18 村上水軍
12月下旬。楠予家の屋敷。
楠予源左衛門は、次郎を見て笑った。
「その風呂敷はもしや例の道具が出来たのか?」
次郎は静かに頷き、風呂敷を膝の上に置いた。
「はい。眼鏡と名付けました。
水晶の磨きに手間取りましたが、既に目の悪い者でも試しております」
源左衛門は、囲炉裏の火に手をかざしながら頷いた。
「そうか……。実はあれから幾度か、帳面の字が霞んでな。
お前の道具が、どれほどのものか――この目で確かめさせてもらおう」
次郎は風呂敷をほどき、桑の木で組まれた枠をそっと差し出した。
左右に嵌め込まれた水晶が、火の光を受けて静かに輝いている。
源左衛門は目を細めた。
「……これが“眼鏡”か。
異国の品のようでもあり、どこか懐かしい木工細工のようでもあるな」
次郎は静かに頷いた。
「鼻と耳に掛けて使います。
水晶の厚みと曲面で、近くのものがはっきり見えるようになります。
枠は桑の木、軽くて肌馴染みもよく、村の者にも使いやすいかと」
源左衛門は眼鏡を手に取り、重さを確かめるように指先で撫でた。
そして、帳面の前に座り直し、眼鏡を鼻と耳に掛けた。
しばらく沈黙が続き、囲炉裏の火がぱちりと弾ける音だけが、座敷に響いた。
「……見える。
この細かい字が、まるで筆先で書いた瞬間のように見える。
墨の濃淡まで、はっきりと」
次郎は息を飲んだ。
源左衛門は眼鏡を外し、静かに次郎を見つめた。
「これは……ただの道具ではないな。
老いた目を、再び働かせる力だ。
針仕事も、帳面も――老いた村の手が、また動くぞ」
次郎は深く頭を下げた。
「村の者にも、目が弱って困っている方が多くおります。
この道具があれば、また布を織り、薬草を選び、細工もできます」
源左衛門は眼鏡を机に置き、しばし考え込んだ。
「……まずは誰に贈るかだな。河野家に1つ、主君の越智家に1つ、願連寺村の寺の和尚に1つ…ほかには」
「御屋形様、水晶の購入の件で村上水軍の島吉利様に多大な協力を頂きました。まずは村上水軍様に1つ差し上げたく存じます」
源左衛門は驚いた。
「村上水軍の島吉利殿だと? 村上水軍に贈るとなれば、この眼鏡は“楠予の技”として、名を立てることにもなろう」
次郎は静かに言葉を継いだ。
「はい。眼鏡は、村の者の目を助ける道具ですが――それが、海の者にも届けば、楠予の名もまた広がります。あっ……」
「いかがした次郎?」
次郎はニヤリと笑った。
「功績の糸が見えました。望遠鏡を作りましょう。海の海賊には望遠鏡が重宝するはずです」
源左衛門はいぶかしげに眉間に眉をよせた。
「望遠鏡? それはなんじゃ?」
次郎は風呂敷の端を握りしめたまま、目を輝かせた。
「眼鏡は、近くを見るための道具。
望遠鏡は、遠くを見るための道具です。
水晶を筒の両端に据え、光を曲げて、遠方の像を目元に引き寄せる――
海の者が、沖の船を見分けるのに使えるはずです」
源左衛門は腕を組み、囲炉裏の火を見つめた。
「……遠くを見る道具、か。
それがあれば、海の見張りも、山の薬草探しも、ずいぶん楽になるな。
だが、そんなものが本当に作れるのか?」
次郎は頷いた。
「眼鏡の技を応用すれば、可能です。
ただし、眼鏡よりも大きな水晶が要ります。
焦点を合わせるために、長い筒も必要です。
倍率は……5倍ほどなら、村の技でも何とか。それ以上が必要なら村上殿が、さらに大きな水晶を手に入れてくだされば、15倍も可能です」
源左衛門はごくりと喉をならす。
「15倍……。それほどの遠目が利けば、海の者だけでなく、山の者も、戦の者も、欲しがるだろうな。
だが、大きな水晶は、ただでは手に入らぬ。村上殿に頼むには、見返りも要るであろう」
次郎は即座に答えた。
「見返りは、望遠鏡そのものです。
村上殿がそれを使えば、沖の敵船をいち早く見つけ、戦を有利に運べます。
それが“楠予の技”と知れ渡れば、他の海賊衆も、我らに目を向けましょう」
源左衛門は囲炉裏の火に手をかざしながら、ゆっくりと笑った。
「よいではないか。眼鏡は村の目を開き、望遠鏡は海の目を開く。次郎、これを成せば大きな功じゃ」
次郎は深く頭を下げた。
源左衛門は立ち上がり、机の上の眼鏡を手に取った。
「まずは村上殿に眼鏡を届け、望遠鏡の話を持ちかけよ。
その反応次第で、水晶の手配を進める。次郎、準備を始めよ」
「はっ!」
囲炉裏の火がぱちりと弾け、水晶の面に映る炎が、まるで遠くの海を照らす灯のように揺れた。
※※※
1540年1月初旬 能島
波は穏やかだったが、風は容赦なく頬を刺した。
次郎は小舟の舳先に立ち、能島の岩肌を見据えていた。
今張りの港には島吉利の姿はなく、港の番人が「殿のお召しで能島へ戻られた」と告げたのだ。
能島の船着き場に着くと、村上家の家臣らが警戒の目を向けてくる。
次郎と又衛兵は名を告げ、村の名と目的を簡潔に述べた。
しばしの待機の後、石垣の奥にある屋敷へと通される。
屋敷に通されると、島吉利は囲炉裏の前にいた。
海図と帳面を広げ、何やら航路の調整をしている様子だった。
「おお……よくぞ参られた、又衛兵殿。先日の件、改めて感謝する」
島吉利が顔を上げ笑顔を見せる。
又衛兵は一歩前に出て、深く頭を下げる。
「その節は、村上殿の命を守れたのは運が良かっただけです。今日はこの者と共に交渉に参りました」
島吉利は囲炉裏の火に手をかざしながら、次郎に目を向けた。
「さて、次郎殿。村の者が海を越えてまで来たというからには、よほどの急ぎかな」
次郎は頷き、懐から布包みを取り出した。
中には、桑の木で組まれた枠と、磨き上げられた水晶の鏡片が収められている。
「あの時の水晶で作りました。眼鏡と言います。近くを見えぬ老人などが、これをかけるとよく見えるようになります」
島吉利は鏡片を手に取り、火の光にかざした。
その目がわずかに細められた。
「ふむ…近くが見える道具? ……そうじゃ、喜平は近くが見えなかったな。誰ぞ、喜平を呼んで参れ!」
家臣のひとりが小走りに屋敷を出ていく。
やがて、白髪まじりの老人が囲炉裏の間に現れた。
「喜平、この鏡片を目に当ててこの帳簿を見てみよ」
喜平は驚いたように眼鏡を受け取り、そっと目元に当てる。
次郎が位置を調整すると、喜平の目が見開かれた。
「……これは……帳面の細かい字が、はっきりと……! わしの目が、若い頃のように戻ったようじゃ……」
島吉利は囲炉裏の火を見つめながら、静かに笑った。
「ふふっ、これは良いものを頂いた。何ぞ礼を用意せねばならんな」
次郎は一歩進み出た。
「実は…遠くを見る事の出来る道具も作る事ができます。それで遠くの船を見れば10倍ほどの大きさでよく見えるようになりま」
「……10倍の大きさに見える?」
島吉利は意味が分からず困惑した。
「つまり誰よりも先が見通せるのです。例えば遠くにある見えぬはずの文字が見えます。これは見張りに重宝する事になるでしょう」
「なるほど…。そのような物があるならば、ぜひ我が村上家にも欲しい道具じゃ。今その道具はお持ちなのか?」
次郎は残念そうに首を振った。
「いいえ、これを作れる大きな水晶がないのです。残念ながら堺の藤屋殿は扱っておられず。
今、伊予の山にて採れる水晶の中に、適したものがあるかどうか、調べているところです」
ここで又衛兵が静かに口を開いた。
「島殿。この者は不思議な技術を持っております。その望遠鏡とやらは海の守りにも役立つでしょう。
どうか、大きく質のよい水晶を取り寄せて頂けないだろうか?」
島吉利は囲炉裏の火箸を動かし、炭を寄せた。
「……遠くを見る道具。船の見張りに使えれば、敵の動きも早く察知できる。それが実現すれば、村上家の海戦に新たな目を得る事になる。よかろう。九州の商人ならば質の高く大きな水晶を取り扱っておる、すぐに問い合わせてみよう」
「ありがとうございます。水晶を供給して頂ければ、優先的に水軍に望遠鏡を安くお譲り致しましょう」
島吉利は笑みを浮かべ、次郎の肩を軽く叩いた。
「ほう安く譲るとな、次郎殿は商売上手じゃの。
その技、海のために活かしていただこう」