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96 『河野通宣の臣従』と『カツオ戦争』

 1542年12月下旬。

 池田の里・楠予屋敷。


 河野通宣こうの みちのぶが臣従の挨拶のため楠予屋敷を訪れた。そのため屋敷の大広間に、楠予家の一族や重臣たちが集まっていた。


 通宣は正装に身を包み、正重の前に深く頭を垂れ、静かに口を開いた。


「兄・晴通亡き後、河野家の家督を継ぎし通宣にございます。此度、楠予家の威に庇護を求め、臣従を誓い奉ります。先祖伝来の湯築城と、周辺の所領を安堵して頂いた御恩に報いるため、今後は楠予家の家臣として、命を惜しまず尽くす所存にございます」


 歴史ある河野家の臣従によって、大広間の空気が僅かに張り詰めた。重臣たちは通宣の言葉を聞き『此処まで来たか』と感慨にふける。


 正重がゆっくりと頷いた。

「よかろう。楠予家は河野家を庇護する。楠予家は忠誠を尽くす者には必ず報いる。通宣、心して励め」


 通宣は再び深く頭を下げた。

「ははっ……」


 こうして河野家は正式に楠予家の臣下となった。


ーー

 その日の夜。大広間には灯がともり、ふすまには柔らかな影が揺れていた。

 河野通宣を重臣の一人として迎え入れる宴を行うため、楠予家の一族と重臣たちが座を整え、膳には山海の珍味が並べられていた。


 その中央には――火鉢の上に据えられた土鍋が、湯気を立てながら置かれていた。


 次郎が立ち上がり、声を張る。

「本日の宴には、新たな鍋料理を用意致しました。名を“すき焼”と申します。肉と野菜を割下で煮込み、卵にくぐらせて食すものです」


 作兵衛が喜ぶ。

「鍋料理か! 寒い冬には嬉しい馳走じゃ!」


 だが通宣は眉を寄せ、火鉢の上でぐつぐつと煮える鍋を見つめていた。

「……火鉢で鍋を煮るなど聞いた事がない。だが香りは良いですな」


 正重が静かに頷く。

「次郎の工夫よ。囲炉裏がなくとも皆で鍋を囲める。通宣、まずは口にしてみよ。わしも以前食べた事があるが、真に美味い」


 侍女が蓋を開けると、甘辛い香りが広間に広がり、湯気が立ち上った。牛肉が赤から褐色へと変わり、里芋や大根が柔らかく煮えている。


 通宣はしばし逡巡したが、正重の視線を受けて卵を割り、肉を口にした。

「……これは……某の知る肉と違う。とても柔らかい。それに卵がこんなに美味いと思ったのは初めてでござる」


 又衛兵は豪快に笑い、肉を頬張った。

「うむ! やはりすき焼きはよい。箸が止まらぬわ!」


 大野虎道が頷く。

「肉も野菜も美味い、この汁の味もよいな、何とも言えぬ旨さじゃ」

 大保木佐介が笑う。

「大野殿、これは白い飯ともよく合いますぞ」

「おおっ、確かに一緒に食べても美味いな!」


 兵馬は杯を傾けながら呟いた。

「他家では真似できぬ饗応……楠予家の威を示すに足るな」


 作兵衛は徳利とっくりを持ち上げる。

「次郎殿、この清酒と言う酒の熱燗は美味いのう! 心まで暖まるようじゃ」


 次郎は笑って応える。

「作兵衛殿は、清酒は初めてですか? 半年前から楠予家の酒屋で売ってますよ」

「なんじゃと! 次郎殿、そう言う事は早く教えてくだされ!」


 重臣たちの笑い声が飛ぶ。


 通宣は楠予家の重臣たちが、仲良く飯を食べる光景に思わず目を閉じた。

「……なるほど、河野家とは何もかもが違う。楠予家の力は、戦だけではなく食にも、重臣たちの和にもあったのだ。父は元より、あの優秀な兄ですら勝てなかった訳だ……」


 作兵衛は徳利を傾け、笑った。

「通宣殿、戦は兵の力だけではない。領を豊かにし、人を養う術こそが勝敗を分けるのです。楠予家は強うございますぞ」


 友之丞が言葉を添える。

「その通り。他家は贅を隠し、質素を装う。だが楠予家は逆だ、美味い物を家臣と分け、宴を大いに楽しむ。これが楠予流でござる」


 通宣は頷いた。

「本当に河野家とはまったく違います。よく分かりませぬが、楠予家はなんだか楽しそうです」


 又衛兵は豪快に笑い、杯を掲げた。

「うむ! この鍋を囲めば、誰もが兄弟のように心を通わせられる! 通宣殿も今日よりは兄弟じゃ、遠慮なく楠予家を頼られるがよい」


 次郎が真剣な顔で通宣に言う。

「通宣殿、河野家の豪族衆たちが、楠予に寝返ろうとしていた事はご存知ですよね」


 通宣は静かに頷く。

「はい、兄を失くして河野家は風前の灯でした。ですので国人衆に裏切られる前に降伏を願い出たのです」

「その寝返ろうとした国人衆を全て通宣殿に押し付け、国人衆の所領を奪ったのは我々、楠予家です」


 次郎は一呼吸置いて告げる。

「ゆえに国人衆の不満が通宣殿に向かい、良からぬ事を企てれば、楠予家が通宣殿をお守ります。もし国人衆にお命が狙われる事があれば、すぐに湯築城を捨て、ここに逃げて来て下さい。楠予家は決して通宣殿の責任を問いませぬ」


 通宣は深く息を吸い、杯を置いた。

「……壬生殿、ありがたく存じます。河野家は既に力を失いました。楠予家の庇護なくしては、生きられませぬ」


 正重が静かに頷き、低く言葉を添える。

「通宣、心して励め。楠予家は忠誠を尽くす者を決して見捨てぬ。だが裏切りには容赦せぬぞ」


 玄馬が冷ややかに笑った。

「国人衆の不満は強かろう。通宣殿は若い、無理をして命を懸ける必要はないのだ。次郎の言う通り、危険だと思えば何時でも逃げて来られよ」


 通宣の頬に涙が伝う。

「……ありがとうございます。父が兄を殺し、身内も家臣も信じられぬ中で河野家の当主となりました。

 当主となってからは、責任の重みと、いつ兄のように暗殺されるかと、侍女にも怯える毎日でした。

 今、初めて生きた心地がしております……」


 広間は静まり返り、重臣たちはその涙に言葉を失った。

 正重は杯を置き、低く言った。

「よい。涙を恥じる事はないぞ。そなたは僅か20歳の若さで、河野家と言う重荷を背負わされたのだ。これよりは楠予家がそなたを守る」


 通宣は震える手で杯を取り直し、深く頭を垂れた。

「……御屋形様と皆々様の温かさ、この通宣、終生忘れませぬ。

 これよりは御屋形様を真の父と思い、忠誠を尽くします」


 その声は涙に濡れていたが、確かな決意が宿っていた。広間の重臣たちは静かに頷き、楠予家と河野家の結びつきが、形式ではなく心からのものとなったことを感じ取った。


 又衛兵は豪快に笑い、肉を卵にくぐらせて口に運んだ。

「うむ美味い! 楠予家の重臣は皆兄弟のような者じゃ。通宣殿、これからは共に戦おうぞ!」

「はい!」


 広間は再び湯気と笑い声に包まれた。


ーー


 数日後、楠予家では論功行賞が行われた。

 壬生次郎には新たに所領1000石と俸禄1000石が加増され、知行は所領・俸禄ともに2500石に達した。

 これにより次郎の重臣筆頭としての地位は、さらに揺るぎないものとなった。



 ※※※※※

 1543年1月初旬。


 伊予西南部を支配する宇都宮家と西園寺家の使者が、同じ日に楠予屋敷を訪れた。


 冬の昼下がり、広間には冷たい陽光が差し込み、楠予家の重臣が左右に座し、二家の使者が中央に並んで座した。


 宇都宮家の使者・祖母井之重うばがい・これしげは慎ましく口を開いた。

「このたび河野家を降伏させた事、まことにおめでとうございます。楠予家の威、伊予南部にまで轟いております」


 西園寺家の使者・土居清晴も続けて言う。

「西園寺家も心よりお祝い申し上げます。楠予家の勝利は、伊予の安寧をもたらすものになるでしょう」


 広間には祝辞が響き、楠予家の重臣たちは冷ややかに笑う。


 正重は静かに頷き、扇を膝に置いた。

「両家の祝意、まことにありがたく。楠予家は伊予の安寧を重んじ、共に歩む所存である」


 祖母井之重は深く頭を下げ、静かに言った。

「御屋形様のお言葉、宇都宮家にとっても望外の喜びにございます。

 伊予の安寧のため、楠予家と歩みを共にできること、まことに光栄に存じます」


 土居清晴は扇を軽く打ち合わせ、朗らかに声を響かせた。

「楠予家の御志、まことに頼もしく存じます。

 西園寺もまた、伊予の安寧を願う一族。今後は互いに力を合わせ、乱世を乗り越えて参りましょうぞ」


 次郎が一歩進み出る。

「お待ち下さい」


 祖母谷と土井の視線が『何事か』と次郎に向かった。


 次郎は二人に怯まず堂々と述べる。

「祖母谷殿、私は楠予家の重臣筆頭・壬生次郎と申します。共に道を歩むつもりならば、宇都宮家に置かれましては、まずは当家の所領をお返し願いたい」


 祖母井之重は眉間に皺を寄せる。

「……何の事か分かり申さぬ」


 次郎は祖母井を睨みながら首を振る。

「誤魔化しても無駄です。河野家の家臣、久保高行の滝山城とその所領の事でござる」


 祖母井は次郎の言わんとする所を察した。ゆえに次郎を睨みつけた。

「久保殿は、河野家が楠予家との戦の最中に当家に寝返った。つまり、楠予家には関係の無いことにござる。言いがかりはよして頂きたい」

「これは楠予家家臣・河野通宣殿からの願いでござる。返して頂かねば、宇都宮殿とは共に道を歩む事はできません。土居殿からも祖母井殿を説得して頂けませぬか?」


 土居清晴は次郎を鋭く見やった。

「壬生殿、祝賀の場で所領の話を持ち出すとは礼を欠くもの。非はそなたにある」

祖母井が言葉を重ねる。

「その通りじゃ。無理を通すと言うのならば我らとて容赦はせぬ。そうでござるな土居殿」

「おう。この土居清晴、弓矢にてお相手を致そうぞ! それでも無理を押し通されるか!?」


 次郎が笑みを浮かべ、御屋形に向かって深く頭を下げた。

「御屋形様、申し訳ありません。かかる仕儀と相成りました」


 正重は静かに頷き、声を張り上げた。

「よい。楠予家は宇都宮家・西園寺家と弓矢にて決着をつける。

 祝賀の場を乱したのは両家の使者、その責は主に帰すべし。使者殿はその旨を主に伝えられよ」

「「なにっ!!」」


 広間の空気は凍りつき、祝賀の場は楠予家の宣戦布告の場へと変わった。

 次郎は口元に笑みを浮かべた。


 祖母井之重も土居清晴も計算違いをしていた。楠予家は拡大につぐ拡大で、河野家を吸収して21万石の領土を得た。ゆえに領内は不安定で戦をするには、早くとも2年はかかると読んだのだ。


――だが実際は違った。


 楠予家では過去、越智家平定の際に急激な領土拡大のため停滞せざるを得なくなった時期を反省し、改善を進めていた。

 重臣の下にある家臣層を統治部と軍部に分け、まず内政に向く者を選んで領国支配を専門とする統治部(行政・内政担当)を設けた。そして残りの家臣は軍部(戦闘・防衛担当)とし、分業体制へと切り替えていたのである。


 ゆえに軍部はいつでも戦争を開始でき、統治部は学校教育制度が軌道に乗り始めていたため、質にこだわらなければ統治に必要な人材をいくらでも確保できた。


 祖母井と土居は、一般常識に囚われ、強気で祝賀の場に臨んだ。彼らが長年積み上げた経験と知恵は、楠予家には通じなかったのである。


――そのため祝賀の場は、両家にとって思いもよらぬ「戦の宣言の舞台」と化した。


 祖母井之重は顔を紅潮させ、拳を握りしめた。

「おのれ……楠予家のこの無礼、必ず報いを受けさせてやる!」


 土居清晴も扇を叩きつけるように閉じ、声を荒げた。

「祝賀の場を戦の宣言に変えるとは、前代未聞! 覚えておれ、正重!」


 二人は憤然と立ち上がり、畳を踏みしめる音を響かせながら広間を後にした。背には怒りと屈辱が滲み、去り際に振り返ることもしなかった。


 広間には静寂が戻り、重臣たちは冷ややかにその背を見送った。

 次郎は口元に笑みを残し、低く呟いた。

「……これでいい」


(古い武将は必要ない、ここで退場して貰う。俺の野望のためにも……)


 次郎の野望――それはカツオ節だった。

 カツオと言えば土佐である。だが伊予南部の西園寺領でもカツオが豊富に取れるのだ。それを知った次郎は西園寺家を滅ぼすと決めた。


 カツオ節は『出汁の王様』と呼ばれるほど多くの料理に使われる。例えば天ぷらに付ける天つゆも、本来はカツオ節を使った方が美味い。

 ただ、この時代のカツオ節は、現代のように硬く削るものではなく、まだ生乾きの荒節に近かった。当然、次郎は現代の技術を西園寺家に教えるつもりはない。

 次郎は琉球のように遠ければ交易によって互いの不足を補うと言う柔軟な発想力を持っている。 しかし基本的には手に入れられる物なら、全て手に入れて自国の利益にしたい――その器の小ささこそが彼の本性であった。


 両家の使者が到着する前には、次郎が正重に西園寺家討伐を進言しており、開戦が既に決定していた。かくして、次郎が後に心の中で『カツオ戦争』と呼ぶ、楠予家による伊予統一戦争が始まった。

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