21 お琴
1540年2月初旬
庭の梅が、風に揺れていた。
その枝の先に、一輪だけ色づいた花が咲いているのを、次郎は縁側から見ていた。
楠予家の広間では、三宅主膳が去った後の静けさが残っていた。
源太郎は父と話し込んでいる。
次郎は、控えの間に戻るよう言われたが、なぜか足が動かなかった。
ふと、几帳の向こうに人影が見えた。
お澄だった。
針仕事の布を膝に置き、じっと何かを見つめている。
声をかけようとして、次郎は言葉を飲み込んだ。
いつもなら、彼女は針を動かしながら、兄に話しかけたり、庭の花の話をしたりしていた。
だが今は、まるで布の向こうに何かを探しているようだった。
次郎は、几帳の隙間から彼女の横顔を見た。
その目は、どこか遠くを見ていた。
針先が、布を貫くたびに、彼女の指がわずかに震えているのがわかった。
(……お澄様)
声にはならなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ痛んだ。
何が変わったのか、次郎にはわからなかった。
それは、次郎にとって初めての感情だった。
彼女の沈黙が、なぜか自分の心をざわつかせる。
彼女の目が、なぜか自分の胸を締めつける。
次郎は、何も言わずにその場を離れた。
ただ、心の奥に残った痛みが、何なのかをまだ知らなかった。
※※※※
翌日。
畑の土はまだ冷たく、鍬の刃が浅くしか入らなかった。
次郎は1つの男爵芋を3つに切り、種芋を土に植えていた。
小さな芽が、まだ眠っているように見える。
風が吹くたび、梅の枝が揺れ、遠くで鳥が鳴いた。
春はまだ遠いが、土の中では何かが動き始めている。
「……次郎様」
背後から声がした。
振り返ると、お澄が几帳をくぐり、庭に出てきていた。
薄紅の羽織に、白い手がのぞいている。
「お澄様。お寒いのに、外へ?」
次郎は立ち上がり、手についた土を払った。
お澄は微笑を浮かべ、畑の畔に立った。
「次郎様が畑に出ているのを見て……少し、会いたくなって」
次郎は、種芋の並びを見下ろした。
「まだ芽も出ていません。
でも、土の中では、春を待っているのです」
お澄は、畑の端にしゃがみ込み、土に指を伸ばした。
冷たさに少し驚いたように、指先を引っ込める。
「冷たいですね……でも、柔らかい」
次郎は、彼女の横顔を見つめて心が痛んだ。
「お澄様。輔頼様と婚約されるのですね」
「っ!!」
お澄の指先が、土から離れたまま震えていた。
次郎の言葉が、春の風よりも冷たくお澄の胸を打った。
「……誰から、聞かれたのですか」
お澄は、顔を上げずに言った。
その声は、梅の枝に触れる風のようにかすかだった。
「源太郎様から。越智家の使者が来たと」
次郎は、種芋の並びを見つめたまま、拳を握った。
土に埋めたばかりの芋が、何かを語りかけてくるようだった。
「お澄様が……遠くへ行かれるのなら、私は……」
言葉が続かなかった。
お澄は、静かに立ち上がり、次郎の前に立った。
「次郎、私は行きたくありません」
次郎は、目を見開いた。
お澄の瞳は、冬の空のように澄んでいた。
「でも、私が行かねば、兄も、家も……守れません」
次郎は、何も言えなかった。
ただ、彼女の言葉が、土の冷たさよりも深く胸に染みた。
「次郎。芽は、出ますか?」
お澄は、畑の土を見つめながら言った。
「切られて分けられても。土に埋めれば……芽は、出るのでしょうか」
次郎は、埋めたばかりの芋を見つめた。
芽が出るかどうかは、土の温もりと、信じる心にかかっている。
次郎は拳を握りしめた。
「出ます。たとえ…切られ、傷つき、分けられようとも。……信じていれば、必ず…」
お澄は何も言わなかった。
ただ、梅の枝が揺れ、一輪の花が静かに落ちた。
その花びらが、畑の土に舞い降りるのを、二人は黙って見つめていた。
※※※※
楠予家嫡男・源太郎視点
几帳の陰に身を潜めながら、源太郎は庭を見つめていた。
畑の向こうに、次郎とお澄の姿があった。
次郎は拳を握りしめていた。
その声が、風に乗って届いてくる。
「出ます。たとえ…切られ傷つき、分けられようとも。……信じていれば、必ず…」
源太郎は、息を呑んだ。
その言葉が、まるで自分の胸を貫いたようだった。
お澄は何も言わなかった。
ただ一輪の花を二人で黙って見つめていた。
源太郎は、拳を握った。
妹の表情は見えなかったが、次郎の目は、確かに彼女を見ていた。
それは、家臣の目ではなかった。
それは、男の目だった。
「……次郎」
源太郎は、心の中で名を呼んだ。
その名に込めたのは、怒りではなかった。
迷いだった。
妹を越智輔頼に嫁がせることで、家は守られる。
だが――その代償は、あまりに大きい。
源太郎は、几帳の陰からそっと身を引いた。
※※※
次の日。
朝の座敷で障子越しに差し込む光が、畳の縁を淡く照らしていた。
源左衛門は、湯を啜りながら、庭の梅を見ていた。
「父上……少し、よろしいでしょうか」
源太郎が、静かに座敷へ入った。
その顔には、昨夜の迷いがまだ残っていた。
源左衛門は湯呑を置き、息を吐いた。
「越智からの使者の件か」
源太郎は頷いた。
「はい。お澄を、越智輔頼に嫁がせることで、我が家は安泰となる。
それは、理ではあります。ですが……」
源左衛門は、息を止めたまま、息子の顔を見つめた。
「だが、心が理に従わぬか」
源太郎は、拳を握った。
「昨夕、次郎とお澄が庭で言葉を交わしておりました。
お澄は……行きたくないと申しました。
次郎は……彼女の痛みに、真っ直ぐ向き合っておりました」
源左衛門は、目を閉じた。
「次郎が、我が家に仕えて半年。
その忠義と才は、誰よりも信じておる。
だが、家臣が婚約の決まった姫に心を寄せることは、許されぬ」
「父上の申される通りです、いかが致しますか?」
源左衛門は、庭の梅を見つめた。
一輪の花が、風に揺れていた。
「次郎に嫁を取らせる」
「適当な娘がおりましょうや?」
源左衛門は目を閉じて、しばし考えた。
「次郎はもはや我が家に無くてはならぬ家臣じゃ。そこでわしの世継ぎである、そなたの娘を嫁がせる」
源太郎は、言葉を失った。
目を伏せたまま、拳をほどいた。
※※
昼時に次郎は源左衛門に呼ばれた。
昼の座敷に、障子越しの光が強く差し込んでいる。
源左衛門は、湯を啜るが、その味が、いつもよりも苦く感じられた。
「次郎。こちらへ」
次郎は、静かに部屋へ入った。
「はっ」
源左衛門は、しばし黙して庭を見つめた。
やがて、低く言葉を落とした。
「そなたに、婚約を命ずる」
(えっ! まさかお澄さまと。いやでも…)
次郎は、一瞬に希望を抱いたが、すぐに目を伏せた。
「相手は――お琴。源太郎の娘。四つになる」
次郎は、深く頭を下げた。
「……お琴様?」
次郎の脳裏に楠予家の子供たちの姿が過る。
(あの子かな…)
源左衛門は、湯呑を置いた。
「お琴は、我が家を継ぐ源太郎の娘。
そなたに取っては最高の相手であろう。
その忠義と才を見込んでの事じゃ」
次郎は、拳を膝に置いたまま、動かなかった。
「恐れながら、お琴様は、まだ幼く……」
源左衛門は、静かに言葉を重ねた。
「承知の上だ。今すぐに嫁がせるとは申さぬ。
14となる折、そなたが22を迎える。
その時、婚儀を執り行う」
次郎は、沈黙のまま、庭の梅に目を向けた。
一輪の花が、風に揺れていた。
「この婚約は、我が家の未来を託すもの。
そなたに拒む道は無い。受けよ、次郎」
次郎は、深く頭を垂れた。
「……御意」
障子の向こうで、一つの影が揺れた。
その影はわずかな足音と共に消えた…。
※※※
廊下の端に、お澄は立っていた。
障子の隙間から、座敷の声が漏れていた。
「相手は――お琴。源太郎の娘。四つになる」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
(お琴……私の姪)
お澄は、障子に手を添えた。
指先が、わずかに震えていた。
「この婚約は、我が家の未来を託すもの。
そなたに拒む道は無い。受けよ、次郎」
次郎の声が聞こえた。
「……御意」
その瞬間、お澄は、足を一歩引いた。
影が揺れ、廊下の板がわずかに軋んだ。
(次郎……)
彼の声が、遠くなった。
あの庭で交わした言葉が、胸に蘇る。
お澄は、唇を噛んだ。
(私は、何も言えなかった。何も、守れなかった…)
お澄は、静かに踵を返した。
だがその背に、声をかける者はいない。