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どぶに捨てた

 たったさっき走ってきた道を急いで戻りながら、久秀は己の甘さに歯嚙みをしていた。

 今日すぐに拉致される可能性だってあったにもかかわらず、『今日は様子見だけのはず』だと思い込もうとしていた自分を殴り倒したい。

 久秀の中では、咲良が命がけで探り出してきた情報を柳葉に突きつけて、真相を話させるつもりだったのだ。


「なんと甘いことを……咲良は俺の甘さを見切っていたのかもしれないな。本当に情ない」


 昨夜の咲良とのことを思い出すと頬が火照るが、それさえも彼女の覚悟だったのだと思うと、己の迂闊さに吐き気を覚える。


「女の覚悟とは、かくも壮絶なものなのか」


 男は簡単に命を賭けるが、女は違う。

 女という生き物はここぞという瞬間を見極めたら、命を捨ててかかるのだ。


「まさに子を産むということがそうなのだろう」


 男たちは命を賭けて戦うが、そこには必ず生き残るという意思がある。

 そうでなければ戦うことなどできやしない。

 妻のため子のため、主家のため友のため。

 その理由は様々だが、必ず生きて戻るという思いが無いと、敵に相対するなど無理だ。


 ところが女たちはどうだ。

 いざというその瞬間まで、その身の内に隠した覚悟は出さない。

 しかし、今がその時だと悟った時には、男よりも数倍あっさりと命を捨てる。

 死んで当たり前、生きて戻れば上出来……命を賭けるのでは無く、命を捨てる。


「敵うわけがない」


 すでに顔見知りになっている大門の番人に片手をあげて見せ、久秀は一直線に肥後屋を目指した。

 途中で座頭の手を引く男とすれ違う。

 なぜか久秀はその座頭が柳葉にツナギをつけた本人だと確信した。


「ちょっといいかい? ねえ座頭さん。俺は富士屋の使いのものだが、もう渡してしまったかね?」


 座頭が戸惑っている。


「ちょいと日時が変わっちまって、焦って追って来たのだが……どうやら遅かったようだね」


 富士屋という屋号を出したことで信じたのだろう。

 座頭が口を開いた。


「今日のは富士屋さんからではないと聞きましたが?」


 久秀の口角がきゅっと上がった。


「今日のは恋文だったのか? おかしいな。俺は富士屋に頼まれたのだが」


 恋文だと匂わせたことで、座頭はホッと息を吐いた。


「今日はそちらだと聞いておりましたので。文はもうお渡ししましたよ」


「返事は?」


「ございませんでしたねぇ」


「そうか。やはり俺が直接行って訂正してこよう。ご苦労だったね。気を付けてお帰り」


 座頭と手を引く男が頭を下げて背中を向けた。

 久秀は気を抜かず、二人が大門を出るまで見続けた。


「ああ、久さん。忘れものだって? 知らせが来てるよ」


「そうなんだ。恋女房に作ってもらった大切なものなんだ。ちょいと上がらせてもらうよ」


「はいはい。久さんは相変わらずの愛妻家だねぇ。柳葉は茶を引いているから、なんなら話でも聞いておやりよ。気も晴れるだろうぜ」


 久秀は精一杯作った笑顔で頷いて見せて、階段を上がった。

 柳葉太夫の私室の前で声を掛けると、禿が顔を出した。

 話が通っているのだろう。

 真っ赤な揃いの着物を着た二人の禿がにこやかに迎え入れる。


「柳葉太夫、和ませの久様がおいでになりいしたよぉ」


 鏡の前で化粧を直していた柳葉がゆっくりと振り返った。

 久秀は何も言わず、じっと柳葉の顔を睨んだ。


「お前たち、ちいと混み入った話をするんだ。先におまんまをお上がっておいでな」


「はぁ~い」


 禿たちの足音が消えると同時に、久秀が柳葉の首にすっと手を回した。


「場所と時間は?」


 柳葉は余裕の顔で笑い声を漏らす。


「何のことだえ?」


「早く言え。一刻の猶予も無いんだ。俺はお前を縊り殺しても後悔はないぜ」


「あれまあ、恐ろしいことをお言いだねぇ。それが人にものを訪ねるお人のやることかね」


「良いから早く吐け」


「お前様はわっちを縊り殺しても後悔はないと言いなしたなぁ。わっちも同じでござんすよ。ここで死んだって後悔は無いんだ。やれるものならやってごらんな」


 クッと久秀が奥歯を嚙む音がした。

 柳葉が自分の首に回っている久秀の腕を撫でた。


「お前様がわっちの言うことをなんでも聞くと言いなるなら、教えないでもないですよぉ?」


「言うことを聞けだと?」


「へえ、わっちが死んだら何も聞けませんよぉ? 手紙はもう燃やしたもの」


 柳葉太夫が指をさす方を見ると、鉄瓶がのった小さな火鉢を目に入った。

 フッと腕の力を抜くと、柳葉がくるっと久秀の方へ振り向いた。


「ここでわっちが大声を出したところで、胡蝶が入ってきてわっちを刺すだけでござんしょう? どっちが良いかよくお考えになってくださんし」


「何を……俺に何をさせようと言うんだ」


「そうですねぇ……ああ、そうだ」


 そう言うと柳葉太夫はすっと立ち上がった。

 今日はお茶を引いているというのは本当のようで、緋色の打掛は衣文掛けに飾られ、その横に緞子の帯がおかれている。

 客が来ない日の太夫は、小袖に半幅帯といういで立ちだ。


 柳葉は立ったまま足を開いて、朱鷺色の小袖の裾を捲り上げた。

 久秀の前に黒々とした下萌えを晒し、更に大きく足を広げる。


「まずはわっちの股を潜っていただきましょうかねぇ。膝をついて犬のように」


 久秀は何の躊躇も無く四つんばいになった。


「なんだ、その程度のことか。そんなもの造作も無いよ」


 久秀が両手と膝で進み、柳葉太夫の足の間を通り抜けた。


「これでいいんだな?」


 目を見開いている柳葉は、声も出ないのか小刻みに震えている。


「バカをお言いでないよ。これだけで済むわけがないじゃないか」


 はぁと久秀が盛大な溜息を吐いて見せた。


「時間が無いと言っただろう。なんでもすると言ったんだから、本当になんでもするさ。でも次を最後にしてくれ。本当に急いでいるんだ」


 柳葉が捲り上げていた裾をおろした。


「お前様には武士の矜持というものがないのかえ?」


 久秀は表情も変えず即答した。


「そんなものはとうの昔にドブに捨てたよ」


 柳葉がガクッと膝をつき久秀を見上げた。

 

「わっち……いいえ、私を覚えてはおられませぬか? 安藤様」


 久秀は眉間に皺を寄せて柳葉の顔を凝視した。


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