最終話
お嶋の差配で用意された白無垢を身に纏った咲良の美しさに声を失ったのは、久秀だけではなかった。
紋付袴で並んでいる宇随もお市も目を丸くしている。
柴田から芝田に改めた研吾も妻子と共に口をポカンと開けていた。
大門から男衆が出てきて長持唄を唄いだす。
先頭を歩くのは仲人を買って出た駒井信義夫妻だ。
咲良の手を引きながら久秀がそれに続き、その後ろを新之助が歩く。
親族として並んだのは宇随とお市、そして芝田夫妻と娘の彩音。
三良坂弥右衛門と岩本権左がしんがりを務めた。
それぞれが舟に乗り、山谷堀から大川に出て源森川に入る。
目指すは芝田道場だ。
舟から降りる時も、ちょっとした坂を歩く時も、久秀は常に咲良を気遣った。
三々九度の盃を交わし、柳屋から特製の祝い膳が届けられる頃には、すでに宴もたけなわという状態だ。
お市とお嶋が舞い、三良坂が唄う。
駒井が酒を注いで回り、彩音と新之助は夢中でごちそうに箸を伸ばしている。
「ねえ、咲良。家はどうする?」
置き去りになった格好の新郎新婦が顔を寄せた。
「今のままでは狭いでしょうか」
「俺は良いのだけれど、新之助の教育には悪いかなって思ってね」
「なぜですか?」
「だって……俺たちは新婚だぜ?」
「あっ……」
「ね? ちょっと拙いでしょう?」
「もう! 存じません!」
咲良が真っ赤な顔で横を向いた時、宇随が声を掛けた。
「なあ、久秀。お前って道場とか開くつもりがあるのか?」
久秀が眉を下げる。
「無いですよ。俺は久さんで十分ですし、できれば咲良と一緒にやりたいこともあるんです」
「やりたいこと?」
「ええ、まあそれは追々相談しますが、何かありました?」
「うん、日知館から文が来てな、代稽古を頼んでいた奴をそのまま使ってもらおうかと思っているんだ」
「宇随さんはどうするんですか?」
「俺は……景浦道場を再建したいと思っている」
「ああ! 良いですね。小夜さんも居場所もわかっているから買い上げることもできますね」
「うん、それでお市と所帯を持つつもりだ」
「大賛成です」
ニコッと笑って宇随が席を立つ。
「なんだか全部終わった気がします」
「そうだね。なあ咲良、やっぱり広い家を探そうよ」
「もう! 存じませんったら存じませんわ!」
宴は西の空が茜色になるまで続いた。
それから数日、芝田道場に泊まり込んでいた新之助が戻って来た。
安藤から三沢に変わっても、久秀と咲良の日常に変化はない。
やっと歩けるようになったお朝が顔を出し、あの家は売ったと告げた。
買ったのはどこかの商家の隠居らしく、吉原から引かせた太夫を囲うという話だ。
「元手はできたからね、この近くで家を探そうと思っているんだよ」
「この近くで?」
「ああ、年季が明けても行く場所がない女は多いからね。そんな子達を住まわせてやろうと思っているんだ。ゆっくり行き場を探させてやりたいじゃないか」
「ああ、良いですねぇ。それなら私もお手伝いができそうです」
「そうかい? そいつは願ったり叶ったりさ。でも久さんが許すかね?」
「それは大丈夫ですよ。だってあの人お朝さんと同じことを考えていましたから」
「そうなの?」
「ええ、体をはって私を庇ってくださったお朝さんには大恩を感じているのです。それは私も同じですよ。あらためてお礼を申し上げます」
お朝が顔の前で手を振った。
「冗談じゃないよ。悪いのは富士屋の旦那だ。あれっきり逃げちまって卑怯な男だったよ。あたしの方こそ申し訳なくて仕方がないさ」
家を探していた久秀が、丁度良い物件があったと駆け戻ったのはそれから数日後のことだ。
吉原に出入りをしているお店が集まる一角で、持ち主は三味線と謡を太夫たちに教えていた師匠らしい。
高齢を理由に引退し、在所の板橋に戻るというのだ。
「格安でね、ちょいと足りない分は祝言の時にいただいたご祝儀で賄おうかとおもっているんだ」
「それはようございました」
「もう空き家だからすぐにでも引っ越せる。ここはお嶋さんに言ってお朝さんに譲ってはどうだろうか」
「それは良いですね」
話はトントンと進み、久秀たちが引っ越しをする日になった。
お嶋は寂しがったが、久秀の考えを聞いて賛成してくれたのだ。
「あそこで茶屋を開くのはとても良いと思いますよ。それにお市さんも手伝うって聞きましたよ? 咲良さんとお市さんが並ぶのだもの。お客が溢れて仕方がないのじゃないかねぇ」
「俺も出るぜ? だから絶対に悪い虫は近づけないさ」
「何をお言いだよ。久さんが出た日には女で溢れかえっちまうさ。でも誰がいたばをやるのかえ?」
「権さんとお朝さんだよ」
「ははは! 最強だねぇ」
柳葉は身請けをされて商家の妾になった。
胡蝶は病死という形で吉原から消え、三河屋のもとに戻っている。
久秀たちが始めた茶屋の名は『まま茶屋』と決まり、初日から大盛況が続いている。
新之助は毎日道場へ通い、ますますのめり込んでいるようだ。
今日は休みというある日、朝寝を決め込んでいる久秀に咲良が聞いた。
「そういえば高杉様との再戦のお話は?」
「まだ高杉さんの傷が万全じゃないらしいよ」
「ずっと治らなければいいのに」
「ははは! だったらずっと決着がつかないじゃないか」
「別に良いではありませんか。だってあなたはますます死ねない体になったのですよ?」
久秀が顔を上げる。
「死ぬ気はもとより無いけれど、何かあったの?」
にっこりと笑った咲良が自分の腹を擦ってみせた。
それから半年、今日も朝から久秀と新之助の間で赤子の取り合いが勃発していた。
「父上はお昼もずっと一緒でしょう? 朝くらい良いじゃないですか!」
「だめだ! 先ほどから新之助ばかり抱いているじゃないか!」
全てが落ち着くところに行きついたかのように、幸せな毎日が過ぎていく。
二人の声を遠くで聞きながら咲良は店先から空を見上げた。
「全部夢だったみたい」
「母上、道場に行って参ります」
「はい、気を付けて行ってきなさい」
駆け出す新之助の背は、咲良よりも三寸ばかり大きくなっていた。
おしまい




