26 密命
1540年6月下旬。 《輔頼視点》
越智輔頼の軍七百は、朝倉砦に立てこもる叔父・元頼の軍三百を包囲していた。
砦の周囲には、幾重にも柵が築かれ、兵たちは昼夜を問わず警戒を続けている。
輔頼は本陣の帳の中で、地図を睨んでいた。目の前には、川之江兵部、徳重帯刀、古谷宗全、桜井道兼――いずれも輔頼ついた越智家の重臣たちが控えている。
「なに、東の我が軍が……楠予に敗れたと申すか?」
報告を受けた瞬間、輔頼の拳が机を叩いた。
地図の端が跳ね、蝋燭の火が揺れた。
「馬鹿な……虎道と国安が敗れたのか。あの農民上がりの楠予に……」
輔頼の顔が怒りに染まる。だが、川之江兵部は一歩前に出て、冷静に言った。
「殿。朝倉砦を落とすには、三倍の兵が必要です。元頼は老いてなお、守りの才に長けております。無理攻めは損耗を招きます」
「ならば、どうするというのだ。ここで元頼を討たねば、戦は長引く。越智家の威信も揺らぐ」
輔頼の声に、徳重帯刀が口を挟む。
「殿。今は兵を整え、次の布陣を練るべきかと。東の敗北は、民の噂にもなりましょう。焦れば、逆に足元を掬われます」
桜井道兼も続ける。
「元頼は砦に籠もり、兵糧も限られております。退けば、奴は勝った気になるでしょうが、次の一手で叩けばよいのです」
輔頼は沈黙した。帳の外では、雨が瓦を叩いていた。しばしの沈黙ののち、彼は立ち上がる。
「……退く。だが、これは敗北ではない」
川之江兵部が頷いた。
「我らは勝ったのです。元頼はいずれ降伏を申し出るでしょう」
輔頼は、帳の外を見た。朝倉砦の灯が、雨に滲んでいた。
「元頼よ。お前の命は、ただ延びただけだ」
その夜、輔頼軍は静かに包囲を解き、朝倉砦から退いた。
※※
《元頼視点》
1540年6月下旬。朝倉砦。
夜の雨が止み、砦の瓦に朝の光が差し始めた頃――元頼の寝室に、見張りの兵が駆け込んだ。
「元頼様! 輔頼軍、包囲を解きました! 夜半に陣を畳み、退却した模様です!」
元頼は、布団の上で静かに目を開けた。しばし沈黙ののち、ゆっくりと身を起こす。
「……そうか。退いたか」
その声に、砦の奥から家臣たちが駆けつけてきた。
三宅主膳、新谷内記、朝倉頼房――いずれも元頼派の重臣たちである。
「よかった……よかった……」
新谷内記が息を吐きながら言った。
「これで、砦は守られましたな」
三宅主膳は、元頼の顔を見つめながら、眉をひそめた。
「しかし……何か、異変でもあったのか。輔頼が、あれほどの兵を動かしておいて、何の戦もなく退くとは」
朝倉頼房が腕を組み、低く言った。
「もしや、輔頼が負傷したのでは? あるいは、川之江兵部が死んだか……」
元頼は、湯を啜りながら静かに言った。
「理由はどうあれ、退いた。それが事実だ。今は、それを受け止めよう」
三宅主膳が頷いた。
「ともかく、これで一息つけますな。これで盛り返せます」
新谷内記が、拳を握りながら言った。
「そうです、正義は我らにある。輔頼の退却を知れば、参戦を躊躇していた者たちも、我らに傾くでしょう」
朝倉頼房が笑った。
「そうじゃ。輔頼の威光は落ちた。今こそ、越智家を正す時!」
元頼は、朝の光が差す障子を見つめながら、静かに頷いた。
「……ならば、次は我らが動く番だ。正若丸様と志乃殿の無念を、忘れてはならぬ」
三宅主膳が深く頭を下げた。
「承知いたしました。殿の御意に従い、越智家の正統を取り戻しましょう」
砦の外では、雨に濡れた松の枝が、朝の風に揺れていた。
その揺れは、越智家の未来を告げているようにも見えた。
※※※※
1540年7月初旬。
朝の霧がまだ庭に残る頃――楠予家の屋敷に、ひとりの男が現れた。
旅装のまま、門番に名を告げると、すぐに奥の間へ通された。
「元頼様よりの密使でございます」
男は、懐から油紙に包まれた文を取り出し、源左衛門に差し出した。
源左衛門は無言でそれを受け取り、ゆっくりと開く。
文には、こう記されていた。
【越智家の正統な当主として命ず。
輔頼が治める東の飛び地、古川村・氷見村を接収せよ。
兵を出すは今。時を逃すな】
源左衛門は目を閉じ、しばし沈黙した。
やがて、文を机に置き、家臣たちに目を向ける。
「……輔頼を討つことは、叶わぬか」
源太郎が静かに言った。
「密使にはなんと?」
「輔頼の治める東の飛び地を攻めよとあった」
玄馬が頷いた。
「なるほど古川・氷見は、輔頼の直轄地。ここを押さえれば、動揺するでしょう」
又衛兵が拳を握りしめた。
「直接討てぬのは、歯がゆいが……これも戦よ。正義は我らにある」
兵馬が笑いながら言った。
「氷見・古川を押さえれば我らの勢力は一気に広がる、これは好機です!!」
その場にいた次郎は、口を開かなかった。
皆の言葉が、遠くの音のように聞こえる。
彼の心は、国分寺城にいた。
西にいるお澄――政略結婚で輔頼の妻となった少女。
彼女の笑顔、声、そして「次郎」と呼ぶあの声。
今、自分は東へ向かう。
彼女から遠ざかる。
それが「正義」なのか、「忠義」なのか――答えは出ない。
次郎は、庭の松の葉が風に揺れるのを見つめながら、
胸の奥に、言葉にならないやるせなさを抱えて。
※※
鍛冶場の空気は、出陣に備えて鉄と炭の匂いで満ちていた。
火床の赤が壁を揺らし、槌の音が律動のように響く。
次郎は黙々と槍の穂先を研ぎながら、弟子の弥八と庄吉に目配せした。
「三十本まであと七本。柄の接合、急げ」
「はいっ!」
弥八が汗を拭いながら返事をし、庄吉は鉄輪の位置を微調整していた。
三間槍――三間(約5.4メートル)の長さを持つ新型槍。
敵の突撃を封じ、隊列の壁となる武器。
次郎はそれを、旧式の槍隊に配備するため、昼夜を問わず鍛冶場に籠もっていた。
そのとき、戸口の障子が開いた。
「次郎、手を止めるな。客だ」
又衛兵が現れ、隣には一人の少年を立たせていた。
年の頃は十四、五。髪は整えられ、着物の襟元には楠予家の家紋が刺繍されている。
「この者、楠予光継。本人の希望で、お前の弟子にしてほしいと申しておる」
次郎は槌を止め、火床の赤に照らされた顔を上げた。
光継は一歩前に出て、深く頭を下げる。
「次郎様の槍に感銘を受けました。どうか、鍛冶の技を学ばせてください」
声は澄んでいた。礼儀も整っている。だが、どこか浮世離れした気配があった。
次郎は一瞬、言葉を探したが、やがて静かにうなずいた。
「よろしい。弥八、庄吉の作業を見て、柄の接合から始めよ」
光継は「はい」と答え、弟子たちのもとへ向かう。
その背を見送りながら、次郎は又衛兵に目を向けた。
「……何か、あるのか?」
又衛兵は火床の赤に照らされた顔を少しだけ硬くした。
「光継は楠予の本家筋だ。絶対に粗略に扱うな。命令だ」
次郎は眉を動かしたが、何も言わず、ただうなずいた。
火床の火が、再び槍の穂先を照らす。
次郎は槌を握り直し、鉄を打つ音を再開した。
その音の向こうで、光継が庄吉に柄の角度を尋ねていた。
その姿は、まるで何かを隠すように、静かで、整っていた。