25 元頼軍の敗走
1540年6月下旬。福成寺。
楠予軍が池田を出発し、北西の国分寺城に向かう途中、福成寺に本陣が置かれた。
本堂には、夕陽が差し込み、障子越しに赤く染まる光が、楠予家の男たちの顔を静かに照らしている。
戦支度のまま座す彼らの間に、言葉はなかった。
越智元頼の軍に合流すべく、国分寺へ向かう途上での一泊。
だが、その静けさは、突如として破られる。
「……元頼様、敗れました!」
息を切らした報せ役が、土間を駆け上がる。
「輔頼軍、朝倉砦を包囲しつつあり……元頼様は退却されました!」
本堂に沈黙が落ちる。誰もが言葉を探しあぐねていた。
楠予源左衛門は、ゆっくりと立ち上がる。年齢よりも重く見えるその背は、村と家を背負ってきた年月の重みそのものだった。
「……退く。」
低く、確かな声だった。
「命を無為に散らすな。屋敷へ戻る。」
その言葉に、兵馬が立ち上がった。三男らしい激情が、声に滲む。
「父上!ここで退けば、輔頼の思う壺ではござらぬか!」
次男の玄馬が、兵馬の肩を制するように手を伸ばす。
「兵馬。今は守るべきものを見誤るな。屋敷が落ちれば、我らの根が絶える」
源太郎は、父の言葉に静かにうなずいた。
「父上の判断は正しい。ここで踏みとどまれば、兵は疲弊し、次の布陣も叶わぬ。」
又衛兵は、場の空気を変えるように笑った。
「退くなら退くで、道中の敵は俺が蹴散らしてくれるわ!」
友之丞は、障子の外を見つめながら呟いた。
「国分寺の戦は、もはや戦略ではなく感情の域に入っている。輔頼はそれを読んでいる」
そのとき、次郎が一歩前に出た。
「明日……退却の道、私が先導します」
(早く帰ろう、俺達は弱小勢力なんだから、こんなとこにいたら殺される!)
源左衛門は、次郎を見つめた。長い沈黙ののち、わずかにうなずく。
「……頼む」
その言葉を合図に、男たちはそれぞれの役割を胸に立ち上がった。
夕陽は、山の端に沈みかけている。福成寺の鐘が、遠くで鳴った。
※※
次の朝、退却の道は、静かだった。
福成寺を発った楠予家の一行は、山道を南へと進んでいた。兵二百を率いる隊列は、規律正しく、だがどこか重苦しい空気を纏っていた。敗戦の報せがもたらしたのは、ただの撤退ではない。家を守るための、苦渋の選択だった。
源左衛門は馬上にあった。寡黙なまま、前を見据えている。
その背に、源太郎が控え、次男・玄馬が地図を広げて進路を確認していた。
三男の兵馬は後方の警戒に回り、四男の友之丞は地形を読みながら進軍速度を調整していた。又衛兵は、先頭の斥候と共に道を探っていた。
そのときだった。竹林の向こうから、斥候の一人が駆け戻ってきた。
「報せです! 大野虎道と国安利勝の兵が、道を塞いでおります! 旗印は……輔頼軍!」
隊列がざわついた。兵たちの間に、動揺が走る。
「虎道め……昨日まで酒を酌み交わしていたではないか!」
又衛兵が叫ぶ。拳を握りしめ、馬を蹴ろうとする。
「待て」
玄馬が制した。目は冷静に、状況を見ている。
「寝返りだ。輔頼は、金か地位か、何かを餌にした……」
「……わしの決断が遅すぎたか。」
源左衛門が、初めて声を漏らした。
その声には、悔いとも怒りともつかぬ、深い痛みが滲んでいた。
源太郎が前に出る。
「父上、ここは一度、布陣を整えましょう。敵は同数、地形はこちらに利があります。」
玄馬が即座に応じる。
「兵を二手に分け、中央突破を図る。次郎、右の崖道を使え。屋敷へ急げ」
次郎は、短くうなずいた。
「わかりました」
兵馬が剣を抜いた。
「ならば、俺は左から突く。虎道の首、俺が取る!」
友之丞は、兵の動きを見ながら呟いた。
「裏切りは、戦よりも深く人を裂く……」
源左衛門は、馬から降りた。地に足をつけ、兵たちを見渡す。
「……守り抜け。民を、家族を」
その言葉に、兵たちは静かにうなずいた。
夕陽はすでに沈み、山道には夜の気配が忍び寄っていた。
戦は、始まろうとしていた。
※※
山道に布陣した楠予軍二百は、大野・国安連合軍二百の猛攻に晒されていた。
大野虎道と国安利勝が率いる兵は、地の利を活かし、竹林の狭間から矢を放ち、槍を突き出してくる。楠予軍は防戦一方。兵の顔には疲労と焦燥が滲んでいた。
前線では、友之丞が槍隊を率いていた。
彼の隊は、三十の槍兵を三列に並べ、理知的な布陣で応戦していたが、地侍の突撃に押され始めていた。
「崩れるな! 間合いを保て!」
友之丞の声が響く。しかし、敵の勢いは止まらない。
大野虎道の軍が、側面から回り込み、槍隊の陣形を崩した。
「下がれ! 下がれ!」
叫ぶ声とともに、楠予軍の槍兵たちが後退を始める。
陣の一角が崩れた。楠予軍に敗走の気配が広がる。
そのときだった。後方に控えていた予備隊の中から、三十の槍兵が動いた。
三間槍――三間(約5.4m)の長槍を操る新部隊。その指揮官は、次郎だった。
「前へ! 間合いを取れ! 突け!」
次郎の声が、崩れかけた戦場に鋭く響いた。
(嘘だろ、なんで俺が戦うんだよ。友之丞の奴、負けてんじゃねえよ。お前ら頑張れ、俺に絶対に近づけるな!)
三間の長槍の列が、まるで波のように押し寄せる。
敵の突撃は、三間の距離を詰めきれず、次々と槍に貫かれた。
「押せ! 押し返せ!」
(俺に近づけるな! 振りじゃないぞ!)
次郎の隊が前線を押し戻す。
友之丞の隊は再編され、崩れた陣形が立て直される。
戦況が、わずかに楠予側へと傾いた。
その瞬間、後方の騎馬隊が動いた。
又衛兵が率いる十騎の騎馬隊。彼は、敵の布陣に生じた間隙を見逃さなかった。
「今だ……突っ込むぞ!」
源左衛門の指示はなかった。だが、又衛兵は迷わなかった。
騎馬隊は、竹林の斜面を駆け上がり、敵の側面へと突入した。
「突けぇぇぇッ!」
国安・大野連合軍は、予想外の突撃に混乱した。
騎馬隊の突入は、敵の指揮系統を断ち、陣形を崩壊させた。
「大野虎道が下がったぞ!」
「国安軍も、退いている!」
楠予軍の兵たちが叫ぶ。
源左衛門の目が見開いた。
「今だ! 全軍突撃!!」
楠予軍が一斉に前進する。
戦況は、完全に逆転した。
地面には折れた槍、落ちた兜、血に濡れた旗が散乱していた。
次郎は三間槍を地に突き立て、息を整えた。
(……終わった。俺、死んでない。よかった……)
友之丞が駆け寄ってくる。
「次郎! お前の隊がいなければ、俺の陣は崩れてた。礼を言う」
「そんな友之丞様、礼など無用です」
そこに源左衛門も現れる。
「次郎。お前の三間槍隊、見事であった。
その技術、その布陣――楠予家の新たな力じゃ」
次郎は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ですが、俺は……戦の道具を作っただけです」
源左衛門は頷いた。
「謙遜するでない、そなたの指揮は見事であった」
その言葉に、次郎の胸がわずかに熱くなった。
竹林の向こうでは、夕陽が差し始めていた。
戦の終わりを告げるように、風が静かに吹き抜ける。
そして、誰も知らなかった。
この戦いは始まりに過ぎず、さらに激化して行く事を。