14 簿記と算盤
1539年10月中旬。
鍛冶場の奥、火床の脇に置かれた帳簿台。
次郎は墨を含ませた筆を走らせながら、静かに呟いた。
「……借方、鉄30文。貸方、買掛30文。これで、材料と支払いが釣り合う」
弥八は隣で首を傾げていた。
「師匠、それ……今までの帳簿と違いますよね? 前はただ、使った分と残りを書いてただけだったのに」
次郎は筆を置き、帳簿を弥八の前に回した。
「これは複式簿記という。遠い国で使っている記録法だ。物と金の流れを、両側から記す。片方だけでは、真の損益が見えぬ。それに売掛と買掛がどれだけ残ってるかの把握に強いんだ」
弥八は目を輝かせた。
「すげえ……これなら、どこで損してるかも分かるってことか!」
「そうだ。鍛冶場だけでなく、村の商いにも使える。覚えておけ。お前はもう家臣だ。火だけでなく、帳も扱えねばならん」
弥八は墨を取り、震える手で筆を握った。
「貸方……鉄30……借方……鍬15、釜15……」
その姿は、火を打つ時とは違う真剣さに満ちていた。
次郎は黙って見守っていたが、ふと背後から声がした。
「師匠、私にも教えてください!」
振り返ると、弟子の庄吉が立っていた。
その隣には、おとよが帳簿を覗き込んでいる。
「弥八ばっかりずるいです。私も、火だけじゃなくて帳も覚えたいです!」
庄吉も頷いた。
「俺も、鍛冶場の金の流れが分かれば、無駄を減らせると思ってたんです」
(おっ、これってこいつらに簿記を教えれば、いずれ村全体に浸透できるんじゃね?)
次郎はしばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。
「いいだろう。でも、これは火よりも難しい。数字は嘘をつかない。誤魔化しも通じない。覚悟はあるか?」
三人は声を揃えた。
「はい!」
次郎は新しい帳簿を三冊取り出し、火床の横に並べた。
「では、今日から鍛冶場は火と帳の両輪で動かす。いずれお前たちが俺を、村を支える柱となるのだ」
火の音が、静かに響いていた。
その奥で、知の炎が静かに燃えていた。
翌日、次郎は算盤を作り、より早く正確に計算できるようにした。
そして数か月後には、鍛冶場の帳簿を見た玄馬が複式簿記の凄さを悟り、算盤と複式簿記を村の書院に導入する事になってゆく。
※※※※※※
1539年10月中旬。
鍛冶場の奥、火床の脇で、次郎は鉄の歯を一本一本、円筒状の車輪に打ち込んでいた。
隣では弥八が柄を削り、庄吉が木枠を組んでいる。
「師匠、これ……稲の間を押して進むだけで、草が取れるって本当ですか?」
「そうだ。腰を曲げずに済むように考えた。稲の列の間を押して進めば、鉄の歯が泥を掻き、草を巻き込む。名は……手押し除草機とでもしておこう」
弥八が笑った。
「じゃあ、婆様でも使えるな。千代婆に見せたら喜ぶぞ」
次郎は頷いた。
「それともう一つ。こちらは鍬を改良したものだ。歯を三本から五本に増やし、柄を短くして力が逃げぬようにした。土が硬くても、女衆でも打てる。つまりこれで新田開発や畑の拡張が数倍楽になるのだ」
庄吉が鍬を持ち上げて振ってみる。
「おお、軽い! でも打ち込みは深い!!」
次郎は二つの道具を風呂敷に包み、鍛冶場を後にした。
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村長屋敷。
庭の畑では、番人が土を均していた。権左衛門は縁側に座り、茶を啜っている。
「次郎。今日は何を持ってきた?」
次郎は風呂敷を広げ、手押し除草機と備中鍬を並べた。
「これは、村の冬仕事と春の畑に向けた新しい道具です。鍛冶場で考え、作りました」
権左衛門は目を細めた。
「ほう……これは? 車輪に歯が生えておる」
「手押し除草機です。水田の条間を押して進めば、草を掻き取ります。腰を曲げずに済み、年寄りでも使えます」
「なん…じゃ…と! あつっ、あつっ!」
権左衛門は持っていた湯呑を落としてしまう。
「村長様、大丈夫ですか!」
「平気じゃ……ただ、あまりにも驚いただけじゃ」
権左衛門は湯呑を拾い上げ、袖で茶を拭いながら、除草機をまじまじと見つめた。
「腰を曲げずに草が取れるとな……そんな道具、わしは見たことも聞いたこともない。次郎、お前は本当に面白き男よ」
次郎は静かに頭を下げた。
そして鍬を手に取り、庭の畑に打ち込んだ。
ザクリ、と音を立てて、硬い土が深く割れた。
「鍬を改良しました。歯を増やし、柄を短くして力が逃げぬようにしました。女衆でも使えます」
権左衛門は立ち上がり、鍬を手に取った。
重さを確かめ、庭の土に打ち込む。
「……軽い。だが、深い。これも凄いぞ!」
「はい、これを使えば畑の拡張も新田開発も数倍、楽になるでしょう」
権左衛門は鍬を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと息を吐き、縁側に腰を下ろした。
「この鍬を大量に作れ、これで徳田村を開拓できる」
「……徳田村?」
権左衛門が次郎を見て微笑んだ。
「そうじゃ、徳田村は荒地や新田開発できる土地がたくさんある。次郎、わしは人を他国よりも呼び寄せ、徳田村で大規模な開拓を行うぞ!」
「人を呼んでの大規模開拓、それはすごいです村長様!」
「わしの領土は池田村、願連寺村 ,徳田村の3か村で、石高は8000石じゃ。それを3年で2000石増やし1万石にする!」
(村長の領土が合計一万石、それってもう大名じゃないか!)
次郎は真面目な顔で村長を見た。
「1万石と言えばもはや大名でございます! これよりは御屋形様と呼びとうございます!」
権左衛門は目を見開いた。
そして、ゆっくりと次郎の両肩に手を置いた。
「…………次郎、よくぞ言うてくれた。
これまでわしがどれだけ力をつけようと、周りの者はいつまでたっても村長と呼ぶのじゃ。三村を束ね、兵を動かし、石高は一万に届こうというのに、いつまでも村長では示しがつかぬ、これでは楠予家に未来はない」
次郎は静かに頷いた。
「私が先駆けとなります。私が御屋形様と呼べは周りも変わるはず。まずは我が弟子から始めましょう。そして御屋形様のご子息たちにも御屋形様と呼ばせれば、すぐに村人全員が御屋形様と呼びます」
権左衛門はしばらく黙っていたが、やがて口元に笑みを浮かべた。
「次郎……、感動したぞ。お前は言葉でも人の心を動かすのだな。では、まずはお前の弟子たちから始めよ。弥八、庄吉、おとよ……あの者たちが『御屋形様』と呼べば、村の空気も変わる」
「はい。鍛冶場に戻り次第、申し伝えます」
「そして、わしの子らにも言わせる。これで家の格式も上がるというものじゃ」
数か月後、村人は楠予権左衛門を御屋形様と呼び。楠予家による村人の家臣化が劇的に進む事になった。
それは「評議制度の整備」「家臣団の再編」を可能にした。