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98 『うごめく陰謀』

 1543年2月下旬。

 楠予屋敷。


 次郎が正重に呼ばれ、屋敷の奥の間に入ると、源太郎と玄馬の2人がすでに座していた。

 次郎が席に着こうとしたその時、廊下の方から足音が近づいてきた。


 襖が静かに開き、藤田孫次郎が姿を現す。

「藤田孫次郎、お呼びと聞き参上致しました」


 正重が頷き、手で座を示す。

「よい、座れ。今日はお前にも聞かせたい話がある」


 孫次郎は深く一礼し、次郎の隣に腰を下ろした。

 次郎は思わず眉を上げる。


(孫次郎まで呼ばれるとは……。御屋形様は何を話す気だ?)


 正重は低い声で言った。

「孫次郎、わしと京の帝、お主に取って大切なのはどちらじゃ?」


 孫次郎は首を傾げ、すぐに答えた。

「……意味が分かりませぬが、御屋形様に決まっております。朝廷に対する忠義などはこの孫次郎、持ち合わせておりませぬ。武士とは主君のために戦うもの。鎌倉以来、武士が朝廷と刃を交え、兵を挙げた天皇を処罰し、配流した事も珍しくはございません」


 正重の脳裏に、古き戦の記憶がよぎった。

――承久の乱。

 後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討たんと兵を挙げた時、御家人たちは動揺した。

 だが北条政子が尼姿のまま壇に立ち、声を張り上げた。


『故右大将軍(源頼朝)が朝敵を征罰し、関東を草創して以来、官位も俸禄もその恩は山より高く、海より深い。その恩に報いる志が浅いはずはない。今、逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。名を惜しむ者は速やかに敵を討ち、三代将軍の遺跡を守れ』


 その言葉に御家人たちは奮い立ち、幕府軍は上皇軍を打ち破った。武士の主君への忠義が、帝への忠義を凌いだのだ。結果、後鳥羽上皇は隠岐へと配流された。


 正重の目が細くなり、しばし孫次郎を見つめた。

 源太郎が注意する。

「孫次郎、我ら楠予一族は、後醍醐天皇に忠義を尽くした楠木正成様の末裔だ。天皇への忠義を全く持ち合わせていないのは問題だ」


 孫次郎は頭を下げた。

「失念しておりました。申し訳ございませぬ」


 正重は声を落とし、広間の空気をさらに張り詰めさせた。

「孫次郎を信じ、楠予家の秘事を明かそう。実は――」


 正重は楠予家が、南朝の後醍醐帝の末裔である小倉宮家を密かに保護している事や、そうなった理由を重々しく語った。

 その言葉は広間に重く響き、孫次郎の表情から笑みが消え、ただ真剣な眼差しだけが残った。


 そして最後に正重は問うた。

「次郎には南朝の復活は無理だと言われた。

 だが孫次郎、そなたにならば南朝を復活させる手立てが思いつくのではないか?」


( っ! やはり御屋形様は、まだ諦めていなかったのか!)


 孫次郎は深く息を吸い、目を閉じて暫し考え、静かに答えた。

「……次郎殿の申される通りにございます。いま南朝を復活させれば、小倉宮家の正統性は民に疑われ、朝廷にも否定されるでしょう。

 そして楠予家は朝敵とされ、諸国の大名に楠予家討伐の勅命が下されます。そうなれば諸国の大名の兵がこぞって楠予領に押し寄せ、お家滅亡は免れませぬ」


 その言葉を聞いた正重は、深く項垂れた。

「……そうか」


(さすがだな孫次郎、よく分かっているじゃないか。いや分からない御屋形様がおかしいのか……)


 孫次郎は、静かに言葉を継いだ。

「……されど、時を掛け、周到に備えれば南朝の復活は不可能ではございませぬ」


(おい! 何を言い出すんだ孫次郎! 南朝の復活なんてできる訳がないだろ!!)


 源太郎が目を見開き、期待した眼差しで問う。

「孫次郎、その手法を申して見よ!」

「はっ。まずは小倉宮家の正統性を取り戻さねばなりませぬ。南朝復活はその後の事になります」


 玄馬が眉を寄せる。

「正当性を取り戻す……、その様な事が可能なのか?」

「はい、次郎殿のお陰にございます」


(え? 俺のお陰ってどう言う事!?)


 孫次郎は得意げに語る。

「たとえ御屋形様の言葉でも、楠予領の民ですら小倉宮家の正統性を疑うでしょう。ならば御仏の言葉を借りれば良いのです」

「御仏の言葉……もしや真律宗か!」

「はい、真律宗の開祖・宗念は楠予家と密接な関係にあります。小倉宮家の末裔には一時的に出家して貰い、宗念、つまり開祖に次ぐ地位を与えさせます。そして民に後醍醐帝の血脈は続いていると伝え、存在を再認識させるのです」


 正重の目が細くなり、じっと孫次郎を見据えた。

「……なるほど。御仏の言葉を否定できる者はおらぬな」


 源太郎は身を乗り出す。

「上手い策じゃ、南朝は100年前まで中央で存在した。その子孫がいると伝えるだけならば民は疑わぬ、まして御仏の言葉だ。それに真律宗はすでに領内に広がっておる。小倉宮家が真律宗に認められているとなれば、民に疑う余地は無い」


 玄馬は腕を組み、頷く。

「では宗念に楠予雅良様、いえ小倉宮雅良様に大僧正の地位を与え、後醍醐帝の末裔として大切に扱うよう伝えます」


(おい待て……俺が焼肉のために作った宗派が、まさか南朝復活の道具にされてるのか!)


 正重はゆっくりと頷いた。

「……孫次郎、そなたの策、見事じゃ。そして真律宗を楠予家の宗派として育ててきたのは次郎の功。これで南朝復活の道が見えた……」


(見えちゃダメだろ! 俺にそんな意図はなかったんだよ! 勝手に南朝復活の功労者に仕立てるな!)


 源太郎が声を震わせる。

「御屋形様、次郎と孫次郎は天が楠予に、いや南朝に与えた恩寵にございますな!」


 正重は感極まった声で言う。

「その通りじゃ。楠予の両次郎は御仏の恩寵じゃ」


(両次郎ってなんだよ、勝手に兄弟みたいにしないでくれる! それって秀吉が、竹中半兵衛と黒田官兵衛を羽柴の両兵衛って言ってたの真似たでしょ! ……いや御屋形様が知る訳ないか)


 正重が源太郎に言う。

「策は成った……よい。まずは宗念に使いを出し、小倉宮雅良様の存在を天下に知らせさせよ。そして雅良様を大僧正として迎えるよう準備をさせるのだ」

「はっ!」


 玄馬が付け加える。

「まずは雅良様に南朝復活のめどが立った事と、一時的に出家して頂く事をお伝え致します」


 次郎が身を乗り出す。

「お待ちください。南朝をいずれ復活させると言う事は、今の朝廷に官位を貰わぬおつもりですか?」


 広間に冷たい空気が流れた。

 源太郎は腕を組み、深く息を吐いた。

「……官位か。今の朝廷から官位を賜れば、南朝復活の折に旗は揺らぐだろう。だが、官位を得ねば格も上がらず、逆臣と見なされるやもしれぬ」


 孫次郎が口元に笑みを浮かべ、静かに言った。

「なにも悩まれる事はございませぬ。官位は買っておいて損はありません。

 南朝復活は、今すぐに成るものではございませぬ。御屋形様が幕府や本願寺の、両方を相手に出来るほどの兵力を備えた時、新たな帝を頂く大義名分を作ればよいのです」


 玄馬が問う。

「なるほど、どのような大義名分を?」

 孫次郎は笑う。

「状況によるので、そのような先の事まで存じませぬ。ですが所詮、大義名分など、ただのこじ付けに過ぎません。例えば、今の戦乱を北朝のせいにしても良いですし、いくらでもあると存じます」


 正重が膝を叩く。

「よかろう。玄馬、細川家に使いを出し、武家伝奏へと話を通して貰え」


 ※武家伝奏ぶけてんそうは、室町時代から江戸時代にかけて朝廷に置かれた役職で、公家が任じられ、武家(幕府)と朝廷の間の連絡・交渉を担当した。


 次郎が訊ねる。

「あの、ところで官位を貰うのってどのくらいお金がいるんですか?」


 玄馬が応える。

「そうだな。まず幕府、つまり細川家に献金をせねばならぬ。これが道を開く鍵となる。さらに官位を賜るには朝廷への礼も必要じゃ。金銀や絹を献上し、しかるべき公家、すなわち武家伝奏に取り次ぎを頼むのだ。


 官位の位階にもよるが、伊予守いよのかみならば従五位下に叙された上で任官される。これならば細川家に1000貫文、朝廷に500貫文と言うところだろうな」


 次郎が目を見開き驚く。

「え、細川家の取り分の方が多いのですか!」


(それって、ボッタクリじゃね!?)


 玄馬が笑う。

「仕方あるまい。細川家は幕府管領として朝廷との窓口を握っておる。道を開くには、まずはそこを通さねばならぬのだ。それに大名が出せる金には限りがある。朝廷は貧乏だからな、僅かな取り分でも納得せねばならぬのであろう」


 次郎は玄馬を見る。

「もう一つ気になるのですが、幕府の、足利将軍の取り分はないのですか?」


 玄馬が頷く。

「そうだ。足利将軍に直接の取り分はない。

 官位を賜る道筋は、管領細川家を通じて武家伝奏に取り次がせるのが慣例じゃ。

 将軍は形式上、朝廷からの官位を承認する立場にあるが、実際の交渉と金の流れは管領家と公家筋に集まるのだ」


 次郎は眉をひそめた。

「つまり、将軍は立場だけを保ち、実際の利は管領や公家が握っていると……」


 源太郎が静かに頷く。

「その通り。金を貰うのは権威を取り次ぐ者たち。足利将軍は承認する事で権威を保っているに過ぎぬ」



 数日後、友之丞は使者として細川家へと旅立った。

 冬の冷たい風が吹く中、彼の顔は喜びに満ち溢れていた。彼の背に楠予家の命運がかかっていると言う誇りが、そうさせたのだ。



 ※※※※

 3月初旬。

 大友家・府内城ふないじょう


 祖母井之重うばがい・これしげ大友義鑑おおともよしあきに援軍を請うため府内城を訪れていた。



 義鑑はしばし黙して考え、やがて頷いた。

「よい。戦となれば、楠予家の背後を突くとしよう」


 祖母井は深く頭を下げた。

「恐れ入りまする。ご助力、まことにありがたく存じます」


 戸次鑑連べっき あきつらが手を上げ止める。

「お待ちください! 楠予は強敵、舐めてはなりませぬ!」


 義鑑は戸次を睨む。

「その方が大友の名に傷を付けたのであろう! 先の戦では、河野家の援軍として赴きながら楠予家に手痛い反撃を被り折ってからに!」


 戸次は苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「あれは……総大将の吉岡重孝様が討たれたゆえ総崩れとなり、我らはやむなく兵を退いたのでございます」


 義鑑は声を荒げ、戸次を鋭く指弾した。

「では副将のそなたに責はないと申すか! 総大将が討たれたならば、なおさら軍をまとめるのは副将の務めであろう!」

「っ……申し訳ございませぬ」


 この頃の大友家では臼杵鑑続・吉弘鑑理・一万田鑑相らが重く用いられ、戸次鑑連べっき あきつら、すなわち後の立花道雪は、まだ副将格に過ぎず、義鑑からは重用されていなかった。


 吉岡長増が声を掛ける。

「御屋形様、戸次は悪くありませぬ。全ては敵を見くびった我が父の慢心が招いた事にて、父に代わりお詫び申し上げます。戸次はただ命に従い奮戦し、殿を引き受け多くの兵を救った剛の者にて、責めるべきではありませぬ」


 義鑑は舌打ちをした。

「もうよい! 此度はわし自ら一万の兵を率いて出陣する。

楠予を討ち、敗戦の屈辱を晴らす。そして大友家が伊予を支配するのだ。

戸次は汚名返上に努めよ!」


 義鑑の『大友が伊予を支配する』と言う言葉に、祖母井は一瞬眉を顰めたが気づく者はいなかった。


 戸次は深く頭を垂れた。

「ははっ……御意にございます」


 その声は低く、押し殺した怒りと悔しさを含んでいた。


 吉岡長増は目を大きく開けた。

「お待ちください! 豊後水軍の運搬力では一度に5000の兵を運ぶのが限度にございます。それに食料や物資の運搬を考えれば何度も往復する必要が出ます」


 義鑑は不敵に笑った。

「食料など敵地で徴収すればよい、万一の時は宇都宮と西園寺が支援する。そうであろう、祖母井殿」

「はっ。責任を持って宇都宮家が支援致しまする!」


 義鑑は満足げにうなずいた。

「よし、ならば万全である。わしが1万を率いれば楠予など一溜まりもないわ!」


 祖母井はニヤリと笑う。宇都宮家と西園寺家が力を合わせれば3500の兵が集まる。そこに義鑑が1万の兵で楠予の後方を突くのだ。楠予軍が5000の大軍と聞き一時は肝を冷やした祖母谷だが、今は楠予に勝利する未来しか見えなかった。

 祖母井の脳裏には、正重が討ち死にする光景がまざまざと浮かんでいた。


ーー


 その頃、土佐では。

 西園寺家の家老・土井清晴が土佐の盟主・一条房基と謁見していた。


 一条房基は扇を軽く膝に打ち、柔らかに微笑んだ。

「よかろう。楠予はいずれ土佐を窺うであろう。一条家として西園寺を守護するは道理。3000の兵を遣わすといたそう」


 土居清晴は喜び、深く頭を垂れた。

「恐悦至極に存じまする。一条家の御威光、まことにありがたく、末代まで忘れませぬ」


 太閤検地では土佐の石高は10万石とされ、逆算により当時の一条家は3万石程度の大名とされた。

 しかし1601年、山内一豊に与えられた公式の知行高(表高)は20万2600石であった事や、土佐の戦国期の動員兵力が7,000~1万規模であったことを考えると、長宗我部家が過少申告したことはほぼ間違いなと思われる。


 史実の四万十川の戦いでは長宗我部が7300、一条家が3500の兵を動員している。この世界の土佐は20万石を誇り、そのうち7万石を一条家が有していた。この7万石により一条家は史実通り3000規模の兵を動かす事が可能だった。

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