組み、静かに頷いた。
「いや兵数の差は歴然。金子元成に降るかも知れんぞ」
その時、輔頼がゆっくりと座敷に現れた。
白地に黒の羽織をまとい、目元には笑みが浮かんでいる。
「わしの領土を奪い取るから、このような目に遭うのよ。氷見も古川も、元は越智家のもの。自業自得じゃ」
家臣たちは一斉に頷いた。
「その通りにございます、御屋形様。楠予の侵攻で、氷見・古川の農民兵の百名が逃亡しました」
「楠予家は、越智家の恩を忘れた報いを受けたのです」
輔頼は火鉢に手をかざしながら、満足げに目を細めた。
「源左衛門も、楠予家も、これで終いじゃ。わしの手を煩わせるまでもない」
その時だった。
廊下を駆ける足音が響き、若い使者が息を切らして広間に飛び込んだ。
「金子軍……敗れました! 楠予軍、勝利とのこと!」
広間が凍りついた。
徳重家忠が扇を落とした。
「……何だと?」
古谷宗全が立ち上がり、声を荒げた。
「千二百の兵が、二百そこらに負けたと申すか!?」
桜井道兼が酒をこぼしながら呟いた。
「馬鹿な……いったい何が起こったのだ?」
川之江兵部は眉をひそめ、低く言った。
「おそらく、油断した金子元成が流れ矢にでも当たったのであろうな」
輔頼は沈黙したまま、火鉢の火を見つめていた。
その目には、困惑の色が宿っていた。
まるで、盤上の駒が思いもよらぬ手で動かされたように。
※※
朝倉砦・越智元頼視点
朝倉砦の広間には、重厚な沈黙が流れていた。
越智元頼は座敷の中央に陣取り、家臣たちはその周囲に控えていた。
障子の外では蝉が鳴き、砦の石垣に陽が差していたが、広間の空気は冷えていた。
三宅主膳が口を開いた。
「楠予家が、金子・石川の連合軍に攻められております。総勢千二百。楠予軍は二百そこそこ。もはや持ちませぬ」
玉川監物が眉をひそめる。
「源左衛門殿は、慎重な方。だが、あの兵数では……」
新谷内記が静かに言った。
「楠予家は、我ら越智家の家臣。仲間でございます。援軍を送るべきかと」
朝倉頼房が首を振った。
「和議が結ばれておらぬ以上、軍を動かすわけには参らぬ」
高橋弾正が歯噛みした。
「惜しい人物じゃった……源左衛門殿が氷見・古川を落としたゆえ、我らは一息つけた」
元頼は黙していた。
その眼差しは、砦の奥にある庭の松を見つめていた。
その時、廊下を駆ける足音が響いた。
使者が息を切らして広間に飛び込む。
「楠予軍、勝利いたしました! 金子・石川連合軍、敗退! 金子元成、討死とのこと!」
広間がざわめいた。
三宅主膳が扇を落とした。
「……勝った、のか?」
玉川監物が目を見開いた。
「わずか二百の兵で、千二百を退けたと申すか……!!」
新谷内記が立ち上がり、声を張った。
「よかった……これで輔頼よりも優勢に立てる!」
朝倉頼房が笑みを浮かべる。
「源左衛門殿、見事な戦よ。これで越智家の正統は、元頼様にございます」
高橋弾正が頷いた。
「楠予家の力、侮れませぬな。これで輔頼の勢力は大きく削がれましょう」
その時、座敷の隅で一人が低く呟いた。
「……だが、楠予は危険だ。大野虎道と国安利勝の軍も、難なく破ったのだぞ。何かがおかしい」
広間が再び静まり返る。
元頼は扇を閉じ、ゆっくりと言った。
「楠予家は……味方じゃ。じゃが危険なら……使い潰さねばならぬな」
その言葉に、皆が息を飲んだ。
砦の外では蝉が鳴いていた、その声は必至に何かを訴えているようだった。
※※※
1540年7月下旬
金子・石川連合軍との激戦から一週間。
楠予屋敷の広間には、一族と家臣たちが集まっていた。
障子越しに差す朝の光は柔らかく、庭の稲穂が風に揺れている。
戦の余韻はまだ空気に残っていたが、今日の議題は次の一手だった。
源太郎が口を開いた。
「金子軍を追い打ちできなかったのは、残念じゃったな」
兵馬が腕を組み、低く答えた。
「仕方あるまい。我らは矢のほとんどを使ってしまったのじゃ。
あの強力な弓、ロングボウがなければ、金子と石川の逆襲に遭う」
その言葉に、広間が静まった。
皆が黙り込み、頷く者もいた。
勝利の代償は、決して小さくはなかった。
その時、襖が静かに開き、大保木佐介の部下が入ってきた。
佐介に耳打ちをすると、佐介はすぐに立ち上がり、源左衛門に向き直った。
「御屋形様。氷見と古川が、御屋形様の庇護を求めております」
源左衛門は訝しげな表情を浮かべた。
玄馬が身を乗り出す。
「どういう事じゃ、佐介。氷見と古川は金子に占領されておる。それが、御屋形様の下に付きたいとは……寝返りの話か?」
佐介は首を振った。
「いいえ。金子は氷見と古川を捨てました。捨てる際、略奪を行い、村は荒れておるそうです」
広間に息を飲む音が走った。
友之丞が眉をひそめる。
「それでは村を取っても、意味がないではないか。足でまといになる」
又衛兵が頷いた。
「そうじゃ。食べ物の支援や、復興にも金がかかるぞ」
源太郎が静かに言った。
「その通りじゃ。戦はまだ終わっていない。輔頼を討ち取るまでは、他に回す金も食料もないわ」
広間の空気が、氷見・古川の要請を見捨てる方向へ傾きかけたその時――
源左衛門が、ゆっくりと次郎に目を向けた。
「次郎。お前は、どう思う?」
次郎は一礼し、言葉を選びながら答えた。
「人は、力です。食料や金を作るのは人です。人がいなければ、何も始まりません」
その言葉に、広間が再び静まった。
兵馬が呟いた。
「……人は、力か」
友之丞が頷いた。
「確かに。村を捨てれば、未来も捨てることになる」
佐介が一歩前に出る。
「御屋形様。私の兵にも、氷見・古川より付き従った農民兵が数多くおります。この話を受けねば、その者たちは去るでしょう。どうか、ご決断を」
源左衛門は目を閉じ、しばし沈黙した。
やがて、静かに言った。
「……わかった。氷見、古川の申し出を受けよう。元はと言えば、わしが力なきゆえ、氷見、古川を奪われたのじゃ。皆も、受け入れよ」
源太郎が深く頭を下げた。
「御意」
兵馬、玄馬、友之丞、又衛兵――皆が次々に頷いた。
広間には、静かな決意が満ちていた。
外では、風が稲穂を揺らしていた。
それは、戦の終わりではなく、再び始まる戦の兆しだった。