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20 お澄の婚約

  1540年2月初旬


 雪は止み、庭の梅がわずかに色づき始めていた。

 池田の楠予屋敷に、三宅主膳が訪れたのは昼過ぎのことだった。


 源左衛門は火鉢の前に座り、源太郎は控えの間から現れた。

 三宅は静かに一礼し、腰を下ろすと、懐から文を取り出した。


「輔頼様より、楠予家に申し出がございます。

 一つ、正若丸様の後見は輔頼が引き受け、

    正若丸様を当主として越智家の安定を図ること。

 一つ、楠予家の娘・お澄殿を娶り、楠予家との和を結ぶこと」


 火鉢の炭が、ぱちりと音を立てた。


 源左衛門は文を受け取らず、ただ目を閉じていた。

 源太郎は、言葉を失ったまま、三宅の顔を見つめていた。


「輔頼殿は、武も切れるが、頭も切れるようじゃ…」


 三宅は頷いた。


「越智が割れては、民が苦しみます。

 輔頼様はそれを避けるため、正若丸様の正統を認め、後見人として支える道を選ばれました。

 楠予家との縁組は、その誠意の証と申されております」


 源左衛門は、火鉢に炭を寄せながら言った。


「……越智の柱を支えるために、娘を差し出すか。

 それが、家の務めというならば、致し方あるまい」


 源太郎は、拳を膝に置いたまま、目を伏せた。


「お澄は……まだ何も知らぬ小娘です」

 三宅主膳は、源太郎の言葉に目を細めた。


「されど、娘は家の道具。

 その心が揺れようとも、家の意志が揺らいではなりませぬ。

 源太郎殿、お澄殿の心を導くのは、そなたの役目でもありましょう」


 広間に沈黙が落ちた。

 火鉢の炎が、静かに揺れていた。




※※※



お澄は几帳の前に膝を揃え、白地の布に針を通していた。

細い糸が、布の端をなぞるように縫われていく。


襖が静かに開き、源太郎が入ってきた。

お澄は針を止め、顔を上げた。

「兄上。お昼は召し上がられましたか?」


源太郎は答えず、几帳の前に座った。

その顔に、いつもの穏やかさはなかった。

「……お澄。話がある」


お澄は針を布に刺し、針箱の蓋をそっと閉じた。

正座し直し、兄の顔を見つめる。

源太郎は懐から文を取り出すと、それを膝に置いたまま、目を伏せた。

「氷見古川の輔頼殿より、申し出があった。

 正若丸様の後見を引き受け、越智家を支えると。

そして……楠予家との縁組を望まれている」


お澄は、兄の言葉の意味をすぐには理解できなかった。

眉を寄せ、静かに問い返した。

「え……縁組、とは……私のことですか?」


源太郎は頷いた。

お澄は、針箱に目を落とした。

蓋の隙間から、糸巻きが少し覗いていた。

「私は……輔頼様に嫁ぐのですね」


源太郎は、言葉を探すように口を開いた。

「お澄。これは家のための決め事だ。

越智が割れれば、民が苦しむ。

輔頼様は、正若丸様を支えることで、争いを避けようとしている。

その誠意として、楠予家との縁を望まれている」


お澄は、静かに頷いた。

その顔に、涙はなかった。

「……兄上は、私が嫁ぐことに、賛成なのですか?」


源太郎は、初めてお澄の目を見た。

その瞳に、幼い頃と変わらぬ真っ直ぐさがあった。

「賛成ではない。だが……家の務めだ。

私は、お前の心を守りたい。

だがそれ以上に、家を守らねばならぬ」


お澄は、針箱の蓋に手を添えた。

その指先が、少し震えていた。

「……わかりました。私は、楠予家の娘です。家のために、嫁ぎます」


源太郎は、何も言えなかった。

ただ、几帳の向こうの梅が、風に揺れていた。




※※※※


針箱の蓋を閉じたまま、お澄はしばらく動けずにいた。

几帳の向こう、梅の枝が風に揺れている。


その一輪だけ色づいた花が、目に焼きついて離れなかった。

「嫁ぐのですね……私が」


誰に言うでもなく、声が漏れた。

膝の上に置いた手が、少しだけ震えていた。


針仕事の布が、まだ膝の脇に残っていた。

お澄は、そっとそれを手に取り、指先が糸の流れをなぞる。

「……次郎」


その名を口にした瞬間、胸の痛みが、少しだけ輪郭を持った。

それは、寂しさに似ていた。

「私は……次郎のことを、どう思っていたのでしょう」


針先が、布をすっと貫いた。

その動きは、少しだけ迷いを含んでいた。

「……私は、次郎が好きだったのでしょうか。

次郎のことを思うと、胸が……痛いです」


几帳の向こう、梅の枝がまた揺れた。

その一輪の花が、風に耐えるように咲いていた。

お澄は、梅の刺繍を縫い進めながら、初めて自分の心に芽吹いたものの名を探していた。



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