23 お澄の結婚
1540年3月中旬
次郎は、村上水軍の屋敷からの帰路を急いでいた。
望遠鏡の作成に成功し、楠予家に新たな力をもたらせる――そう信じていた。
屋敷に戻ると、門番の権蔵が出迎えた。
「次郎、戻ったか。……お澄様の婚礼が決まったぞ」
次郎は足を止めた。
「……え?」
権蔵は、次郎の顔を見つめながら言った。
「四月だ。急だが、輔頼殿との婚だ。楠予家も承知した」
次郎の手から、空の小箱が滑り落ちた。
菜の花の黄色が、地面に広がっていた。
「なぜ……そんなに急ぐんですか」
権蔵は、春の風に髪を乱しながら答えた。
「越智家を分裂させないためだ。御屋形様の血を引く、正若丸様を守らねばならん」
次郎は、何も言えなかった。
望遠鏡の成功で見えた未来が、遠ざかっていくようだった。
その夜、彼はお澄の部屋の灯が消えるのを、遠くから見ていた。
春の陽が、庭の白梅を照らしていた。
屋敷の中では、婚礼の準備が進んでいた。
※※※
1か月後。1540年4月15日 お澄の婚礼の日
次郎は、誰にも告げずに屋敷の裏手に立っていた。
懐には、島吉利と夢を語った望遠鏡と、母が昔くれた小さな包みがあった。
「誕生日には、夢のある未来を見なさい」――そう言われた日を思い出していた。
その夢みた未来が、今まさに遠ざかっていく。
お澄は、紅を差し、白い衣を纏っていた。
その姿を見た次郎は、声をかけることができなかった。
「今日が……俺の誕生日だなんて、誰も知らない方がいい」
次郎の14歳の誕生日に、お澄の婚礼の太鼓が鳴った。
次郎は、鏡筒を地面に置き、静かに背を向ける。
風が吹き、白梅の花が一輪、鏡筒の上に落ちた……。
※※※※※
1540年4月下旬。 楠予屋敷の畑。
畑の土は、春の陽に温められていた。
男爵芋の芽が、地表に顔を出し始めている。
次郎はしゃがみ込み、芽の並びを確認していた。
「……出てきたな。よく耐えた」
芽はまだ小さいが、力強く土を押し上げている。
切られ、分けられ、埋められた芋が、春を信じて芽吹いたのだ。
そのとき――
「ねえ、なにしてるの?」
小さな声が背後から届いた。
振り返ると、薄紅の着物に袖を引きずりながら、お琴が立っていた。
「お琴様……お一人で?」
「ううん、母上とお散歩してたの。あれ、土が割れてるよ?」
次郎は微笑み、芽の出た芋を指さした。
「これはね、種芋です。冬の間、土の中で眠っていたけれど、春になって目を覚ましたんです」
お琴は目を丸くした。
「おいもって、ねむるの?」
「ええ。寒い間はじっとして、暖かくなると芽を出す。人も、春になると元気になりますからね」
お琴はしゃがみ込み、芽にそっと指を伸ばした。
その指先は、まだ幼く、柔らかかった。
「この子、がんばったんだね」
次郎は、言葉に詰まった。
その一言が、なぜか胸に響いた。
「……はい。とても、がんばりました」
そのとき、畑の端にお琴の母まつが現れた。
優しい目元に、少しだけ疲れの色が滲んでいる。
「お琴、あまり土に触れてはなりませんよ。次郎殿、お手間を取らせてしまって」
「いえ。お琴様は、芽の力を感じておられました。むしろ、私の方が教えられたような気がします」
まつは微笑み、娘の頭をそっと撫でた。
「この子は、まだ何も知りません。でも、芽吹くものには心を寄せるようです」
次郎は、芽の並びを見つめた。
その先に、お琴の未来があるような気がした。
「この畑も、やがて花を咲かせます。お琴様が大きくなられる頃には、もっとたくさんの実をつけるでしょう」
お琴は立ち上がり、次郎の袖をそっと引いた。
「じゃあ、わたしも芽になる。がんばって、きれいなお花になるの」
次郎は、少しだけ目を伏せた。
「ええ。きっと、なれます」
春の風が吹き、梅の枝が揺れた。
その下で、小さな芽と、小さな未来が、静かに息づいていた。
※※※
二カ月後。国分寺の越智輔頼の屋敷。
お澄は、腹痛に悩まされ、薬を求めて奥座敷の近くを通った。
障子の隙間から、灯の揺らぎが見えた。
「……懐妊する前に手を打て。正若丸とその母ともに、だ」
「楠予家の血は不要。楠予家の鏡筒の技術だけが残ればよい」
お澄は、足を止めた。
言葉が、春の夜風に乗って、耳に届いたのだ。
障子の陰で、彼女は震える。
その夜、お澄は筆を取り、父に文をしたためた。
「輔頼様は、楠予家の血を断とうとしています。
私は、楠予家のお役に立てませんでした。
どうか、楠予家を守ってください。 お澄」
※※※
1540年6月初旬。楠予屋敷の畑。
畑の端に、お琴とまつが並んで立っていた。
春に見た※畝を、お琴はじっと見つめている。
「これ……どんな作物がとれるの?」
お琴がぽつりとつぶやいた。
まつは首をかしげて、葉の形を見つめる。
「さあ……わたしも、詳しくはないの。春に芽が出ていたのは覚えてるけれど」
そのとき、背後から足音が近づいた。
「男爵芋です。春に植えたものが、今ちょうど収穫期で」
次郎だった。
まつが振り返って微笑む。お琴は葉をそっと触りながら言った。
「ちっちゃい葉っぱ。こんなに大きくなったの?」
次郎は隣に立ち、しゃがんで土を少し掘った。
指先が、丸い芋に触れる。
「よかったら、収穫してみますか?」
まつがそっとお琴の背を押す。
「掘ってごらん」
お琴はしゃがみ、次郎の手を真似て土を掘る。
指先に、冷たい土と、芋の感触が伝わる。
「……かあさま、おっきい!」
まつはそっと笑った。
お琴の手の中には、春の記憶よりもずっと重たい、夏の実りがあった。
※※※※
次郎は、源左衛門を鍛冶場に招き、
籠を抱えて源左衛門の前に進み出た。
「春に植えたあの男爵芋から32個の芋が取れました」
源左衛門は、籠の中を覗き込み、目を見開いた。
「32……。たった1つの芋が本当に32個になったのか?」
「はい。水はけを調整し、土を深く掘りました」
次に次郎は隣の部屋へと源左衛門を誘った。
「もう一つご報告がございます」
「この布の下にある物か?」
「はい、こちらは、麦の脱穀に苦しむ農民のために、
わたしが考えた千歯扱きと言う器具です」
次郎は、布を外し、木製の歯車と竹の歯を組み合わせた道具を見せた。
「これなら、子どもでも使えます。歯を替えれば、芋の皮も剥けます」
源左衛門は、しばらく沈黙した後、笑みを浮かべた。
「……お前の技術は、また民の負担を軽くするな」
「はい、この道具を使えば一人で一日に三十束の脱穀ができます」
「三十束を一日で? それは……三人分の働きではないか」
源左衛門について来た家臣たちがざわめく中、次郎は深く頭を下げた。
畝の説明文
畝とは、畑の土を細長く盛り上げて作った植え付け用の列である。
地面より高くすることで、水はけを良くし、根腐れを防ぐ。
また、通気性が増すことで、芽の成長を助ける効果もある。
畝の間には溝(畝間)があり、雨水が流れやすくなるよう設計されている。




