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131 『恵姫』と『妙玖』

1545年10月初旬。

京の都・伏見宮家

恵姫けいひめ視点


伊予に嫁いだよしお姉さまから文が来たらしい。

几帳の陰で、侍女の小萩がそっと差し出した文を受け取る。

封を切る前から、胸が少しどきどきしていた。


「……久しぶりのお姉さまからのお便りね……」


文には、伊予の柑橘の香をほんのり滲ませていた。

お姉さまが伊予で幸せに暮らしている証のようで、胸が温かくなる。

ゆっくりと文を開く。


恵姫へ


池田の空は広く、海と山に囲まれ京のように賑わいがあります。

伏見宮家の方は如何ですか。

あなたが元気にしているか、いつも案じております。


池田ではこの度、楠予家の次期当主・源太郎様の嫡男・小聞丸様の正室選びが始まりました。

小聞丸様とは何度かお会いした事がございます。

まだ十二歳の若君ですが、礼儀正しく、決して悪いお方ではありません。

あなたも今年で十二歳。もし伊予に来ることを望むならば、よきご縁になると思います。

もちろん、無理にとは申せません。そなたの心が一番大切です。

もし伊予に嫁いでもよいと思うならば、この文と一緒に添えた“もう一つの文”を御祖父様にお渡ししなさい。

慶より


「お姉様……」

慶お姉さまの優しさを感じ、私は手紙を胸に抱きしめた。


侍女の小萩がそっと口を開く。

けいさま、慶姫よしひめさまはなんと?」

「お姉様は私に伊予に嫁ぐ気はないかと仰せです。相手は伊予の守のご嫡孫の小聞丸様よ」


小萩は思わず息をのんだ。


「まあ、伊予の守様のご嫡孫」

「お姉様は小聞丸様は悪い方ではないと仰っているわ」


小萩は身を乗り出した。


「ならば嫁ぐべきです。宮家は裕福になりましたが、京にいては恵さまは出家させられると思います。慶姫様の縁談で、礼金を得たのは兄君の邦輔王子、お父上の貞敦親王様ではありません!」


恵姫は悩む。

「そうよね。この縁談を断ればきっと尼になるのよね」

「さようです! 恵姫が嫁がれれば楠予家から礼金が出るはず、きっと親王様も喜ばれます。これは親孝行でございますよ!」


恵姫の胸の奥で、

小萩の言葉がゆっくりと沈んでいった。

出家――

それは宮家の娘にとって、避けられぬ未来のひとつ。

慶姫が嫁いだことで宮家は潤ったが、それはあくまで 兄の邦輔王子の話で、恵姫自身の将来が保証されたわけではない。

恵姫は父にもう一つの手紙を渡す決意をした。



ーーーーー

貞敦親王・視点


第二王女・恵姫けいひめが侍女とともに部屋にやって来た。

伊予に嫁いだ孫娘の慶姫よしひめからの文が届いたと聞き、親王はわずかに眉を上げる。

貞敦親王は、恵姫の侍女が差し出した文を受け取ると、静かに封を切った。


几帳の向こうでは、恵姫が緊張した面持ちで座っている。


親王は文を開き、目を走らせる。


ーーーーー

お祖父さま

この度、楠予家にて伊予の守の御嫡孫・小聞丸様の正室選びが始まりました。

つきましては、伏見宮家の恵姫様を正室候補として推挙したく存じます。

恵姫様は聡明にして気立て良く、楠予家の正室にふさわしい姫君にございます。

わたくしも、恵姫が楠予家の嫡孫の正室になれば心強く思います。

伊予の地は遠きものの、小聞丸様は誠実で、家中の評判も良く、恵姫様が嫁がれても決して不幸にはなりませぬ。

どうか、恵姫様の行く末を、よき方へお導きくださいますよう。


小倉宮光継室

ーーーーー


読み終えた親王は、扇を閉じ、静かに息を吐いた。


「……楠予家の嫡孫、か」


その声には、驚きよりも“値踏み”の色があった。

楠予家――

大友を破り、いまや豊後を治め、大内家に並ぶと噂され始めた新興の勢力。


(大内も黙ってはおるまい……だが、それは余には関わりのないこと)


親王の関心は別にあった。


(恵の心は既に伊予に向いておる。

王子の娘である慶の礼金は二万貫文。

ならば親王の娘の恵なら……三万貫は下るまい)


皇族としての矜持と、宮家の財政を背負う者としての計算が、胸の内で静かに交錯する。


親王は文を畳み、恵姫へ視線を向けた。


「恵姫。

これをそなたが持って来たということは、すでに内容を知っておるのだな」


恵姫は小さく頷いた。


「……はい。おとう様」


親王はしばし娘の顔を見つめ、その幼いながらも決意を宿した瞳に、わずかに目を細めた。


「では――

楠予家に縁組を申し込む。それでよいな」


恵姫は胸の前で手を握りしめ、震える声で答えた。

「……はい。

わたくしは……伊予へ参りとうございます」


その言葉に、貞敦親王はゆっくりと頷いた。

「よい。ならば三条卿を通じて話を進めよう。恵……そなたの行く末、余が責任を持って決める」


その声音は、皇族としての威厳と、父としての温かさが入り混じっていた。


恵姫は深く頭を下げた。

こうして――

伏見宮家の第二王女・恵姫の未来は、

静かに伊予へと動き始めた。



ーーーー

2週間後。

1545年10月中旬。


三条公頼は、貞敦親王の書状を携え、自ら伊予へと下向した。


三条家は宮家と深い縁を持つ家柄であり、公頼自身も娘を武田信玄や本願寺顕如(史実では12年後)に嫁がせたことで知られる“武家外交に長けた公家”であった。

史実での公頼は、古くからの縁で大内家にも出入りしており、その行動力ゆえに山口へ下向した折、陶隆房の反乱に巻き込まれて命を落としている。


三条公頼は広間で正重と謁見し、書状を渡した。

やがて正重が書状を読み終え、そっと横に置いた。


その表情には僅かな驚きと、緊張、そして誇りが入り混じっていた。


「……宮家と我が嫡孫・小聞丸との縁談でございますか」


正重の声に、広間の空気がわずかに張りつめた。

吉田作兵衛などは小聞丸との縁談に積極的で、その座を狙っていたため『まずい事になった』と顔をしかめた。


三条公頼は扇を軽く閉じ、穏やかな笑みを浮かべた。

公頼は、先の慶姫の縁談において宮家との間を取り持ち、楠予家から2千貫文の礼金を受け取っている。

ゆえに今回も、宮家と楠予家の縁を結ぶことに積極的だった。


「左様。小倉宮家と伏見宮家はすでに御縁を結ばれましたゆえ、楠予家と伏見宮家が姻戚の間柄となるも、まこと道理に適うことと存じる」


正重は隣に控える源太郎へ視線を向けた。

「源太郎。小聞丸はそなたの嫡子。そなたはいかが思う」


源太郎は姿勢を正し、うやうやしく答えた。

「宮家の姫君を正室に迎えられるのであれば、これほどの誉れはございませぬ」


正重は満足げに頷き、再び三条公頼へ向き直る。

「三条殿。伏見宮家との縁組、楠予家としてお受けいたす。何かご要望はござるか」


公頼は扇を口元へ寄せ、わずかに目を細めた。

「さて……宮家よりは何も仰せつかってはおりませぬが、慶姫様の折と同じほどの礼金をお納めになるのが筋かと存じまする。此度は王子殿下ではなく、親王様の御息女。ご支度にも、さぞ物入りでございましょうな」


その声音は柔らかいが、“宮家の格式”と“三条家の立場”をハッキリと伝えるものであった。


玄馬が一歩進み出る。

「小倉宮家は楠予家の祖、楠木正成公が仕えた後醍醐天皇の子孫。主筋にございます。ゆえに主筋の慶姫様の時より上の礼金は中を失するものと心得ます」


源太郎が頷く。

「確かに玄馬の申す通りじゃ。三条殿、礼金は1万5千貫文ではいかがでしょう」


三条は扇を胸元に寄せ、そっと目を閉じた。

その表情には、公家特有の慎重さと、計算の気配が滲む。


「親王様の御息女が、王子の御息女より下座に扱われるというのは、まこと道理が通りませぬ。

されど……楠予殿の仰せもまた、一理ございます。これはいかがしたものか……」


広間に静寂が落ちた。

作兵衛などは内心で笑みを浮かべた。

だが沈黙はすぐに破られた。


「簡単にございます」


皆の視線が、発言者である次郎へと向けられる。

次郎は膝を正し、落ち着いた声で続けた。


「今の楠予家は、慶姫様よしひめさまが嫁がれた折よりも、はるかに大きくなりました。

ならば礼金が3万貫文以下では少なすぎます。当時の礼金を引き合いにだすべきではないと存ずる。そうではございませぬか、三条殿」


三条は礼金が高くなると思い、柔らかな笑みを浮かべた。

「さすがは壬生殿。げに道理の整うた御言葉におわしますな」


次郎は正重に頭を下げる。

「三条殿は礼金は3万貫文以下では少ないと申されております」


次郎の言葉に、三条はギョッとした。


正重が静かに応える。

「ならば三条殿のご指示に従い、3万貫文ではいかがでござろう」


三条は目を細め、低く唸った。

「うむむ、3万貫文……異はございませぬ。

⋯⋯ではこちらは、その額にて親王様にご納得いただく所存。

楠予殿も、それでよろしゅうございますな」


正重は迷いなく頷いた。

「承知した。

宮家との縁、楠予家にとって望外の誉れ。礼金3万貫文、必ずご用意いたす」


三条は満足げに微笑み、扇を閉じた。

「では、この縁組、宮家へ正式に取り次ぎましょう。

恵姫様をお迎えする日も、そう遠くはございますまい。⋯⋯その折は、私への礼金も夢々お忘れなきよう」


広間には、縁談がまとまった事で笑い声に満ちた。


半月後、友之丞が再び三条公頼を伴って伏見宮家を訪れ、楠予家と伏見宮家との婚約をまとめた。

かくして楠予家、小倉宮家、伏見宮家の三家が固く結ばれる事になる。



ーーーーー

1545年12月初旬。


安芸・吉田郡山城


城の奥、障子の向こうから、かすかな咳が聞こえる。

毛利元就の妻・妙玖は長らく病に伏せ、死が近づいていた。


冬の冷気が忍び込み、炭の匂いが薄く漂う。

侍女がそっと襖を開けると、妙玖は几帳の陰で横たわり、痩せた肩を布団に沈めていた。


「妙玖様……元就様が参られました」


妙玖はゆっくりと目を開けた。

その瞳は弱っていたが、まだ鋭さを失ってはいない。


「殿……」


元就は立ち上がろうとする妻を止める。

「よいよい、寝ておるがよい。今日はのう、妙玖が喜ぶ客が来ておるぞ」

「私がですか?」


元就の後ろから、伊予に嫁いだ娘の幸が現れた。

左手にはまだ三歳ほどの男の子の手を握っていた。

幸に似た大きな瞳で、部屋の中を不思議そうに見回していた。


妙玖は息を呑んだ。

「……幸なの……?」


幸は膝をつき、深く頭を下げた。

「母上……来るのが遅くなり、申し訳ございませぬ」


妙玖の指が震えながら伸びる。

「……幸、いいのよ。最後に一目会えてよかった。その子はもしや……」

「はい。長男の源一丸にございます。源次郎と夢も連れて来たかったのですが、御屋形様に3人全員を連れ出す許しは得られませんでした」


幸が言い終えると、源一丸は妙玖の顔をじっと見つめ、

小さな手をそっと差し出した。


「……おばあさま……?」


その声は幼く、震えていて、しかし妙玖の胸の奥にまっすぐ届いた。

妙玖は震える手で、孫の手を包み込んだ。


「……まあ……なんと……温かい手。殿、私たちの初孫ですよ」


元就と幸が静かに頷いた。


「そうじゃ、そうじゃぞ妙玖。わしとそなたの初孫じゃぞ」

「殿。これでもう私は思い残す事は何もございませぬ⋯⋯」

「な、なにを申すか妙玖。源一丸が大きくなってひ孫が出来るまでは見守ってやらねばならんぞ」


妙玖はただ優しく微笑む。

幸が一歩前に出た。


「父上、母上。

本日は壬生様のご側室の結花様に、共に来て頂いております」


元就が怪訝な顔をする。

「壬生殿のご側室?」

「はい。結花様は楠予家の御典医をしております。結花様ならば母上の病を治して頂けるかも知れませぬ」


元就は頷く。

「かたじけない。

妙玖の病は幾人もの名医に見て貰ったが、原因は分からず悪くなる一方での、どの医師もその……」


元就が言葉に詰まると妙玖が首を振る。

「殿。良いのです。わたくしは十分生きました。もう覚悟はできております」


幸が妙玖の手を取る。

「いいえ母上。どうか一度だけでも、結花様の診察を受けてください」


妙玖が首を傾げる。


「診察?」

「はい、楠予家では病人を見ることを診察と呼ぶのです。外科医術と言う、南蛮の技まで使います。結花様が来られてからは池田では子供が亡くなる事が殆どありません。おそらく100人いれば90人は大人になるのです」


この時代、子供が大人になるまでの死亡率は3~5割ほどあった。

そのため元就は驚きで目を大きくした。


「……池田では……子が、ほとんど死なぬと申すのか?」


幸は静かに頷いた。

「はい。結花様は病いを寄せ付けぬためには、日々の備えこそ肝要ともうされ、手水ちょうずや口すすぎ、家の内に風を通す事を広めておいでです」


元就が眉を寄せる。

「風を通すとは面妖じゃのう。それでは冬は寒からろう」


幸は笑って頷く。

「そうかも知れません。しかし、病になっても熱が出た子、咳が続く子、産まれたばかりの赤子……どの子も、結花様の手にかかれば、みるみる良くなるのです」


元就は腕を組み、深く息を吐いた。

「……そんな医師がいるのか……わしは半ば諦めておったが……妙玖のためなら何でも試してみたい」


妙玖は弱く首を振る。

「殿……わたくしは……もう……」


幸は母の手を握りしめ、涙をこらえた。

「母上。私は……母上に生きていてほしいのです。

どうか……どうか、結花様にお身体を診ていただいてくださいませ」


妙玖はしばし黙し、やがて静かに目を閉じた。

「……幸が……そう申すのなら……」

元就はその言葉に、わずかに目を潤ませた。


ーーー

すぐに結花が部屋によばれ、妙玖が診察を受けた。

結花は妙玖の枕元からそっと身を離すと、胸に手を当てて静かに息を整えた。


その表情には、緊張がほどけたあとの安堵がにじんでいる。


結花は隣で固唾を飲んで見守っていた、元就と幸の方へと向き直り、深く一礼した。


「……よかったです。妙玖様のお身体は、わたくしの知る病です。今なら……まだ間に合います」


その言葉に、元就の肩がわずかに震えた。

「……間に合う……のか」


結花ははっきりと頷く。

「はい。妙玖様のご病は、長く続く咳と熱で体力が落ちやがて死ぬ病です。ですがまだ手遅れではございません。適切に養生し、身体に負担の少ない薬草を用いれば、必ず持ち直します」


幸は思わず口元を押さえ、涙をこぼした。

「母上……! 聞こえましたか……治るのです……!」


妙玖は驚きに目を見開き、震える声で結花に問いかけた。

「……わたくしが……まだ……生きられると……?」


結花は柔らかく微笑んだ。

「はい。この時代ではまだ……コホン。妙玖様。どうか、わたくしにお任せください」


元就は深く息を吐き、結花に向かって静かに頭を下げた。


「結花殿……どうか……妙玖を頼む」


結花は力強く頷いた。

「承知いたしました。妙玖様を必ず治してみせます」


その言葉は、冬の冷たい空気の中で、確かな希望となって広がった。


ーー

3か月後。妙玖の病は完治する。

これにより毛利家中での楠予家の評価は大きく上がった。

だが――その事がやがて毛利家を、二つに分裂させることになる。

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