19 越智家の分裂
1540年1月初旬。
雪はまだ積もらぬが、空気は刺すように冷たい。
次郎は屋敷の奥座敷に通され、囲炉裏の前に座す源左衛門に深く頭を下げた。
「島吉利殿より、水晶の供給の約束を頂きました。
九州の商人筋にも問い合わせてくださるとのこと。
眼鏡の実用性を喜ばれ、望遠鏡の試作にも期待を寄せておられました」
源左衛門は静かに頷き、火箸で炭を寄せた。
「よくやった。これで水軍と繋がりが持てる。越智家のご主君も喜ばれるだろう。
次郎、お前の働き、実に見事じゃ。約束どおり俸禄を月に1500与える」
次郎は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その時、廊下を駆ける足音が響いた。
襖が開き、家臣の一人が息を切らして頭を下げる。
「御屋形様……急報にございます!
越智頼辰様が……昨年末の矢傷が癒えず、今朝方、息を引き取られたとのこと!!」
囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。
源左衛門の手が止まり、火箸が炭の上に落ちた。
「な……なんと……」
次郎は言葉を失い、ただ源左衛門の横顔を見つめた。
その顔には、驚きと、深い憂いが刻まれていた。
「ご主君が……」
源左衛門はしばし沈黙した後、静かに言った。
「楠予家は、越智家の庇護のもとにある。
その柱が折れたとなれば、我らの立場も揺らぐ」
次郎は深く頭を下げた。
囲炉裏の火が、静かに揺れていた。
その炎は、村の未来を照らす灯であると同時に、風に消えかける命のようにも見えた。
※※※※
報せが届いた翌朝、源左衛門は奥の間に次郎を呼び寄せた。
雪は薄く積もり、庭の松に白く光っていた。
「越智頼辰様が亡くなられた。
だが、我が娘が産んだ御子――頼辰様の嫡男が、まだ生きておる。
齢、二つ。正若丸」
次郎は驚きに目を見開いた。
「御屋形様の……お孫にございますか」
源左衛門は静かに頷いた。
「そうだ。
越智家の血を継ぎ、楠予の血も引く。
この子が家督を継げば、越智と楠予は一つとなる。
だが、家中には頼辰様の弟・氷見と古川村を治める輔頼殿を推す声もある。
年は若いが武に優れておる。
幼子を頂くことに不安を覚える者も多かろう」
次郎は言葉を選びながら問うた。
「正若丸様が継げば、楠予は越智家中にて強き立場となりましょう。
ですが、輔頼殿が立てば……我らは疎まれるやもしれません」
源左衛門は火鉢に手をかざしながら、低く言った。
「我が娘・志乃は、頼辰様の正室であった。
正若丸様こそ、正統の後継。
だが、正統だけでは家は治まらぬ。
次郎、お前には技がある。
その技で、正若丸様の名のもとに広めることができれば――
越智家中も、民も、幼君を支える力と認めるであろう」
源左衛門の力強い眼差しを受け、次郎は深く頭を下げた。
「この次郎、力の限り御屋形様をお支えします」
冷たい風の音がガタガタと木の扉を揺らす。
冬の厳しさが池田の村に訪れようとしていた。
※※※※
1540年1月中旬
越智頼辰の葬儀が終わった数日後、池田の楠予屋敷に密使が訪れた。
源左衛門は嫡男の源太郎を伴い、奥の間でその報告を受けた。
「氷見古川の越智輔頼様が、家中の重臣を集めておられます。
“幼君では国は治まらぬ”と、正若丸様の擁立に異を唱えておられるようです」
源太郎が身を乗り出した。
「父上、これは謀反では?」
源左衛門は火鉢の灰を静かにかき回しながら答えた。
「謀反ではない。まだな。
輔頼は頼辰様の弟。武功もあり、兵も掌握しておる。
家中の者が不安を覚えるのも、無理はない」
密使が言葉を継いだ。
「輔頼様は、正若丸様の母君――楠予の血筋を問題視しておられます。
“外様の血は越智を乱す”と」
源太郎の顔が険しくなった。
「我らは亡き殿に忠節を尽くした、外様扱いは許せぬ!」
源左衛門は目を閉じ、しばし沈黙した。
「……源太郎。
越智は今、揺れておる。
輔頼殿が声を上げれば、耳を傾ける者も出よう。
だが、声が大きければ正しきとは限らぬ。
我らは、静かに、確かに、正若丸様を支える道を選ばねばならぬ」
源太郎は頷いた。
「家中の者を説き伏せるには、時が要ります。
輔頼様が先に兵を動かせば――」
源左衛門は火鉢の縁に手を置いた。
「その時は、我らも動く。
だが今は、言葉を尽くす時だ。
忠義とは、剣のみにあらず。
越智家を守るために、我らが揺らいではならぬ」
源太郎は深く頭を下げた。
「承知しました。
まずは、越智家中の声を集めます。
我らが正若丸様の元に、越智家の意志を揃えましょう」
源左衛門は静かに頷いた。
「よい。
越智家の未来が試されておる。
源太郎、お前がその礎となれ」
※※※※
輔頼側の会議
(1540年1月中旬・越智家の居城)
伊予国分寺の北、越智家の居城――その広間に、重臣たちが集められていた。
越智輔頼は、頼辰の死後も城を離れず、まるで主君の座に就いたかのように振る舞っていた。
広間の中央に座した輔頼は、静かに口を開いた。
「正若丸様は、まだ2つ。
この乱世に、幼君を頂いて何が治まる。
越智の名を守るには、血筋と武が揃わねばならぬ」
一人の老臣が口を挟んだ。
「されど、正若丸様は亡き頼辰様の御嫡男。
御遺言にも、家督は正若丸様へと――」
輔頼は手を上げて遮った。
「遺言は、情である。
だが、国は情では治まらぬ。
成り上がりの農民・楠予の血を引く幼子に、兵は従わぬ。
民もまた、越智の柱が揺らいだと見よう」
重臣たちは顔を見合わせた。
輔頼の言葉は、理ではなく力を帯びていた。
若い武将・川之江兵部が進み出た。
「輔頼様。
御身は頼辰様の弟にして、武功もあり、兵も掌握しておられる。
この国分寺の城を守るに足るお方。
我らが越智を乱さぬためにも、御身が御家督を継がれるべきかと」
輔頼は頷いた。
「越智は、伊予の柱。
その柱が幼子に揺らげば、周囲の国衆が牙を剥く。
我らが守るべきは、越智の名ではなく――越智の力だ」
老臣の一人が、静かに問うた。
「では、正若丸様は……どうされるおつもりか」
輔頼は目を細めた。
「城を出ていただく。
楠予の血を引く者が、越智の居城に留まることは、混乱を招く。
我らが治めるにあたり、清き座が必要だ」
広間に沈黙が落ちた。
その言葉は、宣言であり、警告でもあった。
※※※※
1540年1月下旬
国分寺の城に越智輔頼が居座り、正若丸に退去を命じた――
その報せが池田の里に届いたのは、雪が溶けかけた夕刻だった。
楠予家の嫡男・源太郎はすぐに身支度を整え、越智家の重臣たちが集う城の近くの屋敷へと向かった。
父・源左衛門は何も言わず、ただ火鉢の前で頷いた。
屋敷の広間には、老臣・三宅主膳、若手の川之江兵部、そして数名の中老が顔を揃えていた。
源太郎は一礼し、正座したまま口を開いた。
「正若丸様は、亡き頼辰様の御嫡男にございます。
正室の御子であり、血筋において疑う余地はございません」
三宅主膳が静かに言った。
「それは承知しておる。
だが、輔頼様は兵を持ち、城におられる。
民もまた、力に従うもの。
我らが声を上げれば、越智が割れるやもしれぬ」
源太郎は一歩、膝を進めた。
「割れてはならぬからこそ、言葉を尽くすのです。
正若丸様はまだ幼くとも、我らが支えれば、越智の家は揺るがぬ。
輔頼様の武は確かですが、越智は武だけで成り立つ家ではございません」
川之江兵部が眉をひそめた。
「では、正若丸様が城に戻られたとして、誰が政を担うのか。
楠予家が越智を操る算段か?」
源太郎は静かに答えた。
「我らは操るために仕えているのではございません。
守るために仕えているのです。
楠予家は、越智の柱を支える礎でありたい。
それが、父の願いであり、私の誓いです」
広間に沈黙が落ちた。
その言葉は、若き源太郎の声でありながら、重く響いた。
三宅主膳が火鉢に炭を寄せながら、ぽつりと言った。
「……越智の名を守るために、若き者が声を上げるか。
時代は変わりゆくものじゃな…」
源太郎は深く頭を下げた。
「正若丸様の御前に、越智家の意志を揃えたい。
どうか、皆様のお力をお貸しください」
その夜、広間の火は遅くまで消えなかった。
越智の未来を巡る声が、静かに交わされ続けていた。




