極めた者
研吾が子供たちを庭に並ばせて素振りをさせている時、縁側に座った久秀に宇随が話しかけた時のことだ。
「なあ、お前が柴田を圧したとき焔が見えたんだ。何を考えていた?」
久秀が少し考えてから声を出した。
「あの時は……俺がこいつを殺してはいけないと考えていましたね。動きを制圧しつつ殺さないようにするにはどうすれば良いかってね」
「不殺剣か。そりゃまた難解なことを」
「殺したいのに殺せないっていうか? でもね、宇随さん。そのうちに考えるのに飽きるんですよ。なんていうのかな……脱力? するとね、相手の動きがものすごくゆっくりに見えました。相手だけでなく、自分以外の全員の動きがね」
「景浦先生に聞いたことがあるな……『神速』っていうやつ」
「え? あれがそうなんですか? 俺はてっきりみんな疲れて緩慢になったのだと」
「相変わらずアホだなぁ、お前は。そんなわけないだろ?」
「ははは! でもね、遅いと感じている間は風も音も無いのですよ。なんていうのかな……ああ、そうだ。凪だ」
「凪か。どうやったら到達したんだ? 呼吸か?」
「それがわかれば再現できますよ。あれからずっと追い求めているのですが、なかなか……」
「そうか。そりゃそうだよな。あの時のお前は、ものすごく大きく見えたよ。岩? そんな感じ」
「岩ですか? 動きが鈍そうじゃん」
「言い方が難しいな……強風を受け流し、背中など隙だらけに見えて隙が無い? ああ! 分からん」
「背中……ああ、そうかも。俺の背中には新之助が控えていたでしょう? 新之助だけは絶対に守ると思っていたから、わが身を盾にしても絶対にって」
「わが身を盾に? おいおい、今度は捨て身剣か? いろいろゴチャゴチャ考えると動きがバラバラになりそうだが」
「ええ、だから考えるのに飽きるのですよ。もういいやって思った瞬間、心が凪ぐ」
「心が凪ぐか……遠いな……」
思考の渦から抜け出した宇随は、咲良と楽しそうに話している久秀に話しかけた。
「なあ安藤。凪ぎって江戸って何刻くらいなんだ?」
「凪ですか? 伊勢にはありましたが江戸にもあるんですかね。気にしたことも無かったな」
咲良が口を挟んだ。
「お風呂の準備をしている時に、なんどか凪だと感じたことがあるので、暮れ六つくらいでしょうか。凪という字は風が止まると書きますよね。不思議に思って子供の頃に手習いの先生に聞いたことがあるのですが、海風と陸風の温かさが同じになると風が止まるのだそうです」
「海風と陸風の温かさが?」
宇随と久秀が顔を見合わせた。
「なあ、咲良さん。夕餉前の散歩などいかがかな? お市も誘ってやろう」
頷いた咲良がお市を呼びに立つ。
宇随が久秀に話しかけた。
「今、何気に極意が見えたような気がした」
「俺もです」
嬉しそうな顔をしたお市が、襷がけを外しながらやってきた。
赤ままちゃに失敗したお市は、このところ板場に入り浸って料理を習っているのだ。
お市が宇随に並び、杖の無い方の手を握った。
それを後ろから並んで見ながら、久秀が咲良に言う。
「いいなぁ……ほら、あれ見て? 手を繋いでる」
「繋ぎたいのですか?」
「うん、俺はいつだって咲良にくっついていたいと思っているよ?」
恥ずかしそうに俯いた咲良だ、自分の指先を久秀の手に沿わせた。
その手をギュッと握って久秀がにっこりと微笑む。
「やたっ! 嬉しい!」
宇随とお市は振り返りもせず歩いてゆく。
日本堤は田畑より数段高いので、周りに遮蔽物もなく、いつも風が吹いている。
「あら? 風が……」
お市がそう言って立ち止まった。
「うん、風がないな。これが江戸の凪か」
宇随が驚いた顔で天を見上げた。
ふと見ると、いつも小さく揺れている見返り柳の葉が、見事なほど止まっている。
周りの人たちは歩いているのに、なぜか音が聞こえないと久秀は感じた。
絵草子の綴りをパラパラと捲っているようで、不思議な気持ちになる。
どれほど佇んでいただろうか。
久秀は柳の葉が揺れた音を確かに聞いた。
「あ……終わった」
微動だにしていなかった宇随が振り返った。
「聞いたか?」
「ええ、聞こえました」
「あれか……」
「あれです」
男たちの会話など気にもせず、女たちは堤脇の茶屋へ入っていく。
店頭で水に浮かんでいる葛餅に餡子ときな粉をまぶしてもらっているその姿は、まるで幼い少女のようだと久秀は思った。
「幸せにしてやりたいなぁ……」
死を賭けた戦いを間近に控えている久秀のその言葉に、宇随は返す言葉を持たなかった。
土産を買って帰路につくと、柴田が来ていて一緒に夕食をとるという。
「どうした? 妻子に逃げられたか?」
柴田が困ったような顔をした。
「違いますよ。一緒に来ていますので、ご心配なく」
「ではどうした?」
「駒井様から使いが来ました。集まっているようにとのことです」
「なるほど……」
いつものように厨房横の板場で車座になり、主従の関係のない夕食が始まる。
宇随の横にお市がへばりつき、咲良を挟んで久秀と新之助が並ぶ。
柴田は相変わらず妻子にくっつかれて笑っている。
なんだかんだと文句を言いつつも、留守の旦那に陰膳を据えるお嶋。
この何気ない日常が、愛おしくて仕方がないと久秀は思った。
「ごめんください」
あらかた食事も終わり、お市と咲良が買って来た葛餅を並べていた時、玄関から三河屋の声がした。
「はぁい、ただいま」
権左が立ち迎え入れる。
使用人にお茶を準備させながら、お嶋が座敷に案内した。
入ってきたのは三河屋こと三良坂弥右衛門と駒井信義の二人だ。
「時間も遅いので、早速始めますね。場所と日時が決まりました」
三良坂弥右衛門の声に、咲良は気を失いそうなほど緊張した。
駒井が続ける。
「あちらからは山名藩の道場でと申し出があったのですが、もちろん蹴散らしました。場所は北町奉行所の与力番所前の庭です。ここなら絶対に邪魔は入らないですからね」
そこまで一気に言うと、駒井は出された茶器に手を伸ばした。
「立会人は大目付代理として三河守三良坂弥右衛門、北町奉行佐々木 顕発と火付盗賊改め方長官駒井信義です。北町奉行は事情も知らずに訴状を受けたことを大いに反省しておりまして、是非にと言うので顔を立ててやることにしました」
久秀が口を開く。
「して、日時は」
「五日後の五つです」
「承知した。必ず参ります」
迎えの籠に乗って去って行く二人を見送ったお嶋がその場に頽れた。
手を差し出した権左に支えられながら立ったお嶋が呟いた。
「神様、仏様、お地蔵様、お狐様……どうぞどうぞ久さんを無事に咲良さんのもとに返してやっておくんなさいまし……どうぞどうぞ……おねがいしますよぉぉぉ」
権左もギュッと目を瞑り、心の中で一心に祈った。




