129 『大友義鎮』と『生糸の改良』
1545年5月
筑後・篠山城
大友家嫡男・義鎮(宗麟)視点
現在、大友家は小康状態にある。
4カ月前、大内義隆殿を通じて楠予家との和議が成立し、一年間の休戦協定が結ばれた。これで大友は息を吹き返す時を稼いだ。
仲介のお礼として、父は異母弟・塩乙丸を大内家へ差し出した。
塩乙丸は義隆殿の姉の子で、尼子との戦で亡くなった晴持殿に代わり、義隆殿の猶子となった。もし義隆殿に世継ぎが生まれなければ、大内家を継ぐことになるだろう。
それにしても……楠予家の詰めが甘くてよかった。
あの時、豊後での勝利の勢いのまま筑後へ攻め込んでいれば、大友家は間違いなく滅んでいた。大友の敗北を聞いた相良、阿蘇、少弐の三家が一斉に牙を剥き攻め込んで来たのだ。
俺は父の命で戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理を率いて出陣し、辛うじてこれを撃退した。ここにもし楠予軍が加わっていれば対処しきれなかった。
俺はいま、離反した国人衆の仕置きに追われている。
裏切った国人衆をこのまま放置すれば、豊後を奪還する折に背後を突かれる恐れがある。
だが──
真に厄介なのは、外敵ではなく“家中”だ。
父は、功を立てた私を明らかに疎んでいる。
父の心はもはや俺ではなく、休戦協定で無事に戻った、三男の塩市丸とその母のお欄に向けられている。
あの女狐が、よからぬ事を吹き込まねばよいが……。
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1545年6月
池田の里。
3カ月前、壬生家では結花が長女の香織を出産し、その1週間後にお澄が次女の桜を出産した。
次郎が長女の香織を抱き上げた時、豪華な産着を見て、『高そうな産着だな』と思わず呟いた。すると結花が当然のように『一番いい物を買ったの、これ一着で10貫文もしたんだよ。えへへ』と嬉しそうに笑った。次郎は「へえ。よかったな香織」と笑ったが、内心では『おいおい、10貫文って兵士2人分の年収を超えてるぞ!!』と驚いていた。
しかし結花は楠予家の御殿医として金を稼ぎ、賄い料を増やせと言った事がないので、次郎は贅沢だとは口にしなかった。
次郎が自分の部屋に帰ると、ふと、半年前にポルトガル商人カスティーリョが言っていた事を思い出した。
『中国の生糸は堺の商人が喜んで買い、特に儲けが出る』
そこで次郎は試しに生糸の作り方の知識を購入してみた。その結果、生糸を作る技術は戦国時代はもちろん、昭和に入るまで、日本は中国に敵わなかった事を知った。
高級な絹には中国の生糸が使われ、戦国から江戸時代は、堺の商人が中国の生糸を競うように高値で買い求めていたのだ。
そこで次郎は閃いた。
『つまり、中国の生糸を超える物を俺が作ればウハウハって事じゃないか!?』
次郎は生糸を作るため、楠予領で蚕を育てていた職人と、蚕を生糸に仕上げていた職人を買収し、楠予家に取り込んだ。
3ヶ月後、蚕が無事に育ち繭を作ったので、実際に生糸を作ってみる事にした。
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生糸を作るには、
①養蚕(蚕を繭になるまで育てる)
②製糸(繭を茹で、糸口を取り、糸にする)が必要だ。
明国の生糸を超えるため、次郎は養蚕について2つの工夫を考えた。
一つ目は蚕の品種改良をする事。
二つ目は養蚕時の温度と湿度管理である。
※蚕は温度に超敏感。だが明国は温度・湿度管理が自然任せ。これを人が管理するように変更する。
次に②製糸の時に手作業でしていた作業を機械に変更する。
※繰糸
(機械で糸を引き、生糸に仕上げる事で、人の手では不可能な均一の太さにする)
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工房地区の重要区域にある養蚕小屋。
桑の若葉の匂いが満ちる静かな養蚕小屋で、次郎と養蚕職人の八兵衛。製糸職人の介座衛門が並んで蚕棚を覗き込んでいた。
「見てください次郎様。この子は他の繭より大きいですよ!」
八兵衛が指差したのは、白くふくらんだ繭の列。
他よりも明らかに太く、重い。
次郎は頷きながら、手元の記録板に書き込む。
「この蚕は殺さずに次の繁殖に回す。大きい繭で、糸が長くて病気に強い親同士を掛け合わせていけば品種改良ができる。
あとは……温度管理もできてるし、湿度も安定してるな。うん、病気も出てない」
八兵衛は胸を張った。
「次郎様が教えてくださった“蚕室の風通し”と“床の消毒”が効いていますね! 前は病気で半分は死んでいたのに凄い……っ」
次郎は笑う。
「これからは死なせない。
蚕は生き物だ。環境を整えれば、必ず応えてくれる」
次郎は繭を一つ手に取り、光に透かした。中で眠る蚕の影が、ゆっくりと揺れている。
(温度と湿度管理も上手くいっていい繭が出来たな。……品種改良が進めばさらによくなる。数年後には中国よりも優れた蚕になる。それで最高の生糸を作れば……ドル箱の誕生だ!)
ーーー
昼頃、三人は製糸工房(繭を熱い湯で煮て、糸口を整える工程)に移動した。
大釜の湯がぐらぐらと沸き、蒸気が白く立ち上る。
「介座衛門、湯温はどうだ?」
「六十五度です。次郎様の言われた通りに保っています」
「よし。これならセリシンが柔らかくなる。糸が切れにくくなるはずだ」
二人は繭をそっと湯に沈めた。
湯に触れた繭が、ふわりと揺れる。
その表面から、細い糸が一筋、浮かび上がった。
「介座衛門、糸口を探すのは任せた」
「はい!」
介座衛門は細い竹串で繭を撫で、浮かんだ糸をすくい上げた。
「ありました!」
「よし、三本まとめて引くぞ。糸の太さを均一にするためだ」
二人は息を合わせて糸を引き始めた。
湯の表面を滑るように、細く、長く、切れずに伸びていく。
介座衛門が驚きの声を上げた。
「次郎様……糸が、全然切れません!」
「この繭が良質だったからだ。
親の選別をして、温度管理、湿度、餌の質……全部を揃えれば、いずれ全ての糸がこうなる」
次郎は糸を指先でつまみ、光に透かした。
その瞬間、息を呑んだ。
「……これは……」
介座衛門も見入った。
「まるで……光を吸うみたいな糸です」
糸は白く輝き、まるで月光を細く伸ばしたような透明感を放っていた。
介座衛門は確信した。
「次郎様……こ、これは明国と同等の最高品質の生糸ですよ!!」
次郎は微笑む。
「間違いないか?」
「はい、間違いありません。これなら来年には明国を超えます! 品種改良をする前の蚕でこの品質なのです。来年には、明国の生糸を確実に追い越せますよ。なんせ温度と湿度の管理は、明国には無い楠予家独自の技術ですからね!」
明国の養蚕の強みは“蚕の品種”と“職人の経験”だった。
• 何百年も続く品種改良
• 熟練の繰糸女の技術
• 大規模な工房と生産量
だが、肝心の蚕の環境――
温度と湿度の管理は、完全に自然任せだった。
蚕は、わずか一度の温度差で成長が狂い、湿度が高すぎれば病気が出るほどの“超”デリケートな生き物である。
次郎はそこで
• 乾球温度計(ガラス製のアルコール温度計)
• 湿球温度計(先端の球部に巻いてある布に水を含ませ、蒸発させて計測する)
を用いて、蚕室の環境を“数字で管理”していた。
これは、明国ですら手にしていない技術だ。
当初は女性の髪を使った毛髪湿度計を考えたが、万一情報が洩れ、明国に真似されては困る。それで真似出来ないレベルに跳ね上げたのだ。
介座衛門は胸に手を当て、震える声で言った。
「次郎様……池田の里で……あの明国を超える生糸が、作れるようになるのですね……」
次郎は静かに頷いた。
「そうだ。これからは明国に最高品質の生糸を頼らなくていい。いや……明国が、日本から生糸を買う時代が来る!」
湯気の中では一本の糸が、未来を示すかのように輝き続けていた。
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すぐに三人は隣接する繰糸工房(煮た繭を生糸にする工程)へと移動を開始した。
製糸小屋の蒸気を背に、まだ温もりの残る糸を慎重に巻き取りながら歩く。
工房の入口の手前に家臣のおとよと、その弟子の稲が次郎たちを待っていた。
二人とも、緊張と期待が入り混じった表情を浮かべている。
おとよが一歩前に出て、深く頭を下げた。
「殿。お待ちしておりました。……その糸が次郎様が管理して育てた、蚕から作られたものですか?」
次郎は頷き、手にした糸をそっと掲げた。
「そうだ。これが楠予家の“最初の一本”だ。おとよ、稲。これと同じ物、いやそれ以上の物をこれから機械で作るぞ」
稲は糸を見て目を輝かせ、思わず声を漏らした。
「こんなに上等な糸、初めて見ました……!」
おとよは震える指先で糸を受け取り、その滑らかさに息を呑んだ。
「次郎様のご計画通り……本当に……明国を超えられそうですね」
「ああ、超える。明国は、いまも繰糸を手作業でやっている。
同じ手作業で作った生糸で、俺たちはすでに互角だ。
ならば――機械で繰糸を行えば、明国を超えるのは当然だ。
人の手では絶対に届かない『均一な糸』を、池田の里から世界に送り出す!」
次郎は繰糸工房の奥へと歩みを進める。
奥の部屋では木枠の大きな繰糸機が10台、静かに佇んでいた。
繰糸機は水車の動力で動く仕組みだ。
池田の川は大河ではないが、上流に小さな堰を築き、そこから石造りの導水橋と専用水路で工房地区へと水を引いていた。
工房の床下に隠された水車は、その落差を利用して静かに回り、繰糸機へ一定の動力を送り続けるのだ。
次郎は製糸工房で巻き取ったばかりの糸をそっとおとよに渡した。
「おとよ、この糸を掛け糸にする。稲、繰糸機の準備を頼む」
「はいっ!」
おとよは受け取った糸を手際よく掛け糸にし、繰糸機のガイドへと導いた。
稲は回転軸や糸道を確認し、機械の動きを整える。
「稲、回転軸をゆっくり回せ」
「はい……!」
稲が木のハンドルを握り、慎重に回し始める。
繰糸機の軸が静かに回転し、糸が水面を滑るように引き上げられていく。
おとよが息を呑んだ。
「……切れない……。
こんなに細いのに、まったく切れません……!」
稲も目を見開いたまま、手を止められない。
「太さも……ずっと同じです。
こんなの、手じゃ絶対にできません……!」
次郎は頷き、糸の流れを見つめた。
「これが機械の力だ。
人の手では一瞬たりとも揃えられない動きを、機械はずっと続けられる」
糸は途切れることなく、光を吸い込むような白さで巻き取られていく。
稲が震える声で言った。
「……これが……次郎様の生糸……」
次郎は静かに答えた。
「違う。楠予の生糸だ。
今日からは、楠予家が世界一の生糸を作る。
試作は成功した。明日からは工房を稼働し、本格的に生糸の生産を開始するぞ!」
「「はいっ!!」」
皆が興奮気味に返事をした。
彼らには工房に響く、繰糸機の回転音が、新時代の鼓動のように聞こえていた。
※史実では南蛮貿易などで明国が生糸の輸出により巨万の利を得、代金として日本の銀が大量に明国に輸出される筈だった。
――だが、その未来は訪れない。
次郎の知識により、日本は“買い手”ではなく、巨万の利を得る“売り手”へと変わったのだ。




