15 風雲急を告げる
1539年11月の中旬
池田村・楠予家の屋敷。
冬の風が庭の芋畑を揺らす頃、門番の源八が駆け込んできた。
「御屋形様! 越智家よりの使者が参っております!」
権左衛門はすぐに縁側から立ち上がり、次郎とともに玄関へ向かった。
源八が使者を導くと、旅装のままの若武者が深々と頭を下げた。
「楠予殿。越智家の殿より急ぎの命にございます」
「申せ」
使者は息を整え、声を張った。
「金子氏が、石川氏と手を組み、越智家の領土を狙って進軍を開始いたしました。すでに新居郡の境にて兵を集めております」
権左衛門の眉が動いた。
「金子も越智も河野家の家臣、河野家の意思を無視して同じ仲間を攻めるとは!」
使者は苦い顔で答えた。
「河野家には、家臣同士の争いに介入する余裕がございません。弾正少弼・通直公は西の備えに追われ、東の騒ぎには目も手も届かぬご様子……」
権左衛門は腕を組み、庭の芋畑を見やった。
「……ならば、伊予の秩序は地侍が守るしかあるまい。越智家が敗れれば、金子の軍は我が領土まで侵攻しよう」
次郎は焦った。
(嘘だろ、俺、戦争の準備なんてしてないぞ!)
権左衛門の前で又衛兵が片膝をついた。
「御屋形様、戦は避けられませぬ。急ぎ兵を整え、徳田にて待機いたしましょう」
「よかろう。源八、嫡男・源太郎を呼んで参れ。三カ村の兵を集めさせる。三男・兵馬には武具の手入れを、四男・友之丞には兵糧の係を命じる」
(源太郎様は嫡男、兵馬様は三男、友之丞様は四男か。これは一族総出になるな)
使者は深く頭を下げた。
「楠予殿の参戦を、主君・越智頼辰様にお伝えします」
庭に風が吹いた。
戦の気配が池田に近づいていた。
※※※※※
十一月下旬、徳田村。
朝霧の立ち込める野に、楠予家の全兵力兵二百が整列していた。
源八郎が陣頭に立ち、槍の列を整えながら声を張る。
「前列、間を詰めよ! 後列、荷駄の位置を確認せよ!」
次郎はその様子を静かに見つめていた。
(マジかよ、俺まだ13歳なんだけど、なんで戦争なんかに来てんの?)
次郎が鍛冶場で打った槍の穂先が、朝日に鈍く光る。
「源太郎の指揮も板について来たな……」
権左衛門が呟いた。
「越智軍1400、見えました!」
遠方の丘を越えて、旗が揺れていた。
白地に黒の三つ巴――越智家の軍旗が風に翻っている。
やがて、騎馬の先頭に立つ武将が姿を現した。
越智頼辰。鎧の上に黒羽織をまとい、眼光鋭く楠予軍を見渡す。
権左衛門が一歩前に出た。
楠予家の兵が一斉に膝をつき、槍を伏せる。
頼辰が馬を止め、ゆっくりと口を開いた。
「義父殿。全兵力を率いての加勢、感謝申し上げる」
権左衛門は静かに頭を下げた。
「ご主君の命とあらば、三か村八百名の命を預かる身として、これを果たすのみ」
頼辰は頷いた。
「古川家はすでに降伏。古川村、氷見村が金子の手に落ちた」
「なんと! 古川と氷見が既に敵の手に落ちたのですか!」
源左衛門の後ろにいた、源太郎が敵の侵攻の速さに驚く。
頼辰は手をあげ、東を指し示す。
「戦は避けられぬ。ここより東へ進み、金子・石川連合軍を討ち果たす」
又衛兵が一歩前に出た。
「兵の配置は?」
「我が軍1400、楠予軍200。丘の南に陣を張り、明朝、小松、氷見の境にて決戦とする」
権左衛門は振り返り、源太郎に命じた。
「徳田の野を使え。今夜の陣を整えよ。次郎はわしの傍にいよ。又衛兵、見張りを増やせ」
「はっ!」
越智軍と楠予軍の旗が並び立つ。
小松の野に、戦の陣が静かに築かれていった。
※※※
十一月下旬、夜明け。
小松村と氷見村の境に広がる丘陵地。
霧が薄れ、朝日が草の先を照らし始めていた。
楠予軍200、越智軍1400。
千の兵が静かに陣を構え、風の音だけが響いていた。
源太郎が丘の上で指揮を取る。
「前列、槍を構えよ。弓隊、南の林に展開。敵の動きに合わせて射線を変えろ」
義兄の又衛兵は槍隊の先頭に立ち、声を張っていた。
「敵は金子・石川連合1300。数では勝るが、油断するな。槍は腰で押せ、足を止めるな!」
次郎は後方で兵の動きを見つめていた。
「……これが戦か」
遠方の林が揺れた。
金子軍の旗が現れ、続いて石川軍が丘を越えてきた。
越智頼辰が馬上で声を張る。
「敵、来たる! 前進せよ!」
越智軍が動いた。
楠予軍は側面から支援に回り、弓隊が林に向けて一斉に矢を放つ。
「放て!」
矢が風を裂き、金子軍の前列が崩れた。
又衛兵が槍隊を率いて突撃する。
「押せ! 押し切れ!」
槍がぶつかり、叫びが響く。
源太郎が後方から指示を飛ばす。
「左翼、回り込め! 敵の弓隊を潰せ!」
戦は激しく、地鳴りのような音が野に響いた。
その時、越智頼辰が前線に出すぎた。
石川軍の弓隊が狙いを定め、一本の矢が霧を裂いた。
「殿、危ない!」
矢が頼辰の肩を貫いた。
馬が暴れ、頼辰は地に落ちた。
楠予兵が駆け寄り、又衛兵が叫ぶ。
「越智の殿が倒れた! 守れ!」
越智家の家臣が即座に指示を飛ばす。
「後退線を確保せよ! 殿を運べ!」
越智頼辰は肩に矢傷を負い、地に伏したまま顔をしかめていた。
血は滲んでいたが、致命傷ではない。家臣の一人が駆け寄り、布で傷口を押さえながら声をかける。
「殿、ご無事ですか!」
頼辰は浅く息を吐き、うなずいた。
「……かすっただけだ。馬が驚いたか……」
楠予家の兵が周囲を囲み、又衛兵が槍を構えたまま叫ぶ。
「殿の周囲、守りを固めろ! 敵の残兵が戻るぞ!」
源太郎が丘の上から状況を確認し、声を張った。
「金子軍、退却を始めた! 石川軍も林の奥へ引いている!」
権左衛門は馬上から戦場を見渡し、静かに頷いた。
「なんとか勝ったな…」
次郎は戦場の端で、倒れた槍と血に染まった土を見つめていた。
鍛冶場で打った道具が、命を奪い、命を守った。
「……これが、戦国か…」
越智家の当主・頼辰は家臣に支えられながら立ち上がった。
肩の傷を押さえつつ、遠崎家の陣へ向かって歩き出す。
権左衛門が馬を降り、頼辰の前に立った。
「殿、ご無事で何より」
頼辰は苦笑した。
「義父殿の兵がいなければ、我が軍は崩れていた。感謝する」
「金子軍は退いた。越智家の勝利でございます」
頼辰は頷いた。
※※※※
翌日。
越智・楠予連合軍は氷見村・古川村の奪回に動いた。
金子軍の残兵は退却し、村はほぼ無血で制圧された。
源太郎が槍隊を率いて村の中心に入る。
「敵影なし。村人は避難済み。古川村、制圧完了!」
又衛兵が頷き、旗を立てる。
「越智家の旗、掲げよ。楠予軍は周囲の警戒に回れ」
越智頼辰は馬上から村を見渡し、静かに息を吐いた。
「……氷見と古川の村が、越智に戻ったか。義父殿の力なくしては成らなかった」
権左衛門が馬を寄せた。
「家臣の役目を果たしたまででござる」
頼辰はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「この村、義父殿に差し上げたい。三か村の東に位置し、防衛にも適す。楠予家の功に報いるにふさわしい」
源太郎が驚いた顔で父を見た。
権左衛門は表情を変えず、ただ一礼した。
その時、越智家の重臣・元頼が進み出た。
頼辰の伯父であり、家中の政務を担う老将である。
「殿、恐れながら申し上げます」
頼辰が目を向ける。
「氷見と古川の村は越智領の東端。これを外に譲れば、家の形が崩れます。ここは殿の弟・輔頼様に2か村を任せるべきかと」
頼辰は眉を寄せた。
「輔頼に……」
元頼は静かに続けた。
「輔頼様はまだ若いが、村の統治を学ぶには最適の地。楠予殿の助力を得て、輔頼様がこの地を治めれば、越智家と楠予家の絆も深まりましょう」
権左衛門は口を開いた。
「我が兵は越智家の命に従ったまで。村の処置は、殿のご随意に」
頼辰はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……よかろう。氷見と古川の村は越智家の地として残す。輔頼に任せ、楠予殿には政の助言を願いたい」
権左衛門は深く頭を下げた。
「承知いたしました。三か村の政を預かる身として、輔頼様の補佐に尽力いたします」
冬の風が吹き抜ける古川村。
戦の火は消えたが、静かなる暗雲が流れていた。