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123 嘉靖帝と大鏡

林たちが馬車に乗り、広江港を出てから四半刻後(30分)。


次郎がふと振り返り、柔らかく微笑んだ。

「見えてきました。あれが池田の町の鏡屋です。

当家の鏡なら、きっと気に入っていただけると思います」


世昌は日本人に習い、軽く笑って愛想笑いをしたが、内心はガッカリしていた。


(鏡……?

やはりこの男バカだ。

明国にも鏡くらいあるに決まっているだろ。青銅を磨けば済む話だ。わざわざ“新しい商品”などと持ち上げるほどの品ではない)


馬車が止まり、護衛が扉を開ける。

世昌はゆっくりと降り立ち、店の前に掲げられた看板を見上げた。


【楠予家直営店 鏡屋】


(……直営店?

鏡は鍛冶屋が片手間で作って民に売る品だ、それを“店”で売るのか?

……まさか、王侯貴族のように専属の鏡職人が作った鏡を売っているのか?

あれは職人に手間暇をかけさせて、品質が少し上がっただけの品。装飾をふんだんに施した贅沢品だ。富裕層は買うが、我ら海商が手を出して儲かる品ではない)


待て――これは何だ!?


よく見れば店の入り口の近くから行列が出来ており、人々が規則正しく並んでいた。

上質な絹をまとった町人、商家の番頭、下男を連れたご婦人、武士の妻らしき奥方、旅装束だが身なりの良い商人といった明らかに“金を持つ者”ばかりが列を作って並んでいた。


(……行列……? 鏡に……行列だと……?)


王兵が思わず声を漏らした。

「小行首……これは……異常ですよ。

鏡を買うために並ぶなど……明国でも見たことがありません。

しかも……並んでいるのは裕福な者たちばかりです……」


世昌は眉をひそめた。

(鏡などにわざわざ行列を作るなどあり得ない!? 富裕層が集まるほどの鏡だとでも言うのか!)


次郎の馬車を護衛していた者たちが、店に並ぶ行列の前に進み出た。


「楠予家の壬生次郎様である!

通達していた通り、今から半刻の間は貸し切りとなる。

御客人たちは外でしばし待たれよ!」


列の者たちは不満を漏らすどころか、丁寧に頭を下げて道を空けてゆく。


(……武士なのに、客への対応が悪くない。楠予家は武家なのに商いをしているだけあるな……。客の心を大切にしているとはやるではないか!)


次郎が道を示す。

「林殿、さあ店の中へどうぞ」

「わかった……」


世昌は一歩、店内へ足を踏み入れた。

――その瞬間。

足が止まった。

いや、止まったのではない。

膝から下が、まるで地面に縫い付けられたように動かなくなった。


店の中には鏡が規則正しく置かれていた。

だが問題はそこではない――正面の大きな鏡。

その鏡には世昌の姿が “あり得ないほど鮮明に” 映っていたのだ。


(ば……バカな……)


喉がゴクリと勝手に鳴った。


(王侯貴族の鏡は美しい。

だが、それでも三歩も下がれば輪郭がぼやける。光が乱れ、歪みが出るのだ。それが“鏡”というものだ……)


だが今、世昌と鏡までの距離は――二十歩以上。

それなのに。

鏡の中の自分は、まるで目の前に立っているかのように鮮明だった。


(……見える……?

いや、見えるどころではない……

これは……何だ……? どうして……こんな距離で……?)


王兵が後ろから入ってきて、世昌の肩に軽く触れた。


「小行首、どうされ――」


王兵の声が途中で途切れた。

王兵もまた、鏡を見た瞬間に固まった。

二人とも、まるで雷に打たれたように動けない。


世昌は愕然と呟いた。

「……どう……して…………?」


自分の声が震えているのが分かった。

(明国にも……こんな鏡は存在しない……白銅鏡とも違う……これは……何だ……? どうやって作ったのだ?)


胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。


次郎が穏やかに微笑む。

「こちらが、楠予の“新しい鏡”です」


その声は、世昌にはまるで次郎の勝利宣言のように頭に響いた。明国の技術より、自分たちの方が上なのだと。



その後、林世昌は楠予家の鏡に魅了され、大量の鏡の購入を希望した。

だが次郎の方の生産体制が整っておらず、日本国内の需要すらまったく満たせていない状況だ。そのため今回の鏡の取引は、ごく少量にとどまった。


それでも世昌は、次郎に対して最後に一つだけ強く求めた。


『明国の商人には鏡を売らぬこと。

出来れば楠予家の商品の明への渡りは、我ら福建の林一家が一手に引き受けたい』と。


それは現代で言えば“独占契約”にあたるが、世昌の言葉はもっと海商らしい。

「海の道は争えば血を見る。

だが、道を一つにすれば、利は尽きぬ。壬生殿、明国へ渡す鏡は、すべて我が林一家に任せていただきたい!」


そして世昌は林一家の力を示すため、最後にとんでもない発注をして帰った。

それは――特注の大鏡(2m級)、6枚の注文である。

1枚当たりの次郎の売値は5千貫文、日本では常識外れの金額だった。


価格交渉の際、次郎は世昌に嘘を付いた。

次郎の技術なら、2m級は余裕で作れる。だが世昌には『成功率がとても低いので、1枚当たりの売値は物凄いことになりますよ』と言ったら、『5千貫文までなら出せる!』と言われ、即OKしたのだ。


次郎は気づいていないが、これは海商の下位に甘んじている林世昌には到底払えない金額だった。

今回の交易で世昌は3万貫文ほどの仕入れを楠予家でしたが、実は――その殆どは世昌の金では無かった。


弱小の林一家はヨーロッパでもよくある一航海ごとに出資者を募って、利益を分配すると言う仕組みを取っていた。


つまり世昌もまた、次郎に虚偽の申告をしたのだ。



ーーー


世昌は帰りの船の中で作戦を練っていた。


もう出資者を募っての航海はしない。これからは独り立ちして、利益を独占する。

そのためには帰国して……まず李総頭に頭を下げて銀2万両(約2万貫文)を借りる。(※明国の両と日本の両はグラム数が異なる。)


2万両のうち1万5千両は明国での仕入れに使う。

3千両は役人への賄賂、航海費用、村上水軍の警護料(積み荷の10%)などに使い、残り2千両は不測の事態に備えた余裕資金だ。


生糸、高級織物、書籍、生薬、香木を買って伊予に運べば、9万貫文ほどで売れる。全て楠予家が買い取ると次郎殿が言っていた。まあ当然だな、これを堺のように日本で売り替え(転売)すれば30万以上で売れる。


売上の9万貫文のうち5分(5%)は堺と同じく、税として納めなければならない。


残った8万5千のうち、6万を楠予家の商品の仕入れに使い、2万5千は銀に変える。

銀は明国での賄賂、村上水軍の警護料(楠予家の商品の場合5%)に使える上、明国で高値で売れるからな。


ーーー

※村上水軍の料金。


中型ジャンク一隻の場合。


※帆別銭(通行料)

100貫文前後


上乗うわのり(警護)

(警護の水軍1、2名を船に乗せる)

積み荷の数%


※警護料(水軍の船が護衛するフルサポート)

積み荷の5%

(楠予家の品は0%、楠予家の船も0%、楠予家が能島村上に年1万貫文を補填)

ーーー



一番重要な商品は、やはり仕入れの半額の3万貫文で購入する6枚の大鏡だ。


大鏡の1枚は、李総頭を通じて皇帝に献上しよう。そうすればあの鏡なら噂が噂を呼び、俺の元に買取の依頼が殺到するだろう。

いや――そうじゃない。

南蛮人が偶にやっているオークションと言う競売の方が儲かる気がする。

オークションなら王侯貴族や功臣、豪商などが大鏡1枚に銀2万両(2万貫文)以上出す筈だ。


そうなると大鏡だけでも最低でも銀10万両の売上、7万両以上の利益が出る。もし、それだけの利益が毎回出るなら、林一家は一気に勢力拡大できるぞ!


世昌は希望で夢を膨らませた。

明国の国土は広く、富を持つ者の数も桁も日本の比ではない。

楠予家の商品が流行すれば、どれほどの利が転がり込むのか――

想像するだけで胸が熱くなっていた。



ーーーーー


1544年8月

福建省・泉州


林世昌は本拠地・泉州に帰国した。

ジャンク船は南蛮船と違い、逆風でも帆を細かく調整して進むことができる。

福建海商の船乗りたちは季節風を読み、沿岸を縫うように走らせる術を知っていた。そのため逆風のこの時期でも20日余りでの航行が可能だった。



泉州の中心にそびえ立つ李総頭の屋敷。

それは福建海商連合の富と権威を象徴する巨大な建物だった。


林世昌は、屋敷の前で深く息を吸った。

(……銀2万両(約2万貫文)。

下位の林家が扱うには大きすぎる額だ。

だが、ここで勝負に出なければ、林家は未来永劫、弱小のまま終わる!)


隣には義兄弟の張文徳と息子の林忠が立っていた。


張は低く囁く。

「兄者……本当に、銀2万両も借りるつもりなのか。

中級の行首ならともかく、下位の我らが簡単に借りられる額ではないぞ」


世昌は小さく頷いた。

「分かっている。

だが、あの鏡は金になる! 俺の勘が言っているのだ、今が林家の勝負の時だとな!」


世昌は難しい顔をする。

「それに急がねばならん。

あの町の成長は恐ろしく早い。今の林家の規模では楠予家が取引量に不満を持ち、やがて別の海商に品を売るだろう。そうなれば林家が成り上がる機会は二度と訪れん」


息子の林忠が頷く。

「僕は父さんの勘を信じます。父さんが勝負の時だと言うならば僕はどこまでも付いていきます」

「忠、よくぞ言った。それでこそ林家の跡継ぎだ。俺と総頭との交渉を見てよく学ぶのだぞ」

「はい!」


三人が門をくぐると、李家の家臣たちが整然と並び、無言で頭を下げた。

その沈黙が、かえって重い。


案内役の家臣が言う。

「林小行首、総頭がお待ちです。

どうぞ――」


長い廊下を進むたびに、世昌の胸の鼓動が強くなる。


(……失敗すれば、林一家は終わる。

楠予家との契約も白紙になる。だが成功すれば未来が開ける!)


やがて、重厚な扉の前で足が止まった。

家臣が声を張る。


「福建海商連合・小行首、林世昌――参上!」


扉が静かに開いた。

その奥に、福建海商連合の頂点――

総頭・李 景隆が座していた。

鋭い眼光が、世昌たちを射抜く。


「……林世昌。

久しいな。

日本から戻ったと聞いたが――

どうやら“面白い土産話”を持ってきたようだな」


世昌は深く頭を下げた。

「総頭。本日はお願いがあって参りました」


李は薄く笑った。

「聞こう。お前が“命を賭ける覚悟”で来たことくらい、顔を見れば分かる」


世昌の喉が鳴った。

(さすが総頭だ。顔色だけで見抜くとは)


世昌は床に膝を付き頭を下げる。

「銀2万両――

どうか、銀2万両をお貸し願いたい」


広間の空気が一瞬で張り詰めた。

側に控えていた家臣たちが、わずかに息を呑む。

下位家の小行首が決して口にしてよい額ではない。


李は表情を変えず、ただ静かに言った。

「理由を聞こう」


世昌は懐から布包みを取り出した。

中には、楠予家から持ち帰った“小型の鏡”が一つ。

「総頭……

この鏡を、ご覧ください」


李は傍に控える部下に鏡を取りに行かせ、それを興味なさげに受け取った。


だが――

次の瞬間、李の指が止まった。

鏡に映る自分の顔を見た瞬間、その瞳がわずかに揺れた。


「……これは……?」


世昌は静かに言った。

「日本の楠予家が作った鏡にございます。

白銅鏡ではありません。

磨きではなく……“別の技”で作った鏡だと申しておりました」


李は鏡を傾け、光を当て、距離を変えた。

どれだけ離れても、像は歪まない。


「……十歩離れても輪郭が崩れぬ鏡など……明国には存在せぬぞ」


世昌は深く頷いた。

「はい。

この鏡は、明国の王侯貴族が求める品。

巨大な鏡を帝に献上すれば、必ずや噂が広まりましょう。

その需要は……計り知れません」


李は鏡から視線を離し、世昌を見た。

「それで銀2万両か。

お前は……この鏡を“明国で売る”つもりなのだな?」

「はい。

楠予家との独占契約も取り付けました。

明国へ渡すこの鏡は、すべて林家が扱います」


李の口元がわずかに吊り上がった。

「……大胆だな、林世昌。

下位家の分際で“独占”とは」


世昌は頭を石に叩き付け、拳を握りしめた。

「総頭。

この鏡は……林家が成り上がる唯一の機会。

どうか、どうか銀2万両をお貸しください!

必ず利を返し、林家を連合の、いえ李家の力となることをお見せします!」


沈黙が落ちた。

李は鏡を机に置き、ゆっくりと立ち上がった。

「……林世昌。

お前の言葉は半分しか信じられぬ。

それにここでお前に金を貸さなければ、我が李一家が楠予家とやらと取引をする事も出来よう」


世昌は思わず顔を上げた。

「そ、それは!」


「だが――」


李は鏡を指先で軽く叩いた。

「この鏡は……本物だ。

そして“日本に新たな力が生まれた”という事実もな」


世昌の心臓が跳ねた。

李は背を向けたまま言った。

「銀2万両、貸そう」


世昌は思わず顔を上げた。

「総頭……!」

「だが条件がある」

李は振り返り、鋭い眼光で世昌を射抜いた。


「普通ならば貸し金の2割の手数料と年利4割にだけだが、この鏡ならばすぐに返せるだろう。

だが――それでは面白くない。

今後は鏡に関する利益の4割を我が李家に納めよ」


世昌は眉を寄せた。

「そ、それは……」 

(ふざけるな! そんな法外な要求を飲めるか!)


李はニヤリと笑う。

「そうすれば、他の上位五家からも守ってやろう。どうだ悪い条件ではあるまい」


(五家の介入が防げるなら悪くはない。それに楠予家の品は鏡だけでは無い)


世昌は深く頭を下げた。

「ははっ……! 承知しました!」


李は薄く笑った。

「林世昌。

お前は今、海商連合の“危険な道”に足を踏み入れた。

だが――その胆力、嫌いではないぞ」


世昌の胸に熱が走った。

(……これで林家は変わる。総頭の保護があれば潰されない。

下位から……上位への道が開けた!)


李は最後に静かに言った。

「行け。

銀2万両は明日、林家へ届けさせる」


世昌は深く礼をし、広間を後にした。

その背を見送りながら、李は小さく呟いた。


「……林世昌。

お前が李家の“駒”として使えるかどうか……

見せてもらおうか」




ーーーー


2月後の1544年10月。

林世昌は、伊予で次郎から買い付けた6枚の“大鏡”を船に積み、荒天を避けて朝鮮沿岸ルートを通りながら、福建省・泉州の港へと戻ってきた。


本来なら東シナ海を一直線に南下するのが最短だ。

だが、二尺どころか人の背丈を超える大鏡を積んだ船で荒波に突っ込めば、鏡が一瞬で粉々になる。

林は迷わず、釜山から全羅道、忠清道の港を転々とし、風が荒れそうな時はすぐに鏡を陸に揚げて保管すると言う慎重な航海を選んだ。


その判断が功を奏し、6枚の大鏡は一枚も欠けることなく泉州へと持ち帰ったのである。



ーーー


さらに1月後の1544年11月。

総頭・李景隆は、海商としての人脈と朝廷への献上ルートを駆使し、1枚の“大鏡”を嘉靖帝へ献上することに成功した。

福建から北京へ向かう献上品の道筋は、海商が勝手に使えるものではない。

だが李景隆は、福建布政使司や巡撫との繋がりを通じて正式な“貢献上”の枠を確保し、大鏡を“福建の珍品”として扱わせる形で皇帝の御前に届けたのだ。



嘉靖帝は道教に深く傾倒し、珍品・霊物・宝物をこよなく愛した皇帝である。

献上された大鏡を目にした瞬間、その巨大な大きさと澄み切った輝きに息を呑んだ。


「これは……天より授かりし霊鏡ではないのか……」



ーーー


1544年12月

北京・紫禁城

奉天殿


林世昌は、総頭・李景隆とともに玉階の下に跪いた。

天子の前に立つのは、福建海商の下位家としては異例のことだった。

玉座の上から、嘉靖帝の声が響く。


「そなたが……あの大鏡を献じた海商か」


世昌は額を地に付けた。

「はっ……林世昌にございます!」


嘉靖帝はゆっくりと立ち上がり、側に置かれた“巨大な鏡”へ歩み寄った。


「これは……実に奇妙な鏡だ。

二十歩離れても像が歪まぬ。

光を受ければ、まるで霊気を放つようだ」


宦官たちが震えながら頷く。

「陛下、まさに霊験のある宝物にございます」


嘉靖帝は鏡から目を離さずに言った。

「林世昌。

そなた、海禁を破ってこの鏡を持ち込んだな?」


世昌の背筋が凍りついた。

(……っ!?)


嘉靖帝は続けた。


「本来ならば、そなたの罪は重い。

一族は皆死罪。だが――」


皇帝は鏡に手を触れ、微笑んだ。

「朕はこの鏡を気に入った。

よって罪には問わぬ。

その代わり……もう一枚同じ鏡を献上せよ」


世昌は震えながら答えた。

「っ! は、ははっ……!

ありがたき幸せ……!」


嘉靖帝は鏡をさすりながら続ける。

「林よ。朕はこの大鏡を気に入った。毎年1枚献上するのだ」


「……っ! はっ、はは!! 光栄に存じます!」

(ふざけるな! 購入にどれだけの金がかかっていると思っているんだ!)


嘉靖帝はゆっくりと玉座へ戻り、宦官に命じた。


「福建の林家に、銀五百両と絹百匹を与えよ。

さらに――

福建における交易の便宜を図ってやれ」


宦官たちが一斉に声を上げた。

「「ははっ!」」


林世昌は、頭を下げたまま震えていた。


(こ、これは……交易の許可!!)



ーーーーー

※銀500両=500貫文

※絹百匹=8,000〜10,000貫文の価値


下賜された絹は売ること自体は可能である。

しかしこれは“皇帝からの恩寵の証”であり、同時に“官僚社会で使える最強の通貨”でもあった。


下賜絹は、銀よりも強力な「賄賂」として機能する。

下賜絹には、官製であることを示す明確な標識が付いていた。

• 織り込みの紋(雲紋・龍紋・瑞獣)

• 官用規格の色(皇帝の色・禁色)

• 布端に織り込まれた官印(織印)

• 木箱に貼られた封紙(封条)

• 宦官が書いた受領文書(勅賜文書)


これらは市場品には絶対に存在しない。

ゆえに、貰った者や買った者がこれを着ること自体に大きな意味があった。

• 格式が上がる

• 周囲に「官と繋がっている」と示せる

• 宴席での評価が上がる

• 家の格が上がる


※嘉靖帝の「交易の便宜を図れ」という命令は、海禁下でごく一部にのみ許された特例(=限定的な交易許可)である。


1. 福建布政使司・巡撫の取り締まり対象から林家の船が外れる

2. 港湾での検査が緩和される

3. “貢献上”の枠を使った合法的な交易が可能になる

→ 献上品ルートに商品を紛れ込ませることができる

4. 密貿易の黙認(=「見て見ぬふりをせよ」という意味)


ーーーーー


世昌は涙を流した。


(これからは密貿易のたびに怯える必要もない。

官吏への賄賂も、船を没収される恐れも全て無くなる!)



(林家は……とんでもない力を手に入れた!!)


世昌の体が震えていた。

だがその震えは恐怖ではなく、未来を掴んだ者だけが抱く、狂おしいほどの昂ぶりだった。



その隣では総頭・李景隆が林を横目で見ながら、静かに嘉靖帝に頭を下げていた。


明代の皇帝は、組織ではなく“個人”に恩寵を与える。

ゆえに林個人に褒美が与えられた事は当然であった。

だが――交易許可は想定外だった。


総頭・李景隆は心算する。


問題はない。

林家には鏡に関する四割の利益を進上するように手を打ってある。

総頭の地位を狙う五家よりも、恩を与えた子飼いの林家に力を持たせる方が扱い易い。

しかし――首輪は必要だ。


……林世昌には成人したばかりの息子がいたな。

なかなか利発そうな若者だった。

わしの可愛い孫娘の相手に丁度いい、めあわせてやろう。

きっとお似合いの夫婦になる……くっくっく。



ーーーーー


約一年後。


林家は嘉靖帝に3枚目の鏡を献上し、再びお褒めの言葉を賜り名声を高める事になる。


1545年は林家の躍進の年だった。

林世昌の息子・林忠は、総頭の孫娘・李瑶光り・ようこうを娶り、林家は“総頭家の外戚”という強力な後ろ盾を得た。

そして大型ジャンク船一隻を購入し、小行首から行首への昇格を果たした。

福建海商連合の中で、林家の名は日に日に重みを増した。


だが林家の躍進は、まだ終わらない――始まったばかりだった。

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