22 次郎の夢
1540年2月中旬。 池田の鍛冶場。
昼下がり、鍛冶場の屋根に陽が差し込む。
炉の火は静かに燃え、鉄の匂いと煤が空気を満たしていた。
次郎は黙々と砥石を回していたが、外から馬の蹄の音が聞こえた。
馬の背には、二つの袋が括りつけられていた。
袋の中には、小箱が三つずつ。箱の中には、藁に包まれた水晶が静かに収まっている。
商人は手綱を引きながら、馬の歩調を常に一定に保っていた。
「急ぐな。割れたら売り物にならん」
馬は静かに歩を進め、袋の中で水晶が微かに揺れた。
その揺れは、まるで星の瞬きのようだった。
やがて鍛冶場の入口に一人の商人が現れた。
「村上家の命で、水晶を届けに参りました」
馬の背から袋を一つ取り、中から黒漆の小箱を取り出す。
次郎は手を止め、箱を受け取る。
重さは、鉄とは違う。中にあるのは、冷たい沈黙だった。
箱を開けると、布に包まれた大きな水晶がひとつ。
光を受けて、淡く青白く輝いていた。
炉の火が、その光に嫉妬するように揺れる。
「すごいな…これなら十五倍の望遠鏡も作れるぞ…」
次郎は呟き、布をほどいたまま、感動で動けなかった。
水晶の光が、彼の目を捉えたまま離さない。
商人はその様子を見て、眉をひそめた。
一歩踏み出しかけたが、言葉を飲み込んだ。
「……」
しばらくの沈黙。炉の火が、ぱちりと音を立てる。
商人はそっと袋をもう一つ馬の背から下ろし、入口の脇に置いた。
「では、これにて失礼いたします」
一礼し、馬の手綱を引いて踵を返す。
馬の蹄が、鍛冶場の前を静かに離れていく。
そこで、ようやく次郎は水晶を置き、外に出た。
だが商人は振り返らず、ただ風の中に消えていった。
※※※※
1540年 3月初旬。楠予家の屋敷。
朝の光が、屋敷の障子を淡く照らしていた。
次郎は膝をつき、漆塗りの箱を静かに差し出した。
源左衛門は箱の蓋を開け、中を覗き込む。
中には、黒い鏡筒と、淡く光る水晶のレンズ。
「これが……十五倍の望遠鏡か?」
御屋形様の声は低く、しかし確かに驚きが滲んでいた。
次郎は深く頭を下げた。
「はい。水晶の到着から20日、ようやく形になりました」
一拍置いて、次郎は顔を上げる。
「初回は、火と砥石の扱いに迷いました。ですが、道は見えました。
やがては、五日ほどで作れるようになるかと存じます」
源左衛門は望遠鏡を手に取り、障子の向こうに目を向けた。
「どれ本当に遠くが見えるか、山で試してみるか……」
源左衛門は望遠鏡を持ち上げ、障子を開け放った。
朝の光が差し込み、庭の梅が一瞬揺れる。
源左衛門はゆっくりと鏡筒を目に当て、遠くの山を捉えた。
その瞬間、息を呑む。
「……見える。見えるぞ。あの尾根の向こう、杉の一本一本まで……」
声は低く、しかし震えていた。
次郎は黙って控え、源左衛門の沈黙を待つ。
「人がいる。……いや、旗か? 赤い……いや、朱か……」
源左衛門は望遠鏡をわずかに動かし、焦点を合わせ直す。
その手は、武将のものとは思えぬほど繊細だった。
「これは……戦の前に、敵の陣形を見通せるぞ!」
次郎は静かに頷いた。
「はい。風の向き、馬の数、旗の色――すべて、見えます」
源左衛門は望遠鏡を下ろし、しばし黙した。
庭の梅が、風に散り始めていた。
「……これは、戦を変えるぞ」
彼の目は、遠くの山ではなく、もっと遠い何かを見ていた。
※※※
1540年3月中旬 能島・村上水軍の屋形
潮の満ちる音が、岩場を叩いていた。
能島の入り江に、小舟が静かに滑り込む。
次郎は舟から降り、漆塗りの箱を抱えて石段を登った。
海風が強く、梅の香りはもう消えていた。
屋形の間に通されると、島吉利が待っていた。
その眼差しは鋭く、波を読む者のそれだった。
「楠予家からの贈り物と聞いたが……もしや」
次郎は膝をつき、箱を差し出す。
「はい。十五倍の望遠鏡――完成いたしました」
「なんと!!」
島吉利は箱の蓋を開け、鏡筒を手に取った。
その重みと冷たさに、一瞬だけ眉を動かす。
「このような物で……本当に海の向こうが見えるのか?」
次郎は頷いた。
「船の帆の数、旗の色、火薬の煙――すべて、見えます。
潮の流れと風の向きも、遠くから読めましょう」
島吉利は立ち上がり、屋形の縁に出た。
遠く、来島の方角に目を向ける。
望遠鏡を覗いた瞬間、彼の呼吸が止まった。
「……見える。あの岬の先、白帆が三つ……いや、四つか」
彼は鏡筒を下ろし、次郎を見た。
その目には、戦略家の光が宿っていた。
「これは夢のような道具じゃ……潮を読むだけでは足りぬ時代が来るかもしれんな」
次郎は静かに言った。
「私の夢は、村上様は海で、御屋形様には陸で天下を取って頂くことです」
島吉利は笑った。
短く、しかし深い笑みだった。
「ふっ、夢じゃな、だがよい夢じゃ。見るとしよう。海の向こうに広がる、大きな夢をな」
※※※
余談:
数か月後・島吉利は戦場にいた。
霧が海を覆い。白く、厚く、音さえも吸い込むような朝。
波の気配はある。だが、目には何も映らない。
島吉利は高台に立ち、次郎から貰った鏡筒を静かに持ち上げた。
磨かれた金属が、朝の光を受けて鈍く光る。
彼の目が鏡筒を覗き込むと、霧の向こうに、わずかな影が揺れていた。
「……来るぞ」
その声に、背後の小西十兵衛が身を強張らせた。
「はっ、何か……見えるのでございますか?」
島吉利は答えず、鏡筒をわずかに動かした。
「三里先。岬を回っている。船影が六。帆の形……備後の小早だな」
十兵衛が息を呑んだ。
「この霧の中で、そこまで……」
「風は北東。潮は引き始めている。あと一刻で、ここに着く」
島吉利は鏡筒を下ろし、海を見つめた。
その目には、戦略家の光が宿っていた。
彼は振り返り、短く命じた。
「火矢を南の崖に。伏兵は潮の引き際に合わせて動け。敵は、霧を盾にしてくる」
十兵衛はすぐに駆け出した。
誰もまだ敵を見ていない。
だが、島吉利の声には確信があった。
風がわずかに向きを変えた。
北東から吹き下ろす風が、海面の白を裂くように流れ始める。
その瞬間だった。
「……見えた!」
高台の兵が叫んだ。
霧の向こうに、黒い影が揺れていた。
船だ。六艘。
帆を張り、潮に乗って、まっすぐこちらへ向かってくる。
「備後の小早……殿のお見立て通りだ!」
小西十兵衛が息を呑んだ。
ほんの一刻前まで、誰も信じていなかった。
だが今、霧の裂け目から現れた敵船は、まさに島吉利が告げた通りの数、形、方角だった。
島吉利は動じない。
鏡筒を下ろしたまま、海を見つめていた。
「火矢、放て」
その声は低く、しかし海よりも深く響いた。
南の崖から、火矢が放たれる。
空を裂くように赤い軌跡が走り、霧の中の敵船へと落ちていく。
敵船が慌てて帆を引き、舵を切る。
だが、潮は引き始めていた。
伏兵が動き、海岸の岩陰から弓兵が現れる。
小西十兵衛は、ただ見つめていた。
霧の中から現れた敵。
その動きを、すでに読んでいた主君。
そして、たった1つの鏡筒が、戦を変えた瞬間だった。
「……殿は、海を見ておられるのではない。時代の先を見ておられるのだ」
十兵衛の呟きは、誰にも聞かれなかった。
だがその言葉は、霧の向こうで始まった新しい時代の胎動を、的確に捉えていた。