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99 『行進訓練』と『会合衆』

 1543年3月初旬。

 池田の里・訓練場


 正重は1月後の出陣に備え、源太郎、次郎、玄馬を伴い訓練場の視察に出かけた。


 訓練場の入口では、軍部管理責任者の大保木佐介が正重を出迎えた。

「御屋形様の視察とあらば、兵たちも心を引き締まりましょう」


 正重はゆるりと頷き、視線を訓練場の奥へと向ける。

「うむ……領土の急拡大により、新兵の割合が多いからのう。どうにも気になって参った」


 大保木佐介は胸を張り、落ち着いた声で答えた。

「此度の戦では新兵は後方の守備に就かせます。御屋形様が案じられるほどのことはございませぬ」


 その言葉に源太郎が一歩進み出て、険しい表情を浮かべた。

「いや、油断はならぬぞ。河野通宣の配下の豪族衆が宇都宮家と接触しているとの報告があった。湯築城あたりで反乱が起こる可能性がある。念には念を入れねばならん」

「はっ!」


 訓練場の中に入ると、次郎たちは足を止めた。

 広場では又衛兵が新兵を相手に声を張り上げ、槍の音が乾いた空気を震わせている。

 兵たちの額には汗が光り、号令に合わせ必死に槍を振っていた。


 次郎が声を掛けた。

義兄上あにうえ!」


 その声に又衛兵が振り返り、驚いたように目を見開いた。すぐに副官へ合図を送り、新兵の訓練を任せると駆け寄ってくる。


「御屋形様が訓練場にお越しとは……珍しいこと。何かご用でしょうか」


 正重が軽く顎鬚を触り応じる。

「うむ、新兵たちの様子が気になってな。どうだ、鍛え具合は?」


 又衛兵は少し困ったように眉を寄せた。

「元河野家の兵が多いため、槍や弓の扱いに不安はございませぬ。

 それに部隊単位の統制による指揮能力の向上があるので、新兵の部隊だけでも他国の常備兵よりは強いと存じます」


 そこで又衛兵は遠くで訓練する兵士たちを見た。

 「しかし、楠予家の古参の常備兵のように、連携の取れた動きがまだ身についておりませぬ。新旧の兵が混じれば和が乱れ、部隊の力が大きく削がれるのです。

 模擬戦を行った結果、新旧100人を合わせた部隊は、古参50人の部隊に負け申した」


 その言葉に次郎が口を挟んだ。

「……ならば、行進訓練。足並みを揃える訓練を加えてはどうでしょう。手足を揃え、声と歩調を合わせれば、軍隊としての一体感と連帯感が生まれるでしょう」


 又衛兵が眉を寄せる。

「次郎がまた、妙なことを言い出したな。そのような訓練は聞いたことがないぞ」


 次郎は真顔で続けた。

「行進訓練は、兵の心を一つにまとめ、統制を高めます。

 規律を叩き込み、戦場での動きを揃えることにも役立ちます。

 さらに歩調を合わせることで体も鍛えられ、持久力も増すのです」


 又衛兵は首を傾げ、半ば呆れたように笑った。

「……次郎、何を言っているのか、さっぱり分からんぞ」


 正重は笑いながら顎鬚を撫でる。

「又衛兵、分からぬ時は次郎の言う通りにしておればいいのだ」

「はっ!」


 次郎が慌てて反論する。

「御屋形様、それではいけません! 指揮官の意味が分からないままでは効果が半減します! よく聞いて下さいね、詳しく説明しますから!」


 その後、正重たちは行進訓練の意義を一刻(約二時間)にわたり、指導を受ける事となった。


 次の日から行進が訓練項目に加えられた。

 この行進訓練は新兵だけでなく、古参の兵の連携を更に鍛え上げる事になる。


※※※※


 3月中旬。

 京の都。

 公家の武家伝奏・勧修寺尹豊かじゅうじ ただとよの屋敷。


 広間には公家たちが列座し、沈黙の中に緊張が漂っていた。

 尹豊が声を張り上げる。


「楠予正重殿を、従五位下を叙し、伊予守に任ずる」


 その言葉は、朝廷の権威を背負った響きであった。

 友之丞は深く頭を下げ、両手で書状を受け取る。

 朝廷に任官された事で、楠予家の格は、一段高みに上った。


 ーー

 それから数日後、友之丞は朝廷との取次の礼を述べるため、摂津にある三好範長(長慶)の屋敷を訪れた。

 摂津には細川晴元の居城・芥川城があり、その周辺に長慶の屋敷があったのだ。


 友之丞が広間に通されると、範長は静かに座していた。若き当主の眼差しは鋭く、細川家の重臣の名を背負いながらも、その覇気はすでに主家を凌いでいた。


 友之丞は深く頭を下げた。

「このたびの官位授与、範長様のお力添えにより成就いたしました。楠予家一同、心より感謝申し上げます」


 範長はわずかに頷き、低く応じた。

「礼には及ばぬ。だが、官位は飾りではない。背負う覚悟をお忘れあるな」


 友之丞はさらに頭を下げ、懐から包みを取り出した。

「これは御礼のしるしにございます。三百貫、どうかお受け取りくださいませ」


 広間の空気が張り詰める。家臣たちが目を見開く中、範長は静かに包みを受け取り、口元にわずかな笑みを浮かべた。

「楠予家は心得ておる。細川家に献金しただけでは足りぬ。実際に動かす者に礼を尽くす、それが道理よ」


 友之丞は胸の内で思った。

(……やはり、この人こそ畿内の実力者。細川家の名を借りてはいるが、実際に動かすのはこの三好範長だ)


 幕府の実権は管領・細川晴元が握っていた。だが、細川家の実務を担い、畿内を動かしていたのは三好範長であった。


 ーーーー


 友之丞が去ったあと、三好範長は脇に控える側近・松永久秀を見た。


「久秀は楠予家を如何見た?」

「そうですな……。楠予は交易で栄えていると御用商人の『ととや』が申しておりました。朝廷と細川だけでなく、三好家にまで官位の授与の前に200貫文、さらに授与後に300貫文を贈って来た事からも相当に裕福であるかと」


『ととや』とは千宗易(後の千利休)の屋号であり、この時代、三好家の御用商人を務めていた。


 範長は久秀の言葉に静かに頷いた。

「裕福であることは力の源だ。だが、それだけではない。久秀、手を出せ」

「はっ?」


 久秀は首を傾げながらも、手を差し出した。長慶はその手の平の上に、楠予家から送られた金平糖を1つ置いた。


「殿、これは?」

「金平糖と言う菓子だ。楠予家にはこのような菓子を作る技術があるのだ。舐めてみよ」

「……これは甘いですな」

「そうだ、砂糖から出来ておる。これ一つで米六升の値と同じらしい」


久秀は舌に残る甘味を確かめながら、眉をひそめた。

「米六升……。堺衆が申す通り、楠予家は交易で栄えている証左にございますな」


 範長は目を閉じ思い浮かべる。

「それだけではない、楠予の軍だ……。和議が成った後、余は商人に成りすまし楠予軍に近づいて見たのだ……」

「殿……?」


 久秀は範長が険しい顔で思考する姿に、異様なものを感じた。


「戦えば……恐らく我が軍は負けていたであろう。余はあの一糸乱れぬ楠予軍の姿が目に焼き付いておる。長槍隊、弓隊、騎馬隊が整然と行軍する威風堂々たる様は、畿内ですら見た事がない……」


 当然だが、範長は次郎の最新の行軍教育を知らない。それでも範長が見た楠予軍は、他国とは比べものにならないほど規律正しく行軍していたのだ。


 久秀は首を振る。

「まさか三好軍よりも強う筈がございませぬ。そのような事は……」


 範長は久秀の言葉に目を細めた。

「信じられぬか……。ならばそなた、余の代わりに楠予軍を見て参れ。

 近々、楠予家が伊予統一のための戦を起こすと聞く。

 余の直感が正しければ、いずれ楠予は大内と覇を競うほど大きくなる。場合によっては刃を交えることもあろう。楠予を知る必要がある」


 久秀は頷いた。

「承知仕りました。某が本当に三好軍よりも強いか、この目で見極めて参りまする!」


 範長は鋭い眼差しで久秀を射抜いた。

「そなたほどの目を持つ者はいない、頼んだぞ久秀」

「ははっ!」



※※※※

 堺の町。会合衆。

 周囲に堀をめぐらせた環濠かんごうの内にある堺の町。その中央にある会合所の広間には、有力な豪商たち、会合衆が集まり定期会合を開いていた。


 木材を扱う町衆である紀之屋八兵衛が声を上げる。

「楠予家の直営店、あれはどうにも厄介だ。薬に椎茸、塩に砂糖、清酒と呼ばれる濁りの無い酒、それに木材……我らの商いを脅かすばかりだ」


 油屋常言が首を振る。

「楠予家は我らに友好的だ。楠予家の重臣・壬生次郎殿は、足踏み式の油絞りの技術を無料で伝授してくれたではないか。おかげで今では、以前の倍の量の油を扱うようになり、利も大きくなっている」


 摂津屋孫六が頷く。

「ほんまや、恩もあるで。楠予の砂糖菓子は珍しゅうて、京でも畿内でも土産物に重宝されとる。間を取り持つわいも、だいぶ儲けさせてもろてる。下手に敵対したら、敵わんで」


 広間に沈黙が落ちる。商人たちは互いに顔を見合わせ、誰も軽々しく楠予を敵と断じなかった。


 やがて年長の町衆が低く呟いた。

「楠予は商人の真似事をしているが、実際は武家の力を背景にしておる。利権を奪われる恐れもあるが、所詮は地方の大名。博多商人と同じとでも思えばよかろう」


 広間は静寂に包まれ、会合衆の誰もが『楠予家』という新たな勢力の登場を認識した。


ーー

 会合の帰り道、紀之屋八兵衛は千宗易に声を掛けた。

「ととやは何も言わなんだが。楠予家の事、どう思っとるんや?」

「そうですな、なかなか面白いお武家はんだと思とります。どうも茶の湯に興味をお持ちのようで、茶器をようこうてくれとりますわ」


 紀之屋は怪訝な顔をする。

「武家に茶の湯がわかるんかいな」

「さぁ、どうでっしゃろ。重臣の壬生はんが、砥部と言う所で茶器を作りなはってな。わてに見てほしいと、送って来なはったんやけど、中々の出来でしたわ」


 次郎が千宗易に送った茶器は、砥部で作った焼き物の中でも最下級の品が選ばれ送られた。

 あまり良いものを送って、宗易や茶の湯に関わる者たちのプライドを傷つけ、『砥部焼は大した物ではない』と言う評価を付けられる事を避けるための策であった。


 紀之屋は眉を寄せる。

「次から次へとようやりおるなぁ! いったい楠予家とは何なんや。異国の技術者の集団でもついとるんかいな?」


 宗易は笑う。

「どうでっしゃろ。機会があれば、池田に行ってみるのもおもろいかもしれませんな」


 次郎は宗易に『茶の湯を教えて欲しと』との打診をしていた。だが三好家の御用商人である宗易は、『機会があれば』と返答していたのだ。


そして――その機会はすぐに訪れた。三好家の家臣・松永久秀が、池田に行く船の手配と商人の身分証の用意を宗易に依頼して来たのだ。

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