番外編
久秀は生まれた子供に「春香」と名付けた。
その春香もよちよちと歩くようになり、ますます目が離せなくなっている。
ある日のこと、景浦道場の宇随と芝田道場の芝田が揃ってまま茶屋を訪れた。
「聞いたか? 将軍様の上洛の警護のために浪士を集めているらしい」
宇随の言葉に芝田が続ける。
「うちの道場にも来ましたよ。ただうちは初級の子供だけだと言ったら帰っていきましたが、後日また来て、俺に応募しないかと言うのです」
「ああ、うちも同じような感じだ」
久秀が春香を抱きながら口を開く。
「二人とも行くのですか?」
「いや、俺は行かないよ。お市がこれだし、将軍のために命を賭けるという気にはなれん」
腹の前で大きな弧を描いて見せた宇随の言葉に芝田が頷いた。
「俺も行く気はさらさらないんだ。なんていうかなぁ、今更感が半端ない。それよりお前の方にも来たんじゃないか?」
「いえ? 俺のところには話もないですよ? まあ、来ても行かないし」
芝田がほっと胸を撫でおろした。
「ほら、お前ってやたら幕府の偉い人達と知り合いだろ? 話が来たら断りにくいんじゃないかと思って心配してたんだよ」
裏から権左が顔を出した。
「あれ? 珍しい顔が揃いましたね。例の件ですか? なんだか腕に覚えにある連中が色めき立ってますよねぇ」
宇随がコクッと頷いた。
「権さんにも話があった?」
「ええ、三良坂様からの使いで胡蝶が来ましたよ。絶対に断れという伝言でした」
「そうか……かの方は先を読んでおられるのだろうな」
「私はここでお世話になると決めた時から剣を包丁に持ち換えましたし、投げ技もうちの使用人に絡む酔っ払い相手にしか出しません」
久秀が揶揄うように言う。
「そして得意の寝技はお朝ちゃん相手にしか出さないというわけだな?」
権左が真っ赤な顔をした。
芝田がすかさず声を出した。
「寝技……え? そういうこと?」
宇随が呟いた。
「まさかの縦四方固めとか? いやいや上四方固めもなかなか……」
宇随の後頭部を団扇で張り倒したお市が、大きくなったお腹を擦りながら声を荒げた。
「なにをバカなことを言っているんですか! 店先で昼間っから!」
「あ……ごめんなさい……」
ぷりぷり怒って裏に行ってしまったお市を追って、宇随が腰を上げた。
久秀が権左に向き直る。
「で? 祝言は挙げるのだろ?」
「いえ、お朝が嫌がるのですよ。顔の傷が気になるといって。まあ私はどちらでも良いので、お朝のしたいようにさせるつもりです」
「そうか、まあ身内だけ集めてここでやるっていうのもオツかもしれんぜ? 咲良が言っていたが、やはり花嫁衣装というものは女のあこがれなのだそうから」
そんな話をしていると、店先にぬっと大き影が差した。
「あれ? 高杉さんじゃないですか」
「久しいな。息災なようで何よりだ」
「再戦ですか?」
「いや、少々事情が変わったので話しに来たのだが、今は良いだろうか」
「もちろんです」
そう言うと久秀は咲良を呼んで春香を託した。
高杉に微笑みながら会釈をした咲良が、春香をあやしながら奥へ消える。
「相変わらず凛とした美しい人だ」
高杉が咲良の後姿を目で追った。
「だめです。見ないでください。減ったらどうするんですか! 勿体ない」
久秀が大真面目な顔で高杉に言った。
「……お前は相変わらずのようだ。羨ましいよ……なあ、安藤。いや、三沢だな。再戦の話なのだが、少々先延ばしを頼めないか? それと俺の練習に付き合ってもらえないかと思っているんだが」
芝田と久秀が顔を見合わせた。
権左が横から口を出す。
「旦那さん、奥座敷へ行きましょう。ここは目も耳も多いですから」
三人は頷いて立ち上がった。
奥座敷に上がったところで宇随も加わる。
口を開いたのは高杉だった。
「俺は浪士組に加わろうと思っている。門弟も全員参加の意向だ」
三人は眉間に皺を寄せた。
「俺は残念だがこの道しか知らんし、この道しか残っていない寂しい男だ。俺にとっておそらくは最期の機会だろう」
久秀が静かに言った。
「それは高杉さんが決めることですから。否も応も言いませんよ。でも俺たちは行きません。ついさっきその話をしていたところなのです」
高杉が頷く。
「ああ、お前たちは守るものがあるからな。行くなんて言ったら止めようと思っていた。そこで先ほどの話だ。再戦は俺が無事に戻ってきてからにしてもらえないだろうか。今お前にやられると参加できなくなってしまうだろ?」
宇随が小さく言う。
「やられる前提ってどうなんだ?」
高杉が明るい声を出した。
「いや、やられるだろう。俺は日々腕を磨き続けているが、こいつは茶屋の旦那をやりながらなお、この域を保持しているんだ。普通に無理だろ」
久秀が言った。
「俺も鍛錬は欠かしてないですよ。いつ高杉さんとやるのかと思うと手は抜けないです。道場には行っていないというだけだもの」
「何をしているんだ?」
芝田が興味本位で口を開いた。
「座禅とか言うとカッコいいでしょ? でも違います。子育てと女房孝行に真剣に取り組んでいます。あっ今笑ったでしょ。でもねこれは本当に修行になるのですよ。高杉さん、わかります? 咲良と春香は、おれより全然弱いでしょ? ちょっと押せば転ぶし、命さえすぐに奪えるほどの弱さだ。でもその二人が、圧倒的な存在感で俺にのしかかってくるんです。振り払うと殺してしまうし、言いなりになれば良いというものでもない。これはもう修行としか言いようがない」
高杉が目を丸くしている横で、宇随と芝田は腕を組んだまま何度も頷いていた。
「……何というか……わかるようでわからんというか……まあ、そこでだ。お前の飛竜剣を俺や門下生の前で見せてもらいたいのだ」
「ああ、良いですよ」
久秀が軽い口調で頷いた。
三人が拍子抜けしたような顔を久秀に向ける。
「俺はね、飛竜剣など奥義でも何でもないと思っています。それで言うなら、失礼だが虎翼剣も同じだ」
高杉が眉間に皺を寄せた。
「どう意味だ?」
「俺ね、山本の最期の言葉で気付いたのです。凪というあの言葉ですよ。凪は海と陸の温かさが同じになったほんの瞬間にしか発生しない。言い換えるなら生と死だ。生への執着と死への無常感、この均衡が凪です」
宇随がポツンと言った。
「虚心坦懐か……欲を全て取り払うのか?」
久秀が首を傾げる。
「いや……どうだろう。俺は欲の塊のような男ですからね」
高杉が聞く。
「お前の欲とはなんだ?」
久秀が即答した。
「咲良と新之助と春香が生きていることです。このためなら俺は何でもしますよ。言い換えるならそれ以外はどうでも良いんです」
「それがお前の強さか……いやぁ、なんとも清々しいな」
久秀がニコッと笑った。
春香が部屋に入ってきて、宇随と高杉の背を伝いながら久秀に手を伸ばす。
その手を引き寄せて抱く久秀の顔は、当代随一の剣客とは思えないほど穏やかだった。
「俺はいつでも良いので、都合を知らせてください。宇随さんも芝田も行くでしょ?」
二人は大きく頷いた。
それからすぐに酒宴が始まり、お嶋やお市も参加した。
お朝の家で暮らしている女たちも呼ばれ、その日のまま茶屋は賑やかだ。
数日後、高杉が受け継いだ道場で、芝田相手に飛竜剣を披露した久秀。
高杉も虎翼剣で宇随と相対した。
「俺が死んだらこの技は終わるのだな」
高杉の言葉に久秀が返す。
「それで良いんじゃないですか? 俺たちには、この技のために生きていた時代が確かにあります。それは誰のためでもない、自分のためだったはずだ。死ねば終わり。それで良い」
四人の剣客たちは、それぞれが過ごしてきた激動の青春時代に思いを馳せた。
時は1862年。
江戸幕府が260年という歴史に幕を下ろすまであと5年という激動の時代。
番外編 おしまい
これで完結です。
最後までお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました。




